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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

西馬音内盆踊り ~旅日記~10 旅の終わりに

2006年08月20日 | 西馬音内盆踊り

 西馬音内盆踊りの起源については、諸説あり、700年前に源信という僧が蔵王権現を勧請し豊年踊りを作ったという説や、400年程前、西馬音内城主の小野寺一族が滅んだ後、土着した遺臣達が亡者踊りを舞ったという説などがありますが、どこにも文書による記録はなく、定かではないとのことです。ただ古くから伝わる踊りには違いなく、かつては門外不出の幻の盆踊りでありました。 大宮で秋田新幹線に乗り、大曲駅で在来線に乗り換えると、直ぐにごさんねん駅という後三年の役がそのまま駅名になった駅を通り横手駅、湯沢駅へと向かいます。車窓から見る風景は過去の貧しい東北の寒村のイメージではなく、大手のチェーンストアーやビジネスホテルなどが目につき、全国が均一化しているとここでも実感した次第ですが、かつての東北地方は、冷害、旱魃による飢饉が周年で起こり、人々の暮らしは極めて厳しく、貧しいものでした。また女性達は男性優先の社会の元で過労働と様々な虐待を強いられた時代でもありました。江戸時代からの記録を見ると、やませ(東北特有の北東の風)による作物の成長不良により食べるものさえ、底をついた年も何度も何度もあったそうです。そういった厳しい時代に数百年間、休むことなく西馬音内盆踊りは引き継がれてきました。そこには我慢を強いられ、虐げられてきた女性達が年に一度、この盆踊りの最中にだけ、黒頭巾で顔を隠し踊る時間こそ、自己を開放できる唯一の機会であったと思われます。西馬音内盆踊りは送り盆の行事ですが、お盆に帰ってきた先祖や死者の霊と一体となり語り合い、踊り、そして送り出すということ。そして普段は人の為にのみ生きている自分がその時だけは、本当の自分に戻ることができる。この2つの側面があることにより営々と続けられたものと推測されます。 近代の音頭・がんけの踊り、そして端縫い衣装が現在通りに確定したのは昭和10年のことだそうです。それまでは、端縫いは中着として使われ、愛染衣装が主流でした。その年は秋田県の推薦で全国郷土舞踊民謡大会に参加し、これが契機で全国的に名前が知れるようになったそうですが、このときにそれまでいろいろな踊り方があったものを改良し、統一させ、衣装に端縫いも用いるようにして以来徐々に端縫い衣装が増えていったそうです。前年の昭和9年は特にやませが強く吹き、農作物は壊滅的なダメージを受けた年でした。この1年で山形県と秋田県の少女の身売りが60000人にも達し、人減らしのため男子は軍隊に志願させられ、人々の不安・不満が最大限に達していた年でもありました。そんな中、少しでも目を外に向けさせようと、行政が講じた措置がこの大会出場だったと想像するのは、それほど無理のない推測だと思われます。売られて行った子供たち、そして早く死んで行った子供たちの魂がお盆には帰ってくる。その子らと一緒になって踊るからこそ優しい踊りが出来ていったと思います。そんな事を思って見ると、艶っぽい踊りと言われる方もいらっしゃいますが、そうではなく、一人ひとりが心を込めて願いながら踊る一種の祈りの世界を垣間見る、そういった極めてストイックな美しさを感じさせるものではないのでしょうか。 また昭和10年に新歌詞を募集し、現在はその時の歌が主流だそうですが、もっとも優れた歌詞を数多く作った33歳の青年がその翌年、料亭に奉公に出されていた(身売りされていた)16歳の少女と心中したそうです。そんな時代だったんですね。 西馬音内盆踊りが長く伝統を守り続けたもうひとつの理由は、これは「おわら」やその他の文化的な伝統芸能全般に共通していることですし、貧困とは対極にあるもので、一見相反・矛盾しているようにも受け止められそうですが、豊かな地主階級の保護による莫大な資金力があったことが大きく貢献していることは間違えありません。大正時代の政府による風俗統制の波が一時こちらにも押し寄せてきましたが、奉公人の不満が募りまた家主もそれに反発し、すぐに元の踊りに戻って行きました。羽後町の西馬音内地区は特に地方有数の地主階級が多く住居していた場所だったそうです。本町通りにある黒澤家が当日開放され、中を自由に見学することができました。現在の当主の奥様がいろいろご説明してくださいましたが、往時の栄華をしのぶ大変立派な町屋つくりの民家で、奉公人も多数いた様子が窺えます。 抑圧されたエネルギーを開放する唯一の場とそれを保護し、育ててきた富裕階級の人々の存在が今の西馬音内盆踊りを守り続けていたといえるのではないでしょうか。 さて、国内では戦後の農地開放により、徐々に貧富の差も減り、人々の生活も安定してきました。現在では過去の貧しかった思い出を語る人も少なくなり、全国どこにっても、均一化されたサービスが提供され、国民皆中流意識が浸透しています。また貧しさから子供売ることもなくなりました。そんな中、こちら西馬音内盆踊りの現在はどうなっているのでしょうか。その象徴的な現象に端縫い衣装の流行が上げられます。全国的に見ても、娘の成人式に親が高価な着物を用意することが普通となっていますが、西馬音内盆踊りでもこれと同じことが起こっているそうです。可愛い子供には綺麗な衣装をと考えるのは当然の親の思いです。黒い頭巾をかぶる藍染の踊り浴衣の清楚な美しさよりも、豪華絢爛な端縫い衣装を選ぶ方が大変多くなってきているということでした。私のような観光客はその辺の事情は関係ありませんので、どうしても最初に色あわせの豊富な人目を惹く端縫いに目が行き、次いで非常に洗練された藍染衣装の美しさを見てとるのですが、以前はもっと彦三頭巾の方が沢山いたそうで、長く通われている方は昔はこうだったとおっしゃる方もいるそうです。私は人々がそれだけ豊かになってきている証拠ですし、こういった全国的な祭りは、伝統芸能とはいえ、日々時代のニーズにあわせて日進月歩進化し続けることにより高く評価されてくる時代ではないかと考えています。西馬音内盆踊りも保存会の皆さんが中心となり、旧来の伝統を守りつつ今後どういった風に変貌してゆくか楽しみに思えます。   羽後町や湯沢市での宿泊はかなり前に見つけておかなくては無理のようで、当日は秋田駅前のホテルを予約しておきました。そのため秋田方面行きの最終電車(臨時列車)に乗るべく10時30分過ぎに会場を後にしました。18日だけは湯沢駅までの無料のアクセスバス(羽後交通の貸切バス)が病院前から出ました。羽後病院は大きくどこからバスが出るのか迷いましたが、正面玄関に向かい左側の駐車場を挟んだの大きな道路にバスは止まっていました。バスは満員ではありませんでしたが、8割程度正シートが埋まっていました。10時50分予定通りバスは西馬音内を出発し、11時10分頃には湯沢駅に到着しました。駅ではJRの職員の方が出迎え、パンフレットを配っていました。 臨時電車は昔の特急車両を使っていました。指定席は埋まっていましたが、自由席は座れたようです。11時30分過ぎに湯沢駅を出発した電車は夜中の1時頃秋田駅に到着しました。

翌日は秋田駅から歩いて旧秋田銀行本店の赤レンガの建物(秋田市立赤れんが郷土館)などを見学に行きました。 赤れんがの建物は竿灯祭りが行われる竿灯大通りの近くにありますが、途中、川反(かわばた)と呼ばれる繁華街の裏に流れる旭川の景色が情緒がありました。

岡本新内が今にも聞こえてきそうです。

 

余談ですが、秋田の駅前通りで幻の稲庭うどんを限定で売っている店があり、食べることもできました。大変おいしかったです。 帰りは秋田から午後2時30分発の新幹線のこまちに乗り込みましたが、大曲駅でスイッチバック?があるため、進行方向が反対で発車しました。途中角舘や田沢湖で乗る方も多かったです。今回の旅行で特に感じたことは、店で応対する方からまったく秋田弁が聞けず綺麗な標準語が反ってきたこと。以前はどこに行っても秋田弁で話す方が多かったのですがここでも均一化された状態を見ているようで寂しいような気もしました。(田園風景は長野とまったく変わらないため、はるばる遠くに来たという実感がなかなか湧きませんでした~笑)ただどこへ行っても親切な方々ばかりでしたので、秋田はやはりいいところです。次回に行くときは、西馬音内盆踊りの優しく、美しい踊りの所作について、もう少し詳しく調べてみたいと思います。   最後に今回の写真で特に気に入った2つを載せたいと思います。  

次はいよいよおわらです。

これまでの記事を書くにあたって特に下記を参考にさせていただきました。

 「西馬音内盆踊り 公式ガイドブック06」

「西馬音内盆踊り--わがこころの原風景--」小坂太郎著(影書房刊)

「あきた町村長時報 羽後町 佐藤正一町長の随想」(平成11年9月号掲載)   

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