将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

全員参加じゃない卒業旅行

2008年10月17日 | 体育
もちろん、生徒さんの中にはまだ体力的、情緒的にこの徒歩旅行に参加できないと判定された子もおられたようで、一生に一度の事なのに全員参加がかなわなかったのはとても残念だった。

私立だからこそ期待した個別指導、個別対応は光の村でも難しいものがあると感じた。うちの近くの公立養護学校は9時から15時程度までの、昼間だけの限られた指導にもかかわらず、120人の生徒に対し、先生方が100人近くおられる。光の村は全寮制で、生徒44人に先生たちはわずか12人だ。仕方のないことなのかも知れない。

ただ、体育・作業を中心とした教育方法なので、遅い子も速い子もひたすらやらせる、追い立てるような事になりがちに見え、本当はここにこそ個別指導が入って欲しいのだが、集団行動を前提としているので、悲しいかな、かなわぬ夢のようだ。

動中静という言葉がある反面、静中動というのもあるような気がする。現にほとんどの子は運動で疲れるせいもあり、段々おっとりして行くが、うちの子に限っては当初1年間こそ目に見えて変わって行ったものの、2年目からはいつもせかせかと追い立てられているような、落ち着きのない傾向にどんどん拍車がかかってきたように思う。思春期というのも大きいだろう。それは130㎞歩いた直後とて同じだった。体力的にモンスターなのだ。慢性躁状態と言ってもいいのかも知れない。

将人の落ち着きは運動や作業など、体を動かす事だけでは得られないのではないか、そんな気がする。このままではいけない・・・。逆を言えば、光の村のご指導のおかげで、それくらい、普通の子に近づいてきたのだなと思う。

ただ、ランナーズハイまでは達したことがないように思うので、そこまでやらせてみたらどうかという気は残る・・・。しかし、それは実験に過ぎないとも思うし、ましてや自分から進んでやるならいざ知らず、療育のためにそこまでさせるべきかどうか・・・。押して駄目なら引いてみる、それも一計と思い始めた。

多動で困って困って困った果てに、光の村にお世話になることにした。要はじっとできるようにしたいのだ。

ならば、いっその事じっとする練習というのはどうか。たとえば座禅だ。これなら親も一緒にできる。特徴的な浅い呼吸も深い呼吸に変わるかもしれない。何より一緒に時間を共有するということが親子のコミニュケーションに何といいことか、この卒業旅行で実感させてもらった。

綺麗な女の人を見れば、いたずらっぽく「エッチしていいですか」と触るふりをするなら、「元気ですか」と言い直させてみよう。言葉の出なかった子が挨拶代わりに声がけしてるような一面もあるのだ。大人でも言葉の少ない人は決して珍しくない。気持ちは純粋でも、うまく言葉に出せず、失敗する人は将人だけではないだろう。

一緒に行動できず脱走するなら、児童虐待といわれかねないのをじっと忍んで、敢えて腰にロープを付けて、犬のように外出してみよう。




まだまだ出来ることはあると思った。諦めるのはまだ早い。

これまでの家庭学校は課題をこなす事に汲々としていただけだった。運動や作業を通じて、加減したり順番を変えたり、ある時は突っぱねたりしながら、将人の反応に反応するという、将人とコミニュケーションをとる事こそを第一義にすべきだった。それは甘やかす事でもないし、上意下達の命令受領機械を作ることでもないのだ。親も「教育」をしないといけなかった。当たり前のことだが、学校という「機械」を通せば、ところてんのように「まともな子」が出てくる事を漠然と期待してはいなかったか。

普通の子が非行に走るのは、家庭でのコミニュケーション不足が一因だとも聞く。まさに将人もそれではないかと思い到った。手をかけてやらないといけなかったのだ。今までは、課題さえこなしていけば光明が見えると盲信していたように思う。その真の意味を見違えていたと反省した。今度の家庭学校で早速やってみようと思う。

ここまで書いてきて、ふと気がついた。光の村でこれほどまでにお世話になりながら、どうして自分は一人で悩んでいるのだろう。まず先生にこそ相談すべきだ。一番身近で、少なくともこの3年間将人の事を一番よく知って下さっているのは親より何より先生の方じゃないかと気がついた。早速ご相談申し上げよう。

ややもすれば、130㎞歩き通したという事だけに気が行きやすいが、いつもはほんの1㎞散歩するだけでも、いろんなものに気を取られ、ふっといなくなったりしてしまうので、こだわりを抑えて、よくもがんばり通してくれた事に将人の大きな成長を感じた。

悲喜こもごも、3年間のいろんな思いを胸に秘めて、感謝と反省の気持ちを反芻した秋の日のウォーキングとなった。当初の計画を見た時、これは行軍だと思ったが、やはり立派な卒業旅行なのだ。


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