「タイ語には句読点がないの。
でね、動詞の活用もなく、過去や未来の助動詞をつければいいんだよ。
mameが大好きなタイの人たちの「ゆるさ」とタイ語の特徴ってやっぱり関係あるんだろうかね」
なんて話をSちゃんとしていたら、
「面白いから読んでごらん」と教えてくれた『ピダハン』。
すでに購入済みのSちゃんは送ってくれるといったけれど、図
書館に予約し(買わないところがmameの吝嗇なところ)、
先月ようやく借りられた。
ブラジルのアマゾン川の支流領域に住む、
人口わずか400人足らずだというピダハン族。
秘境に暮らす少数部族から、
幸福を決めるのは物質的な豊かさではないということを学ぶ、
とかいうことはさておいて。
とにかく面白くて一気に読んだ。
去年12月に放送されたというNHKの特集番組も観たかったなぁ。
宣教師として現地に入った著者が、
ピダハンたちに「数」を教えようとして、
でもやっぱり出来なかった下りなんか、ちょっと興奮した。
そう、彼らの言葉には数も数量詞も色彩を表現する単語もないけれど、
きちんと狩猟をして、幾分かの商取引もあり、子供も育てて、
要するに支障なく社会生活を送っている。(当たり前だが)
再帰構造をもたないので一文は短い。
けれど、みんなおしゃべりで、四六時中しゃべってはよく笑う。
ありがとうもごめんなさいも、相当する言葉がないけれど、
感謝や謝罪は行動で示され、人々は温和で、暮らしも平和である。
概念がない、ということと、
表現する言葉が存在しないということは、
イコールで結ばれるわけではないのか。
「言語の始まりは思考のため」という、チョムスキーの理論はこの際どうなる?
「だからね、チョムスキー派の学者たちが現地に入って、
自分たちの理論に沿ってピダハンの言語を構築させようとやっきになっているらしいよ」
とSちゃん。
ふーん。。。学者さんも大変なのね。
だけど、この本から知る限り、ピダハンたちは、
どんな人たちがいかなる手法で近づいてきても、
本質を変えることはない気がする。
そうであってほしいと勝手に思ってしまう。
mameも仲間にいれて~~
ふらふらふわふわと定まらぬ人生を送っているmameは
ここに描かれたピダハンの生き様が羨ましい。
民族の誇りなんて表現は彼らにはふさわしくない。
もっと自由で自立しているような気がする。
ピダハン語には、過去形も未来形もなく、
ピダハンたちは、可視的に確認できる事柄しか認めない
実存主義なんだという。
言葉に過去形・未来形がないということは、
時制の概念そのものがないということなんだろうか。
だとすると過去を悔やむことも、将来を憂うこともなく、
今だけを思って生きていけるということなんだろうか。
言語と思考って、どの程度のレベルで関わりあっているのだろう。
色彩を表現する言葉だけでも数知らず有する東洋の小国に暮らしながら、
今、この同じ時間をこの地球の反対側で暮らしている人々に思いを馳せ、
人間ってなんかステキ!世界は面白い!!と心躍らせる。
浅はかなmameには、学問的な気づきなんて到底出来ないけれど、
知ることも考えることも楽しいな、と思わせてくれる本と出会えたことは嬉しい。
ありがとうSちゃん。