四万十凸凹隊 ごぞまる絵日記

四万十川水系を中心に沈下橋を見て回りました

神明杉のひとりごと  その1

2013年04月26日 | ひとりごと

奈路の神明杉
四万十町東又に腰をおろしてすでに500年たってしまった
この頃は、ずいぶんだれてしまもうた。
この間、わしを慕う子らのお世話を受け、あちこっち体の痛いとこを直してもらった。
樹医というらしいが、これで後30年くらいこの地でがんばれるかもしれん
まあ、ちくと元気な内にわしが守り続けている東又の地について語っておこうと思う

案内板
この地は四万十川の支流が流れる穏やかな地であるが、水田が広がりだしたのはごく最近のことじゃ。
最近と言ってももう500年は,経つのじゃが
わしのじい様に聞いた話であるが、
じいさまは、高岡神社の横におってな
海からでもじいさんの頭のてんこすが見えたというぐらい大きかったと
5000年は、この地を見てきたと言っておった。ちくと大ボラのけがあるがの!
この地で人が住みだしたのは、じいさんが生まれたくらいより前らしい

その頃の人は、大川(四万十川)と支流が交わる地域の高台(河岸段丘)で小さな小川が流れているような所に好んで住んでおった
四万十川は、数百年に1度は流域全てを押し流す暴れ川じゃ
そんじゃきに高台じゃないといかんのよ!かといって四万十川から離れると不便なもんよ
大川で魚を取り、、支流の水を使い稲作や畑をする。日々の生活水は、集落を流れる小川で・・
この条件に合う地に集落を作っていた

何が言いたいのかと言うと
東又の地は、ちくとこの条件から離れている。支流はあるが、大川からちくと遠いじゃから
まあ、人が集まりだしたのは500年くらい前からじゃと思うとる。
余談じゃが「四万十川」は、昔「渡川」と言っておった。
四万十川と言いだしたのはごく最近じゃ!なんでもその方がうけがいいじゃと・・・・(;一_一)


東又の地図
500年前は津野さんが、この地を治めていた
昔から争いが絶えなんだ。
応仁の乱をさけて京都の一条さんが、土佐に逃れてきた。中村(四万十市)を目指しての船旅じゃが、
大波をさけて興津(四万十町)に入ったんじゃ

興津峠から見た興津の郷
興津がたいそう気に入ってのを直轄地に定めたんじゃ
公家いうても武士みたいなもんじゃからまあ~領地を広めようとするな
その当時こな辺を治めていた津野さんと争いになるはな
津野さん敗退じゃ(;一_一)
一条さんの天下じゃ
仁井田五人衆の東・西・西原・志和・窪川を取りこんで仁淀川から以西は全部領地にしてしもうた
じゃが、じきに長宗我部元親軍と戦争になった
一条さんぼろ負けじゃ
仁井田五人衆は、元親さんの配下になった
まあ~もう十数年、休まる日がないほど毎日あちこちでチャンバラよな(;一_一)

元親さんが治めるようになってやっと落ち着こうっと思った矢先
今度は、豊臣秀吉の朝鮮出兵じゃ
五人衆も長宗我部さんに従って行かないかんはな
ま~、とにかく1600年までだ~れも残らざった
みんな~、おらんなった(;一_一)
1600年に山内さんが高知に入って来た
      やっと落ち着いた??
水田の開墾ちゅうて忙しい毎日やった
この頃、わしもやっと100歳ぐらいになっておってのたいそう立派じゃったぞ(^O^)/
わしがおるところに神明宮いう遙拝所(ようはいしょ)があった
そうそう、忘れよった
わしのおる近くに親父もおってな
そのころ1000歳ぐらいじゃったが・・この頃の神明宮は、こじゃんと高い杉がぎょうさんおったんじゃ
そりゃ~りっぱじゃったぞ!
神明宮は、川向かいの十二社(熊野神社)に参拝できんときに拝むところじゃ
参拝できん理由は、いろいろあるじゃろうが一番多いのは、東又川の増水じゃ
なんぼ支流ゆうたち幅15m位あるき、大水の時は数日渡れんようになる
そんなときに神明宮で拝むんじゃ・・・・

ちくと話疲れたき休むき(;一_一)
起きたら続きをいうちゃる
東又を治めていた西原さんの話をしちゃろうと思うちょる
物忘れがひどうなって細かいところは違うかもしれん

・・・・その2に続くろうか??



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