えすみの日記

ふつーの主婦ですが、日本の未来を真剣に考えたい!

安全を金で買った国の末路

2010-11-08 21:32:25 | 国防について
最近

『戦うことを忘れた国家』黒野耐著

という本を読みました。

日本の安全保障について書かれた本です。

その冒頭で古代中国の宋について書かれいるのですが、とっても印象深かったので
引用して紹介したいと思います。

↓ここから

一〇世紀の中頃から一二世紀初めにかけて、中国大陸に傭兵と周辺国に金を払うことで安全を確保し、経済と文化の発展に専心したものの、結局はその周辺国に滅ぼされた宋(北宋)と号する王朝がありました。宋は皇帝の親衛軍の総司令官であった趙匡胤(ちょうきょういん)が、九六○年に開いた王朝です。趙はクーデターによって政権を奪取したものですから、同じように軍隊によって打倒されることを極度に恐れ、軍隊の力を弱める体制を作り上げたのです。

趙の軍隊弱体化策は、各地方を治めていた節度使の兵権を取り上げ、その兵力を削減するというものでした。二代目の太宗になると、節度使に文官を任命して軍を統括させ、節度使がその軍事・財政の要としていた鎮将(ちんしょう)も逐次に廃止して文官の民政官に交代させ、文官統制を強化しました。
軍隊を指揮統率する能力がない文官が勇猛な兵士を統御できるわけもなく、兵力も削減された結果、辺境の防衛力は著しく弱体化し、
北西の「遼(りょう)」やその西に位置した「西夏(せいか)」などの侵入を許すことになります。つまり、こうした国防政策は国民の国防意識を希薄にして、軍隊は傭兵で編成され、軍紀もゆるみ、兵士の士気も低下して、外敵の侵略に抵抗できない国家の体質をつくりあげてしまったのです。
そこで、宋は遼に対して毎年、絹二○万匹、銀一○万両の安保税を支払って不可侵を約束してもらいました。宋は臨戦態勢を維持して莫大な軍事費を注ぎこむよりは、これくらいで平和が買えれば安いと考えたのです。しかし、実際は軍備を整えて自国を守る以上にお金がかかり、国民の精神を著しく退廃させました。

遼の西にあった西夏が遼を制圧するようになると、宋は西夏に対して銀一万両、絹一万匹、銭二万貫、茶二万斤という安保税を払うことにしました。ところが四○年後には、銀七万両、絹一三万匹、茶二万斤を支払うことになります。

宋は一二六万の兵力を擁したが、その大半を傭兵が占める軍隊は、わずか三七万の西夏軍に勝てなかった。この軍隊に歳入の八割を費やしていたが、反乱を恐れて解雇することもできなかった。また平和のぬるま湯に浸かっていた国民は、兵役には応じようとしなかった。宋はこうした軍事的脆弱性のために、周辺国に金品などを貢ぐことで、かろうじて国家の安全を保っていたのです。

この西夏も一一二四年に金帝国に服属し、遼は翌年に滅ぼされました。宋は新たに出現した金帝国に金を払って安全を買いましたが、二六年に金帝国に滅ぼされました。

南方に逃れた欽宗皇帝の弟・趙構(ちょうこう)が翌二七年に南宋を再興したものの、性懲りもなく金帝国に金を払って安全を買いました。その金帝国も北方に興ったモンゴルによって征服され、南宋も世祖フビライ汗によって一二七九年に滅ぼされます。

結局南宋という国は、自国の軍隊を信用せずに忠誠心のない傭兵と敵国から安全を金で買うという、他人任せの安全保障によって滅ぼびさったのです。

この宋の安全保障に対する姿勢や考え方は、安全保障を経済援助という金で片付ける戦後日本の姿にいやになるほど酷似しているのです。旧日本軍が暴走したことを恐れるあまりに、自衛戦争をも否定した憲法を半世紀も墨守していること。実質的には日本の安全をアメリカに依存するという、現代版の傭兵に頼っていること。防衛政策を国政の最下位に位置付け、文民統制ならぬ文官統制で自衛隊を締め付けていることです。
↑ここまで。


ゾゾ~ッ(゜□゜;
本当にそっくりだわ!
日本は歴史から学ばないのでしょうか…

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