ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸・上市南崖の洞窟

2019-07-21 18:14:51 | 水戸

  明治35年につくられた「便覧水戸市全図」には、南崖の洞窟(半円形にへこんでいる所)が12個描かれています。写真には⑬まで書き込みましたが、この13番目は一番有名な偕楽園内にある洞窟で、なぜか地図には描かれていません。そして、私が見ることのできた洞窟は10個です。ほかにまだ残っていることを願っています。下の写真は東から順に並べましたけれど、地図と多少違っているかもしれません。笠原水道の石樋をつくるために掘削したという偕楽園内にある洞窟⑬以外はあまり深くなく、江戸時代以降に、居住や資材保存のために掘削されたというように思えるのですがどうでしょう。ただ、近寄れる洞窟はどれも水が湧いていて、人が住んでいたという話はいくつもありますが、住むのにあまり適した場所ではなかったようです。
 (後日 ④~⑦の洞窟は、⑬が掘り尽くされた明和元年(1764)から岩を切り出した跡であると前田徳之助の「水戸を語る」にありました。)

 

 地図の①~③にあたる洞窟(備前町2)ですが、あきらかに4つあり、地図には3つしかありません。この地図では崖下が村田牧場となっています。今の道路工事が行われる前に撮った写真です。

 

 地図の④~⑦にあたる洞窟(備前町7)ですが、見る限りでは2つしかありませんでした。「便覧水戸市全図」には「此辺岩(このへんのいわ) 明和年中(1764-1772)ヨリ切ル」とあります。そして、⑧~⑩までは、西の谷公園の入口左手付近のように見えるのですが見あたりませんでした。
 その後、みとぶらさんから情報をいただいきました。それによると⑧と⑨はあるということです。また、全部で13以上は洞窟があるそうです。

 

 地図⑩と⑪の間で、神崎寺の前を南北に通る古い方の道路のぼり口あたりに2つあります。この2つは地図にはありません。明治17年に開かれたというこの急なのぼり道は、正岡子規が水戸に入る時に通った道のようです。

 

 地図⑪の洞窟です。駐車場奥にあります。水がしたたり落ちていました。⑫の洞窟はわかりませんでした。

 

 地図⑬の洞窟(偕楽園 常盤町1-3-3)です。総延長が150mくらいあるそうです。主洞は50mくらいあり、奥には6m四方の深くて大きな水の溜まった縦穴があり、主洞の途中にはいくつも横穴が掘られているそうです。笠原水道の、地下で水を通す岩樋の素材を切りだした跡だそうです。

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水戸の地図 (1)

2019-07-20 20:14:33 | 水戸

 スマホのマップでほとんどは用が足りるようになってきたようですが、町なかにある地図にもまだまだ役目はあるようです。時代の違う地図を並べて見ると、町の変化がわかって、たいへん面白いものです。

 

水戸の城下町MAP(幕末版)(駅ビル内観光案内所など)
 文久元年(1861)「水府家御屋敷割図」や嘉永4年(1851)「好文亭四季模様之図」などを、今の水戸地図上に落とし込んだ、大変役に立つ地図です。地図だけでなくその他資料がいろいろ印刷されていてたいへん便利です。観光案内所などで100円で販売していますが、それ以上の価値が十分にある地図です。このブログは大変この地図のお世話になっています。水戸観光コンベンション協会の発行です。

 

地図と石の手(水戸駅駅北口ペデステリアンデッキ)
 助さん格さんを従えた水戸黄門像(写真右方)の脇にある地図ですが、よく見ると台の石は手の形になっているようで、印籠を持った感じにしているのでしょう。駅を出てすぐのところにも、絵入りの詳しい観光地図があります。

 

水戸古地図(五軒小学校 金町3-2-25)
 「徳川初期水戸武士小路明細図(寛文・延宝年間光圀時代古絵図)」がはられていました。古地図に今の施設名を書きこんだ地図で、弘道館敷地内にある売店で5000円で売っていました。

 

水戸市街明細地図(とらや書店 三の丸1-4-8)
 店頭にはられた昭和50年1月の水戸地図です。これは一昔前の水戸を知っている世代には懐かしくてたまらない地図でしょう。非売品というのが残念です。

 

水戸城下町絵図(ラ・フォンティーヌビル 泉町3-7-30)
 天明元年の地図をタイルで復元しています。古い町名がよくわかります。ビルに入って左の壁面にあります。

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水戸の神輿(5)

2019-07-19 20:12:58 | 水戸

  今回は、すべて、神社拝殿内に保管された神輿をのぞきこんで撮った写真です。たぶんどの神輿も眠ったままなのでしょう。こうした神輿の出番はもうないのでしょうか。また、つくられた年代が特定されれば、その時代にはやったスタイルが分かることでしょう。


 

素鵞神社(元吉田町245-12)
 神輿正面に鳥居をつけるのは、水戸では一般的なようです。

 

             

三湯神社(三湯町57)
 大人と子供の神輿なのでしょうか、2基が保存されていました。2基の神輿が保存されている神社はあちこちで見られます。

 

鹿島神社(田野町1273)
 田野市民運動場脇にある神社です。この神輿は、担ぎ棒を固定する器具が鉄製のようです。

 

須賀神社(県道52号線沿い 鯉淵町・新川橋西南約350m)
 かつがれなくなってかなり時間がたっているのでしょう。

 

春日神社(下国井町1574)
 まわりにしめ縄が張られていました。

水戸の神輿(4)

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水戸の伝説(6)

2019-07-18 19:08:26 | 水戸

東征神社(青柳町 県道349号線青柳信号北約100m)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)が青柳で乗り捨てた舟を住民が埋めて、そこを東征舟といって聖地にしたそうです。地元ではそこを「とうしが舟」といっているそうです。文化3年(1806)のひどい日照りの年に、思いあまってそこを掘りおこすと、大雨が降って田植ができたそうです。そでで住民は日本武尊をたたえて、東征神社を建てたそうです。掘ると水が湧きだしたとか、舟が出てきた(境内にある常磐尋常小学校長・石川淳撰文による石碑など)という伝説もあるようです。

 

牛塚(六地蔵寺 六反田町767)
 六地蔵寺の中興3世である恵範(えはん)は、多くの仏典・資料を収集したそうですが、それを運んだ牛が六地蔵寺に着くとまもなく死んでしまったそうで、その牛を塚をつくってねんごろに葬ったそうです。向かいの駐車場にある牛塚がそれだそうです。また、運搬の時に積み荷のバランスを取るために6個の石をいっしょに運んで来たそうです。そのうち2個が現存したそうで、それを「おごご石」と呼んだそうです。

 

屋号・甕屋(かめや)のいわれ(下国井)
 下国井に釣り好きな男がいて、那珂川に大洪水があった翌日、釣に行ったところ、川岸の崩れた所に砂金の入った壺を見つけたそうですが、その時にはすでに大部分の砂金は濁流に流されてしまっていたそうです。しかしその壺は、水を入れると立っていますが、空にすると倒れてしまい、少しずつ水を入れてゆくと次第に立ったそうです。これを聞いた徳川斉昭が望んだので献上したところ、望みを聞かれたので、代々残るものと答えると、甕屋という屋号をもらったそうです。

 

雀の孝行と燕の不孝(常澄)
 雀(すずめ)と燕(つばめ)は兄弟だったそうです。親が危篤になったときに、働き者の雀はすぐに駆けつけたので死に目にあえたそうですが、燕はおしゃれをしていてあえなかったそうです。神様は、雀は働き者で親孝行だから米や粟を食べてもよいが、燕は親不孝だから虫を食べなさいと言ったそうです。それから燕は「虫食い、土食い、口しぶい」と鳴くようになったそうです。

 

和尚と小僧
 けちな和尚がいて、小僧に隠れて餅を食べていたそうです。そっと帰って現場を見た小僧が、「ただいま」というと、和尚は餅を囲炉裏の灰の中へ隠したそうです。小僧はそっちへ行くと黒犬が、あっちに行くと赤犬がと言いつつ灰に火箸を差し込んでかいたので、餅がたくさん出てきたそうです。鼠がくわえ込んだのかなと言いつつ、和尚は小僧に餅を1個やったそうです。すると知恵のある小僧は、合わせ餅が好きだと言って2つ、綿入れ餅が好きだと言って3つ重ねて食べてしまったそうです。

水戸の伝説(5)

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水戸の稲荷(2)

2019-07-17 20:25:59 | 水戸

 

砂久保稲荷神社(新荘1-3-1)
 延享4年(1747)の創設で、はじめは個人の私祭社だったそうです。昭和20年の空襲で焼失し、水戸地方専売局にあった社殿を譲り受けて復興したそうです。今のやしろは平成22年に建てられたそうです。

 

下河原・稲荷神社(青柳町 後田第1街区公園東約50m)
 下河原のお稲荷さんといわれているそうです。那珂川が近くてたびたび洪水にあったそうで、史料はないそうですが、天正11年(1584)の洪水で祭神が流されて、流れついた大野村でそれを祀ったところ、その付近の松葉が青柳を向いたために旧地に戻されたといった伝説などがあるそうです。花柳界に人気のある神社だったようです。

 

天聖院稲荷神社(東桜川8-20)
 今の地近くの旧・新町にあった天聖院境内にあった稲荷だそうです。厄除け等のご利益があるということで参拝者の多い神社だったそうです。昭和25年に同じ新町にあった八坂神社と現在地で合祀されて、新町八坂神社・天聖院稲荷神社というかたちになったそうです。今の建物は昭和51年に建てられたそうです。

 

千束稲荷神社(酒門町4192)
 大正14年に笠間稲荷神社を勧請して中千束に建てられた比較的新しい神社だそうです。その地に陸軍航空通信学校が建設されることになり、今の地に移ったそうです。今の姿になったのは、拝殿が昭和48年、本殿が平成5年だそうです。

 

杓子稲荷神社(平戸町938)
 はじめは個人の私祭社だったそうですが、明治15年から一般の参拝が行われるようになったそうです。風邪をひいたときに、この稲荷の杓子をのどにあてると霊験があったそうで、治ったら杓子を2つ奉納するという習慣があったそうです。

水戸の稲荷(1)

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