ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の街路樹(4)

2018-04-25 20:05:04 | 水戸

 

サクラ(市道南町・千波線、吉沢町)
 道路沿いのレストランなどからのお花見には絶好の街路樹です。ここはソメイヨシノですが、多くが古木になってきているようです。

 

 

サクラ(百合が丘通り)
 ここのヤエザクラは、まだそれほど大きくなっていないようですが、そのうちに絶好の散策路になるのでしょう。

 

サクラ(市道337号線、新荘2)
 1本だけ残ったらしいオオシマザクラの古木がきれいに咲いていました。

 

アオギリ(国道118号線、末広町)
 大きな葉がしげって、日ざしや雨をよけるにはよい街路樹なのでしょう。

 

イチョウ(国道50号線 大イチョウから中央郵便局あたりまで)
 戦災に焼け残った大イチョウにちなんで植えられたのでしょう。

 

ケヤキ(三の丸小学校の南側、三の丸歴史ロード)
 中央郵便局方面から弘道館や、大手橋を渡って二の丸、本丸を散策する歴史ロードの一部に植えられています。

水戸の街路樹(3)

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水戸の酒の話(6)

2018-04-24 20:17:15 | 水戸

藤田幽谷
 藤田幽谷が主宰していた私塾・青蘭舎(せいらんしゃ)の文政元年(1818)、正月開校式で、来会の塾生と一緒に飲んで作ったという漢詩があるそうです。酒の部分は「講義の後の宴はまだたけなわにならない、つまみがなくとも、どんな酒でも飲んで、易経に関して語ろう」といった感じのようです。(違うかもしれません) 私塾は15歳以下の塾生が多かったようですが、すでに元服はすんでいる子供は多かったでしょうから、大人扱いだったのでしょうか。幽谷詩纂にあるそうです。写真は常磐共同墓地にある墓です。

 

藤田東湖
 藤田東湖は飾りのない人で、酒を飲んで、座敷で門弟2-3人を相手に相撲をしていたそうです。すると、老母が、「お前また始めたね、畳がすり切れてしょうがない」と小言をいうと、先生はペタリと座って両手をついてあやまるのだそうです。ところが、ふんどしをつけていないので、後から見るとお尻が二つ並んで、その下へ足を二つ重ねた様子が面白くて、塾生たちはクスクス笑っていたそうです。中川忠純氏口話にあるそうです。写真は、文京区後楽園にある、藤田東湖護母致命之処碑です。

 

安達清風
 「安政4年(1857)の正月。4日、豊田小太郎(天功の子、豊田芙雄の夫)達と痛飲。5日、那珂湊へ豊田達と舟で出て、巴楼で飲んで、さらに柳楼で飲んで泊。6日、寒いので朝6時ころから飲む。その後、海老屋で飲んで、また、柳楼で飲む。7日、先生の会沢正志斎に無断外泊を詫びると、先生は含み笑いをしていた。昼に豊田天功先生が来て夜半まで痛飲。」といった調子の日記です。お正月だからなのでしょうか、それにしてもすごいものです。水戸に遊学していた鳥取藩士・安達清風の日記だそうです。

 

林忠左衛門
 「水戸の人は酒をたしなむ人が多いようだ。私の師匠である中島歌子の夫・水戸藩士・林忠左衛門は、夕飯には3升ずつ飲み、友などが来ると1斗も辞さなかったそうで、あるときなど、山岡鉄太郎とともに1斗を飲んで、高下駄で箱根の山を越えたこともあったという。歌子に聞いたが、夫の酔った顔を見たことがないと語っていた。」などと、樋口一葉の日記にあるそうです。

 

佐藤中陵
 「箱の中に梅干しの肉を敷いてその上に半分開いた白梅を並べ、ふたに目張りをして夏まで保存し、暑いときに酒や白湯に浮かべて飲むと、馥郁(ふくいく)とした梅の香りが楽しめる。」そうです。本草学者・佐藤中陵の中陵漫録にあるそうです。写真は常磐共同墓地にある墓です。

水戸の酒の話(5)

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水戸の五叉路(6)

2018-04-23 21:06:37 | 水戸

 

堀町、市道渡里36号線と渡里48号線の交差点
 堀町・吉田神社近くにある信号を、南に入ったところです。

 

上水戸2、ストッカー上水戸店脇
 写真右手には、見えませんが100円ローソンがあります。

 

県道118号線桂岸寺に入る小路北側の小路
 写真中央奥へ行く右側二本は、常磐共同墓地に行く道です。

 

平須町、明光台団地入口バス停付近
 茨城町との境界あたりです。

 

大場町、常澄浄水場近く
 写真右手前の道は自動車が入れなくなっています。

水戸の五叉路(5)

水戸の5連続六叉路

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水戸の香取神社(1)

2018-04-22 20:08:29 | 水戸

 香取神社の本宮である香取神宮(香取市)の祭神は、経津主命(ふつぬしのみこと)だそうです。経津主命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)側の交渉役として武甕槌命(たけみかづちのみこと)とともに派遣されて、大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りを実現させたという武神だそうです。香取神宮は、大和朝廷が東北支配を目ざすための守護神でもあり、進出の拠点でもあったようです。おもに関東から東北にかけて400社ぐらいの香取神社があるそうです。
 徳川光圀が地震を押さえる要石を掘らせた(鹿嶋市の鹿島神宮にも同様の逸話があるそうです)とか、お手植えの桜があるとか、光圀のゆかりもあるようです。
 水戸には、香取神社という名称だけでなく、鹿島香取神社、春日香取神社、香取稲荷神社等、他の神社と合祀された香取神社がいくつもあります。

 

木葉下(木葉下町1)
 のぼりにくい高台の上にある神社です。木葉下(あぼっけ)の1番地です。村のだいじな神社だったのでしょう。

 

島田町2042
 建物に組み込まれた彫刻に相当気を配ったように見える神社です。

 

中大野716
 地図では香取神社となっていますが、地元の人はお稲荷さんといっていて、社前には狐が並んでいました。稲荷神社が合祀されているのでしょう。

 

大串町496
 ここは、シイやタブの古木が茂り、うっそうとした境内がかたちづくられています。

 

小吹町876-1
 たくさんの石灯籠が社前に並んでいます。枯れたらしく、掘り起こされたご神木の杉の根が保存されていてみごとです。

水戸の富士神社

 

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水戸にある神道式お墓の言葉(2)

2018-04-21 21:35:44 | 水戸

 神道式のお墓では特有な言葉が使われているようです。以下はそのいくつかです。どれも酒門の共有墓地で見たものです。

 

先考
 父親のことだそうです。

 

先妣
 母親のことだそうです。天保11年(1841)、孝子という文字も見られました。

 

帰幽
 亡くなったことです。幽冥の世界に帰るということのようです。

 

孝孫
 墓を建てた人が孫であるということのようです。

 

哀子
 本来は孝子と書くのでしょうが、哀しむ気持ちをあらわしているようです。明治21年となっていました。

 

不肖
 これは孝子と書くのを遠慮したのでしょう。哀子、不肖という書き方は、明治以降のもののように見えます。

水戸にある神道式お墓の言葉(1)

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