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水戸の見て歩き

水戸の酒の話(6)

2018-04-24 20:17:15 | 水戸

藤田幽谷
 藤田幽谷が主宰していた私塾・青蘭舎(せいらんしゃ)の文政元年(1818)、正月開校式で、来会の塾生と一緒に飲んで作ったという漢詩があるそうです。酒の部分は「講義の後の宴はまだたけなわにならない、つまみがなくとも、どんな酒でも飲んで、易経に関して語ろう」といった感じのようです。(違うかもしれません) 私塾は15歳以下の塾生が多かったようですが、すでに元服はすんでいる子供は多かったでしょうから、大人扱いだったのでしょうか。幽谷詩纂にあるそうです。写真は常磐共同墓地にある墓です。

 

藤田東湖
 藤田東湖は飾りのない人で、酒を飲んで、座敷で門弟2-3人を相手に相撲をしていたそうです。すると、老母が、「お前また始めたね、畳がすり切れてしょうがない」と小言をいうと、先生はペタリと座って両手をついてあやまるのだそうです。ところが、ふんどしをつけていないので、後から見るとお尻が二つ並んで、その下へ足を二つ重ねた様子が面白くて、塾生たちはクスクス笑っていたそうです。中川忠純氏口話にあるそうです。写真は、文京区後楽園にある、藤田東湖護母致命之処碑です。

 

安達清風
 「安政4年(1857)の正月。4日、豊田小太郎(天功の子、豊田芙雄の夫)達と痛飲。5日、那珂湊へ豊田達と舟で出て、巴楼で飲んで、さらに柳楼で飲んで泊。6日、寒いので朝6時ころから飲む。その後、海老屋で飲んで、また、柳楼で飲む。7日、先生の会沢正志斎に無断外泊を詫びると、先生は含み笑いをしていた。昼に豊田天功先生が来て夜半まで痛飲。」といった調子の日記です。お正月だからなのでしょうか、それにしてもすごいものです。水戸に遊学していた鳥取藩士・安達清風の日記だそうです。

 

林忠左衛門
 「水戸の人は酒をたしなむ人が多いようだ。私の師匠である中島歌子の夫・水戸藩士・林忠左衛門は、夕飯には3升ずつ飲み、友などが来ると1斗も辞さなかったそうで、あるときなど、山岡鉄太郎とともに1斗を飲んで、高下駄で箱根の山を越えたこともあったという。歌子に聞いたが、夫の酔った顔を見たことがないと語っていた。」などと、樋口一葉の日記にあるそうです。

 

佐藤中陵
 「箱の中に梅干しの肉を敷いてその上に半分開いた白梅を並べ、ふたに目張りをして夏まで保存し、暑いときに酒や白湯に浮かべて飲むと、馥郁(ふくいく)とした梅の香りが楽しめる。」そうです。本草学者・佐藤中陵の中陵漫録にあるそうです。写真は常磐共同墓地にある墓です。

水戸の酒の話(5)

コメント
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