彰考館とそこで編纂された大日本史は、歴史の流れの中でいろいろな変遷があったようです。それを時代順に並べてみました。
大日本史が編纂された彰考館は、徳川光圀により、初め明暦3年(1657)江戸駒込の別邸に史局として開設され、寛文12年(1672)小石川の藩邸(後楽園 文京区後楽1-6-6)に移されたそうです。写真はシビックセンターから見た後楽園です。
元禄11年(1698)光圀は71歳の時に、彰考館を水戸(旧二の丸)に移転させたそうです。
光圀の死後、彰考館は、元禄15年(1702)に水戸と江戸の並立にされたそうです。
徳川斉昭は、文政13年(1830)に彰考館を水戸に合併させて一つにしたそうです。
江戸時代が終わって、彰考館は、明治4年旧二の丸から弘道館(三の丸1-6-29)へ、さらに柵町旧中御殿へ、さらに、明治5年偕楽園東南端へ移されたそうです。写真は、水戸市観光協会が発行している「水戸の城下町マップ 幕末版」です。中御殿は、今の水戸黄門神社(三の丸2-4-42)のあるあたりです。
彰考館は、明治12年偕楽園南崖の中腹へ移され、ここで明治39年大日本史は完成します。それとともに彰考館は閉鎖されたそうです。
完成した目録を含めて231冊の大日本史を皇室に献上したところ、1.3万円の下賜金があり、それをもとに今の義烈館(常磐神社東側)あたりに明治42年彰考館文庫が建設されて、大日本史とその資料約7万冊が保管されたそうです。昭和20年戦災で彰考館文庫は焼失しましたが、見川の徳川邸収蔵庫に移されていた約5%は助かったそうです。
昭和38年徳川ミュージアム内に新設された彰考館文庫に、大日本史の資料は、新に加えられた資料とともに保存されているそうです。写真建物の背後にあるそうですが、見たい方は東京にある徳川ミュージアムで申込んでください。