ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の彰考館と大日本史のゆかり

2017-04-20 20:52:39 | 水戸

 彰考館とそこで編纂された大日本史は、歴史の流れの中でいろいろな変遷があったようです。それを時代順に並べてみました。

 

 大日本史が編纂された彰考館は、徳川光圀により、初め明暦3年(1657)江戸駒込の別邸に史局として開設され、寛文12年(1672)小石川の藩邸(後楽園 文京区後楽1-6-6)に移されたそうです。写真はシビックセンターから見た後楽園です。

 

 

 元禄11年(1698)光圀は71歳の時に、彰考館を水戸(旧二の丸)に移転させたそうです。

 光圀の死後、彰考館は、元禄15年(1702)に水戸と江戸の並立にされたそうです。

 徳川斉昭は、文政13年(1830)に彰考館を水戸に合併させて一つにしたそうです。

 

 

 江戸時代が終わって、彰考館は、明治4年旧二の丸から弘道館(三の丸1-6-29)へ、さらに柵町旧中御殿へ、さらに、明治5年偕楽園東南端へ移されたそうです。写真は、水戸市観光協会が発行している「水戸の城下町マップ 幕末版」です。中御殿は、今の水戸黄門神社(三の丸2-4-42)のあるあたりです。

 

 

 彰考館は、明治12年偕楽園南崖の中腹へ移され、ここで明治39年大日本史は完成します。それとともに彰考館は閉鎖されたそうです。

 

 

 完成した目録を含めて231冊の大日本史を皇室に献上したところ、1.3万円の下賜金があり、それをもとに今の義烈館(常磐神社東側)あたりに明治42年彰考館文庫が建設されて、大日本史とその資料約7万冊が保管されたそうです。昭和20年戦災で彰考館文庫は焼失しましたが、見川の徳川邸収蔵庫に移されていた約5%は助かったそうです。

 

 

 昭和38年徳川ミュージアム内に新設された彰考館文庫に、大日本史の資料は、新に加えられた資料とともに保存されているそうです。写真建物の背後にあるそうですが、見たい方は東京にある徳川ミュージアムで申込んでください。

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水戸の火の見(2)

2017-04-19 21:37:59 | 水戸

 火事が多いので、徳川光圀の時代に、木町という町名を火に強い金町という名に改めたり、綱條(つなえだ)の時代に、本新町(もとあらまち)を火を消す水である泉町と改めたというほど、火事は恐れられていたようです。斉昭の時代には、火消人足組合をつくったり、延焼を防ぐために、家を取り壊した場合、それに対する家作料を支給するようにしたそうですが、どのくらい実施されたのでしょう。この当時の火消しは、家を取り壊して延焼を防ぐ程度のことくらいしか実際にはできなかったようですから、早期の発見が大事だったのでしょう。それだけに火の見は重要な設備だったのでしょう。それにしても、あの吹きさらしの高所で作業をしたのですから、さぞかし大変なことだっただろうと思います。写真の火の見は、長時間の見張りがなくなってからつくられたものなのでしょう、普通に思い浮かぶ屋根つきではありません。

 

 柳河町(消防署11分団)  3本足でテレビアンテナやのぼり取付綱がついていました。

 

 赤塚飯綱神社向かい(水戸市消防団第13分団)  3本足で、のぼりが取り付けられるようになっていました。

 

 鯉淵町(二十六分団 鯉淵町中央信号近く)  3本足です。

 

 城東2-6-36(南消防署城東出張所)  4本足で、見張り台は外と比べて広そうです。前回見た時は修理中でしたので、現役なのでしょう。

 

 水戸市中河内町(中河内鹿島神社近くの五叉路)  4本足で避雷針がついていました。

 水戸の火の見(1)

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水戸の懸魚(1)

2017-04-18 21:57:07 | 水戸

 横にのびる建物の左右の側面部分を妻といい、その妻の屋根下の部分をおおって、横材(棟木や桁)の外に出ている部分を保護するとともに、装飾の役目も果たしているものを、懸魚(げぎょ)というのだそうです。かつて、実際に魚の形をしていた時代もあったようですが(日本には魚そのものの懸魚はないそうです)、水に縁のある魚を飾ることによって、火事から建物を防ぐ意味があったようです。

 

 鹿島香取神社本殿(青柳町434) この形は蕪(かぶら)懸魚というそうです。一番多い形だそうです。写真の文字は、懸魚の部分名称です。

 

 水戸城薬医門(三の丸3-10-13)  この形は猪の目(いのめ)懸魚というそうです。左右にあるハート形の穴を猪(いのしし)の目と見立てたそうです。

 

 香積寺(渡里町111)  この形は猪の目(いのめ)懸魚というそうです。

 

 宝蔵寺(谷田町633)  この形は猪の目(いのめ)懸魚というそうです。

 

 光円寺(酒門町52)  この形は三花(みつばな)懸魚というそうです。蕪などの形が3つついたという意味だそうです。

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水戸の女人講中 石像(4)

2017-04-17 21:41:01 | 水戸

 女人講中がたてた石仏は、子安観音といわれる、子どもを抱いた如意輪観音ばかりではなく、地蔵などもあるようです。今回はそれもご紹介します。

 

宮西共同墓地 赤塚(宮西児童公園前)
 安永5年(1776)と刻まれた石仏です。水戸には特定の寺に属していないらしい、地区の共有墓地がたくさんあり、入口付近に石仏がまつられています。この石仏もそうしたものの一つです。

 

安戸星公民館(飯富町)
 安永(1772-1780)の文字が見える石仏です。

 

道路脇(堀町565の道向かい)
 ここには、子安観音が二つと、奉唱光明真言供養塔がたっています。場所は道のわかされで、道祖神か猿田彦が祀られそうなところです。

 

香積寺(渡里町111)
 本堂に向って右方面にあります。文化4年(1807)、稲荷坪女人講中の彫りこみがあります。立っている像で、持っているのは宝珠かもしれません。墓地にある無縁仏群の中にも子安観音があります。

 

道路脇(萱場町163-10道向かいの小路を入ったところ)
 文化7年(1810)、萱場女人中と刻まれた地蔵像です。ここには、このほかに子安観音が二つと二十三夜供養塔があります。

水戸の女人講中 石像(1)(2)(3)
水戸の子安観音

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水戸の桜見どころ(7)

2017-04-16 20:58:53 | 水戸

丹下一の牧(見川町2131-165)
 徳川斉昭がつくらせた牛馬の牧場、「桜野牧」の土手に植えられたヤマザクラの一本で、斉昭お手植えの桜といわれているそうです。桜野牧は、明治になってから、士族の畜産業授産施設として利用されたそうです。

 

日吉神社(千波町)
 樹齢130年をこしたヤマザクラです。向かいの千波小学校のサクラとのコラボもなかなかのものです。樹皮には古木らしさがでてきています。

 

弘道館公園(三の丸1-6)
 かつて、藩校・弘道館の馬場があったあたりにある桜です。写真右は八卦堂で、鳥居は弘道館鹿島神社のものです。

 

祇園寺(八幡町11-69)
 写真は心越禅師廟前の桜ですが、駐車場、開山堂など、たくさんの桜があって春を楽しめます。

 

逆川緑地沿いの市道南町・千波線(千波町)
 写真では、多くがソメイヨシノのため、すでに花が散ってしまっていますが、満開のときは通るのが楽しくなる道路です。

 

旧町名 桜町碑(金町2-3-29)
 藩政初期には寺が多く置かれて、本木町の内だったそうですが、元禄7年(1694)に分離されて、武家屋敷地となり、桜町となったそうです。桜の木が多かったからだそうです。もちろん、桜はソメイヨシノではなかったでしょう。

水戸の桜見どころ(6)

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