火事が多いので、徳川光圀の時代に、木町という町名を火に強い金町という名に改めたり、綱條(つなえだ)の時代に、本新町(もとあらまち)を火を消す水である泉町と改めたというほど、火事は恐れられていたようです。斉昭の時代には、火消人足組合をつくったり、延焼を防ぐために、家を取り壊した場合、それに対する家作料を支給するようにしたそうですが、どのくらい実施されたのでしょう。この当時の火消しは、家を取り壊して延焼を防ぐ程度のことくらいしか実際にはできなかったようですから、早期の発見が大事だったのでしょう。それだけに火の見は重要な設備だったのでしょう。それにしても、あの吹きさらしの高所で作業をしたのですから、さぞかし大変なことだっただろうと思います。写真の火の見は、長時間の見張りがなくなってからつくられたものなのでしょう、普通に思い浮かぶ屋根つきではありません。
柳河町(消防署11分団) 3本足でテレビアンテナやのぼり取付綱がついていました。
赤塚飯綱神社向かい(水戸市消防団第13分団) 3本足で、のぼりが取り付けられるようになっていました。
鯉淵町(二十六分団 鯉淵町中央信号近く) 3本足です。
城東2-6-36(南消防署城東出張所) 4本足で、見張り台は外と比べて広そうです。前回見た時は修理中でしたので、現役なのでしょう。
水戸市中河内町(中河内鹿島神社近くの五叉路) 4本足で避雷針がついていました。