徳川光圀が出版させた「救民妙薬」には、酒毒には葛(くず)の花をかげぼしにして、粉にし、湯でといて飲むときくとあります。ほかにも、夕顔や茄子の花を同様にして飲むと良いとも書いてありあります。「窮民」に二日酔いなど滅多になかったでしょうから、光圀好みといってよいのでしょう。
あら玉の春のはじめの杯(さかずき)に千(ち)とせのかげも汲みて見るべく
徳川光圀のうただそうです。新年のさかずきの酒に、千年の姿を見るといううたのようですが、光圀は過去だけでなく、未来の千年も見ていたのでしょう。
蓮の葉にやどれる露は 釈迦の涙か有難(ありがた)や
そのとき蛙(かわず)とんで出て それは己(おいら)が小便じゃ
という意味のうたを酔うと歌ったそうです。一休禅師を思わせるようです。
光圀が若い頃、ひとりで吉原で遊んだ帰りに、酒狂の男が刀を抜いて振り回していたところにであったそうです。見ると臣下の息子なので、刀を納めよと語りかけ、相手が光圀だと知ってかしこまった男に、お供(とも)がいないのでついてこいと屋敷まで送らせたそうです。
隠居してから、常陸太田の西山荘から水戸へいっていたとき、雪がたくさん降ったので、西山荘の雪はみごとだろうと、夕方から草鞋(わらじ)をはいて一人で出発してしまったそうです。(23kmくらいあるそうです) 仕えていた3、4人が従ったそうですが、その後、ほかの家臣もおっかけお供したそうです。西山荘まで2里というところで、したがってきた者に酒を飲ませて、火にあたったりしたそうです。西山荘には、暁について、雪を楽しんだそうです。家臣には苦労の多い殿様だったようです。