後日:訂正の必要がありそうです。ぶらっと歩きの風景in水戸(2-58)をご覧になって下さい。
常陸山橋と橋柱に書かれている橋が2つあります。どういうことなのか考えてみました。
旧常陸山橋
常陸山橋
現在の、常陸山(ひたちやま)の絵が描かれている、市中から酒門墓地方面に向かう道に架かる橋(写真上)は、かつて万才橋(明治35年地図)といわれていたようです。角聖といわれた19代横綱だった常陸山が、大正の初めに、自家の墓のある、徳川光圀がつくった酒門共有墓地へお参りに行ったときに、古くなっていた万才橋を建て替えると周囲に語ったようです。しかし、忙しい常陸山はそこのとを忘れてしまったようです。
地元の人たちは、常陸山が約束を破ったとして、万才橋を、「常陸山小便橋」ともいったそうです。「小便する」という俗語は、約束を破ることをいうようです。
一方、備前堀・万才橋少し下流にあり、現在の県道179号線に架かる橋(写真下)が掛け替え時期になり、上のことが知られていたからなのでしょうか、行政は建築のときに、常陸山を顕彰するために、その新しい橋を常陸山橋と名づけたようです。この時点では、まだ、もう一方の橋は、万才橋といっていたのでしょう。
常陸山は大正11年に亡くなったそうですが、その後、遺族は、「小便橋」ということがいわれていることを知ったようで、常陸山が寄贈したということにして、立派なコンクリート製の橋を地元に寄贈したようです。(常陽藝文)
寄贈された橋も常陸山橋といわれたのでしょう、結果的に2つの常陸山橋ができたようです。行政は現在、寄贈された橋を旧常陸山橋(写真上)、県道の橋を常陸山橋(写真下)と区別しているようです。
現在の橋は、どちらも建て替えられているようで、現在の旧常陸山橋は平成13年に、常陸山橋は昭和30年に竣工したようです。以上の話は、細かいところのしっかりした裏づけはないのですが、今後資料を見つけていきたいと思っています。
面白いと思うのは、才蔵橋が近くにあったという話(明治大正の水戸を歩く)があることです。もしそうなら、昔、正月の万歳をおこなうにあたり、太夫が相手の才蔵というコンビをさがす才蔵市が、このあたりでおこなわれていたのかもしれないということです。
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