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水戸の見て歩き

水戸の市指定文化財(史跡)(2)

2023-04-16 20:12:58 | 水戸

酒門共有墓地(酒門町320 管理者:酒門共有墓地管理委員会)
 徳川光圀が寛文2年(1662)に宗教改革の一環として下町に住む藩士に与えた墓地だそうです。戸田忠敞(ただあきら)、小宮山楓軒原南陽常陸山佐野竹之介加藤雪潭朝比奈知泉、石川明善などの水戸の歴史を作った人たちの墓が並んでいます。「明治41年村長の了解を得て共有者名義変更ができた 大森伊直外123名」という記述があるので、名前のとおり、墓地は共有になっているようです。

 

千束原追鳥狩本陣跡(元石川町2736-9 管理者:常磐神社) 
 追鳥狩(おいとりがり)というのは本来、山野でキジなどの野鳥を勢子(せこ)に追い立てさせて行う狩りだそうです。徳川斉昭はその形をとりながら、鎖国の制を揺るがす夷人来訪の危機感から、藩士の緩みを引き締め、国防を強化するための軍事演習を行ったそうです。1回目は千束原(せんぞくはら)で、天保11年(1840)に、騎兵約3,000、雑兵約20,000という規模でおこなったそうです。その時使用された本陣跡に、元治1年(1864)、村民が斉昭を祀る、今は常磐神社となっている小さな神社を作ったそうです。その後、場所を変えて、安政5年の9回目まで追鳥狩は行われたそうです。

 

日新塾跡(成沢町337-3、361-5、364 管理者:日新塾精神顕揚会) 
 日新塾は、成沢村の加倉井砂山が父から引き継いだ私塾を発展させたもので、授業内容は、文武両道を目指し、歴史、理科、詩文、医学、武芸等、幅広いものだったようです。水戸藩だけでなく下野、会津などからも入学者があり、幕末の志士、郷村の指導者など多くが育ったそうです。発掘調査も行われていて、礎石や、オランダ製の磁器なども出土しているそうです。

 

横山大観生誕の地 (城東2-51 管理者:水戸市) 
 水戸藩士・酒井捨彦の長男に生まれ、幕末から明治の混乱期に幼年期を水戸で過ごしたのち、家族で東京に出たそうです。母方の横山家に養子で入り、東京美術学校に入学したそうです。卒業後、母校の助教授になったものの、師の岡倉天心が美校を排斥されたことから、共に辞職して、日本美術院に参加したそうです。天心死後も、新興日本美術院を下村観山などとおこし、日本画の革新を目指したそうです。第1回の文化勲章受章者だそうです。

 

唯円道場跡伝承地(河和田町榎本3670のロ 36°21'42.4"N 140°24'42.0"Eあたり)
 茨城県笠間市稲田は、親鸞が約20年間住んで布教した地だそうです。たぶんそこで弟子となった唯円がひらいたのが、現在の報仏寺の前身である河和田町榎本にあった念仏道場のようです。その後、徳川光圀が、今の地に寺を移したそうです。その報仏寺には、唯円の俗名は北条平次郎で、妻を疑って斬り殺したものの、斬ったのは親鸞が妻に与えた十字の法号で、妻は元気だったということから、改心したという寺伝があるそうです。唯円は親鸞の教えを理解する重要な書である歎異抄を著したそうですが、別人との説もあるそうです。

 

水戸城跡(三の丸 管理者:水戸市・茨城大学)
 馬場大掾氏、江戸氏、佐竹氏、徳川氏と支配者が変わる中で、水戸城は徐々に拡大整備されていったようです。土造りの平山城としては日本最大級の規模の城のようです。火災や解体によって、現在、建造物は薬医門くらいしか残っていませんが、本丸(下の丸を含む)、二の丸、三の丸(現弘道館、三の丸小学校、県庁三の丸庁舎他)や、その壕、土塁、枡形などの遺構は十分に確認することができます。また、大手門角櫓(すみやぐら)の復元や、二の丸跡の整備なども行われていて、少しずつですがかつての雰囲気をよみがえらせつつあるようです。城郭につきものの石垣がないという、古い様式を残した史跡でもあるようです。水戸市指定文化財として指定されたのは、三の丸部分のようで、それ以外の城跡は茨城県に文化財指定されているようです。写真は、三の丸西側の土塁と堀です。奥に県庁三の丸庁舎が見えます。

水戸の市指定文化財(史跡)(1)


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