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長崎市の原爆落下中心地等へ行って来ました!

2016年09月12日 01時00分00秒 | イベント・外出
 1945年8月9日午前11時2分にアメリカ軍のB29により投下され、長崎市上空約500mで爆発した原子爆弾は、爆心地直下で約3400℃となり、爆心地から秒速500mの爆風が吹き荒れ一瞬にして約7万人以上の多数の死亡者を出したとのことです。

 この原子爆弾の主体はプルトニウム239で、およそ10kgのプルトニウムが使用され、実際に核分裂を起こしたプルトニウムは約1kgと推定され、この原子爆弾が炸裂した場所は、長崎市の松山町171番地(当時はテニスコート)とのことです。

現在は石柱が建てられています。


↑原爆落下中心地のある公園


↑原爆落下中心地の石柱

また、原爆殉難者名奉安にもなっていて、平成27年8月9日現在で168,767人となっています。


↑原爆殉難者名奉安者数

 なぜ、ここが原爆落下中心地と判明したかというと、大浦天主堂や病院、交番の3点で、それぞれ強烈な熱線により影が焼き付けられた状態として残っているので、それらを逆算して原爆が爆発した中心地と高さが判明したようです。

また、近くには被爆当時の地層を見ることができるようになっていました。

護岸工事している際に出土したようです。

 原爆によって壊された家の瓦(かわら)や、レンガ、熱によって焼けた土や溶けたガラスなどが現在でも大量に埋没していて、驚きましたね。
当時の原爆の爆発の凄まじさを感じてしまいます。
被爆当時の悲惨な実相を示す史跡として貴重な物だと思います。


↑被爆当時の地層


↑被爆当時の地層の説明


↑護岸工事現場より出土した状況

また、当時の焼け野原となった状況の写真や、被爆直前の地図を見ることもできます。


↑当時の焼け野原の状況


↑被爆直前の地図

それから、長崎市全体の原子爆弾被害区域図もありました。


↑長崎市原子爆弾被害区域図

 これら原爆落下中心地石柱や当時の地層などは、今後の平和のために、このような過去が二度と行われないようにするためにも貴重な史跡だと思います。

 なお今回は被爆者の方による訴えの講演を聞く機会があり、心を打たれました。

 この被爆者は12歳の時に被爆し、爆心地近くの防空壕に避難していた重傷の父と軽症の母に被爆二日後に会えたにも関わらず、約1週間後に相次いで父母は死亡したようです。

 父の死亡の際にはあまりの惨状に感情を失い涙すら出なかったようです。

 また現在資料館などで被爆者の写真はよく見ますが、この被爆者が特に心を打たれるのは当時同世代の小学生が爆心地近くで黒焦げとなった死体の写真とのことで、その黒焦げの写真の彼が自分に「お前は生きているではないか?原爆を伝えるのはお前ではないか?」と問われるように感じるようで、そのため現在ガンを患いながらも、原爆の語り手を3年前から始めたようです。


↑小学生の写真

 「平和があるからこそ豊か」なので、皆さんにはぜひ「平和を作るエリートになって欲しい」と力強く述べておられ、強く感銘を受けました。

 この平和への意志は、ぜひつないで行きたいと思いました。

お勧めなお話(2016年上半期)

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