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「103歳になってわかったこと(篠田桃紅)」という本はとてもオススメ!

2016年07月08日 01時00分00秒 | 
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 「103歳になってわかったこと」という本は、美術家で墨を用いた抽象表現主義者として43歳で渡米して世界的に知られている篠田桃紅さんが著者で、100歳を超えた経験から、幸せに生きる心構えや考え方等についてまとめたものです。

 特に以下については興味深かったし、自分の人生に取り入れたいと思いましたね♪
素晴らしいと思います♪

・死んだ後の魂については生きているうちには分からないので一切考えずに、毎日を自然体で生きるように心がける
・100歳を超えると誰とも対立しないし100歳はこの世の治外法権
・孤独は当たり前で、わびしいことではない
・歳をとるに連れ、自分の見る目の高さが年々上がる
・しょっちゅう手や指を動かすことが元気の秘訣
・日本の文化の「いい加減」の精神は大切
・自分の生き方を年齢で判断するほど愚かな価値観はない。いつでもやりたいことをやればいい。
・死を考えなければ怖くない。
・頼るのではなく、自分の目で見て、考えることが大切
・色々あったけど、やっぱり私はこうでよかったと自分自身が思える人生が一番良い
・体が丈夫なうちは、自分がやっておきたいと思うことはどんどんやること
・誰もやらなかったことをやることが大事
・予定や目標にとらわれると他が見えなくなる。自然のなりゆきに身を任せると無理がない
・無駄にこそ次の何かの兆しがある。無駄はよくなる必然
・これくらいが自分の人生にちょうど良かったと満足することのできる人が幸せ
・養分をいかに吸収し、形成するかはその人次第
・絵画を鑑賞するときは解説は忘れて、絵画が発しているオーラそのものを自分の感覚の一切で包み込み受け止めるようにすることが重要
・良き友は、物をくれる友・医者・知恵のある友
・運命にはあらがえない。謙虚でなくてはならない
・生死を分けながらも長生きできたのは、時宜に適って、救ってくれた人に巡り合えたから


 上記の中でも、100歳を超えると誰とも対立しないし100歳はこの世の治外法権になるとはナルホドと思いましたね♪
100歳を超えないと分からない心境だと思います。

 また、絵画を鑑賞するときは解説は読まずに、自分が感じるままに受け止めようと改めて思いましたね♪
そうすることにより感覚が磨かれ、日常生活においても動物的な勘が備わり、より良い人生に導かれると思います。

「103歳になってわかったこと」という本は、より良い人生のためのヒントになり、とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・私は、私には死生観がないと答えました。彼女は大変びっくりしていました。考えたところでしようがないし、どうにもならない。どうにかんものについては、私も考えますが、人が生まれて死ぬことは、いくら人が考えても分かることではありません。現に、私に何か考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世に出てきたわけでもありません。自然の計らいによるもので、人の知能の外、人の領域ではないと思うからです。さすがに病気にならないようにしようということぐらいは考えます。しかし、死なないようにしようと思っても、死ぬと決まっています。死んだ後の魂についても、様々な議論がありますが、生きているうちは、確かなことはわかりません。人の領域ではないことに、思いを巡らせても真理に近づくことはできません。それなら私は一切を考えず、毎日を自然体で生きるように心がけるだけです。

・この歳になると、誰とも対立することはありませんし、誰も私とは対立したくない。100歳はこの世の治外法権です。100歳を過ぎた私が冠婚葬祭を欠かすことがあっても、誰も私をとがめることはしません。パーティなどの会合も、まわりは無理だろうと半ばあきらめているので、事前の出欠は強要されません。当日、出たければ行けばいいので、たいへんに気楽です。しかも行けば行ったで、先方はたいそう喜んでくれます。今の私は、自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません。

・私は24歳で実家を出てから、ずっと一人で暮らしていますが、孤独を当たり前だと思っています。一人の時間は特別なことではなく、わびしいことでもありません。誰かが一緒にいないと寂しくてたまらない、と思ったこともありません。ごく自然に、一人でいることを前提に生きてきました。また、人に対して、過度な期待も愛情も憎しみも持ちません。そもそも、人には、介入するものではない、と思っています。過度な期待を相手に抱けば、その人の負担になるかもしれません。ゆきすぎた愛情を注げば、その人の迷惑にしかなりません。相手は、よけいなことをしてくれていると、内心思っているかもしれません。しかし、世の中には、そうしたことに気づかず、振る舞っている人がいます。悪意ではないから、誰も憎むことはできない。まわりが困っています。

・歳をとるにつれ、自分の見る目の高さが年々上がってきます。今までこうだと思って見ていたものが、少し違って見えてきます。同じことが違うのです。それは自分の足跡、過去に対してだけではなく、同じ地平を歩いた友人のこと、社会一般、すべてにおいてです。たとえば、あの先人は私にこういう影響を与えたと思っていた。今は、私に与えた影響はそういうものではなく、こういうものだったと変わります。同じ過去が、10年前の90代と今とではずいぶん違って見えます。ある人を思い起こすときも、その人の違った面が新たに見えてきます。もちろん変わらないものもありますが、過去を見る自分の目に変化が生まれました。一方で、未来を見る目は少なくなります。

・私の場合、仕事が運動になっており、大きな作品を描いていることもあって、つねに体を動かしています。腰が痛くなったとか、肩が凝ったとか、老人らしい体の不調をきたしたことはありません。根をつめて長く仕事をすると、腰を伸ばしたくなることはありますが、マッサージや整体のお世話になったこともありません。私の姪が、私が人と話をしている間も、しょっちゅう手や指を動かしていることに気がつき、それが体が元気な秘訣なのではと言いましたが、いつも体のどこかをゆらゆらとさせているという自覚はあります。

・日本の文化には、余白を残し、臨機応変に、加えたり減らしたりすることのできる「いい加減」の精神があります。そしてこの精神は、長寿の心得にも相通じるのではないかと思います。たとえば、歳をとったら体を冷やすのはよくない、温かくしておいたほうがいいと言います。それでなくとも抵抗力は衰えているので、冷やすと、それが引き金となって体全体のバランスを崩しかねないからです。しかし、かといって汗をかくほど温かくすると、体内の機能は小さく縮みつつあるので、よけいな負担をかけてしまう。その人に合ったいい加減の温かさに保つことがいいのです。しかし、いい加減というと、あの人はイイカゲンなことを言う、イイカゲンな人、と否定的な意味で使われる場面が多くあります。本来は、ほどよい状態にするための加減するから、いい加減と言います。「お加減はいかがですか?」と尋ねれば、体の具合は良くなりましたか、それとも思わしくないですか?という意味でdす。「お風呂の温度はいい加減です」と言えば、ちょうどいいお湯の温度だという意味です。中国の孔子は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と、度が過ぎることも、不足することも、同じように良くないと言っています。そして「中庸の徳たるや、それ至れるかな」とも言っています。ほどほどにしておくことは、高い徳に至ることができるのです。元来、人は食べ過ぎてもいけないし、少なすぎるのもいけない。飲み過ぎるのもよくないけれど、長生きしたいからと言って、我慢してやめるのでは、生きている甲斐がありません。働きすぎるのはよくないし、なにもせずにゴロゴロしているのもよくない。なんでもいい加減に調整するのがいいのです。歳をとると、ますます体の機能範囲は狭くなりますから、ちょっとした偏りが大きなダメージになります。食事、睡眠、仕事、家事労働、人間関係など、あらゆる面で、その人に合ったいい加減さを保つことができれば、もう少しの長生きを望むことができるのではと思うこのごろです。

・私は歳には無頓着です。これまで歳を基準に、ものごとを考えたことは一度もありません。なにかを決めて行動することに、歳が関係したことはありません。この歳になったからこれをしてはいけない、この歳だからこうしなくてはいけないと思ったことがないのです。自分の生き方を年齢で判断する、これほど愚かな価値観はないと思っています。私が、自由に作品をつくることができるようになったのは、戦後になってからのことで、三十代後半になっていました。初めて個展を開いたのは、戦後の混乱期で、40歳を過ぎていました。その後、43歳で渡米しましたが、この渡米がきっかけとなり、私の作品は世界中に広まることとなりました。当時は、女性が仕事をスタートさせるのには大変遅い年齢でしたが、自らを年齢で縛りつける生き方をすることのほうが、私には不思議でした。こうして私が長生きしているのも、自らの人生を枠におさめなかったことが、幸いして、精神的にいい影響を及ぼしているのかもしれません。

・先日、「どうしたら死は怖くなくなるのか」と若い友人に尋ねられました。私は「考えることをやめれば、怖くない」と助言しました。どうせ、死はいつか訪れると決まっています。そう遠からず、私も死ぬだろうと漠然とですが、思っています。人は老いて、日常が「無」の境地にも至り、やがて、ほんとうの「無」を抑える。それが死である、そう感じるようになりました。

・アメリカ屈指の美術批評家、ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・キャナディ氏が、生前、私にこんなことを言いました。「絵には作品名がないほうがいい。作品名があると、見る側がそれに左右されてしまう。自分の目で判断しているので、僕は展覧会へ行っても、作品名は見ない」もちろん、キャナディ氏は、ギャラリーから作品の説明は一切、受けません。作家本人に会うこともしませんでした。説明を受けたら、自分の判断が鈍るかもしれない。作家に会うと、情が移るかもしれない、と考えたからです。自らを律した厳しい目で作品を見て、批評をしていました。それだから、世界的な美術批評家として高い信頼を得ていたのでしょう。キャナディ氏に否定的なことを書かれたら、アーティストとしておしまいだと、美術関係者は恐れていました。このごろはずいぶん減りましたが、私も、展覧会などで、「これはなにを表している絵なのですか?」とよく聞かれたものでした。絵というものは、自分のなかに湧いてくる思いを、目に見えるようにしたものなので、なにを、という質問には、私はいつも戸惑いました。絵に表れているものこそが、質問の「なにを」で、そしてその「なにを」は見る人によって、どのように受け止めてもいいものだからです。人は、説明を頼りになにかを見ていると、永遠に説明を頼りに見るゆになってしまいます。たとえば、それが絵であれば、絵の鑑賞の幅を自ら狭めていることになります。パソコンや携帯電話などの機器を買うとき、人を頼りに買っていれば、使うときも人頼りになります。機器を使いこなす楽しみを自ら放棄していることになります。参考にできることは、おおいに参考にしたほうがいいと思いますが、頼るのではなく、自分の目で見て、考える。キャナディ氏の言葉は、私たちの日常の生きる姿勢にも通じると思います。

・人生は、なにが一番本当にいい生き方なのか、はっきり言える人はいないと思います。でも最後に、いろいろあったけれども、やっぱり私はこうでよかったと、自分自身が思える人生が一番いいだろうと思います。まだまだいっぱいやりたいことがあったのに死ぬのか・・・、と思うのは悲しいことです。ですから、体が丈夫なうちは、自分がやっておきたいと思うことはどんどんやったほうがいいと思います。そうすれば、死ぬとき、思い残すということが少ないかもしれません。人生を楽しむためには、人間的な力量が要ります。

・誰もやらないときに、それをやった、ということが大事です。まだ誰もやらないうちにやった人は、それだけの自信を蓄え、自分の責任でやっています。その結果が、受け入れられるか、受け入れられないかはわかりませんが、なかには、高く評価してくれる人がいるかもしれませんし、認めてくれる人がいつか現れるかもしれません。

・自分に規律というものは課さないし、外からも課せられないようにしてきました。縛られたくないから目標も立てません。なにか目標を決めると、それに向かってやみくもに一生懸命になってしまいます。そうすると、ほかが見えなくなります。私は、ほかにすごくいいものがあっても、目標のために、見逃してしまうことがいやなのです。人生は、道ばたで休みたいと思えば休めばいいし、わき見をしたければわき見すればいいと思っています。今日中にあそこまで行かなければならないと決めるやりかたより、自然のなりゆきに身をまかせるほうが、無理がありません。そのほうが私の性に合っています。規則正しい毎日がいい、とされていますが、なにをもって正しいのでしょう。毎朝、決まった時間に起きて、食事をするのが規則正しいのか。私は、一般的に規則正しい、とされていることからは、はずれた毎日を送っています。私の仕事は、絵を描くことですが、何時から何時まで描く、と決められません。描いているうちに、夜が明けてしまうこともあります。毎日、自分勝手な生き方をしています。規則正しい生活が性に合う人もいるでしょう。計画を立てないとならない事情も、ときにはあるでしょう。しかし、あまりがんじがらめになると、なにかを見過ごしたり、見失っていても、そのことに気がつきません。

・人は、用だけを済ませて生きていると、真実を見落としてしまいます。真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかし、どこかにあります。雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。無駄にこそ、次のなにかが兆しています。用を足しているときは、目的を遂行することに気をとらわれていますから、兆しには気がつかないものです。無駄はとても大事です。無駄が多くならなければ、だめです。お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。安いから買っておこうというのとも違います。無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、なんとなく買ってしまう行為です。なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、あとで思ってしまうことです。しかし、無駄はあとで生きてくることがあります。時間でもお金でも、用だけをきっちり済ませる人生は、1+1=2の人生です。無駄のある人生は、1+1を10にも20にもすることができます。私の日々も、無駄の中にうずもれているようなものです。毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。時間も無駄にしています。しかし、それは無駄だったのではないかもしれません。最初から完成形の絵なんて描けませんから、どの時間が無駄で、どの時間が無駄ではなかったのか、分けることはできません。なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれません。つまらないものを買ってしまった。ああ無駄遣いをしてしまった。そういうときは、私は後悔しないようにしています。無駄はよくなる必然だと思っています。

・一体どうしたら、人にとって一番幸福なのかと考えると、わけがわからなくなります。どのように生きたら幸福なのか、「黄金の法則」はないのでしょうか。自分の心が決める以外に、方法はないと思います。この程度で私はちょうどいい、と自分の心が思えることが一番いいと思います。ちょうどいいと思える程度は、100人いたら100人違います。私はまだ足りないと思う人は、いくらあっても足りません。そういう人はいくら富を手にしても、お金持ちになった甲斐はありません。愛情を充分に与えられても、愛されていると自覚しません。まだまだ足りないと思っているのですから。これくらいが自分の人生にちょうどよかったかもしれないと、満足することのできる人が、幸せになれるのだろうと思います。

・植物の根は、地中、水中で、水分と養分を吸収して、植物を支えます。人もまた、置かれた境遇のなかで、つねに、さまざまな知識、経験などの養分を吸収して、自身を形成します。平安朝の名筆は、特に書家にとって、大切な養分の一つですが、それだけが根ではありません。養分をいかに吸収し、形成するかはその人次第です。私は、自分の根がつくり出す、かたちや線を可視のものにして見たい、と思いました。あれから80年近くが経ちますが、根は、他者にあるのではなく、その人自身の一切だと思っています。

・感覚は、自分で磨かないと得られません。絵画を鑑賞するときは、解説は忘れて、絵画が発しているオーラそのものを、自分の感覚の一切で包み込み、受け止めるようにします。このようにして、感覚は、自分で磨けば磨くほど、そのものの真価を深く理解できるようになります。感覚を磨いている人は、日常生活においても、有利に働きます。まず、間違いが少なくなります。知識や経験に加えて、感覚的にも判断することができるので、身の回りの危険、トラブルなどを察知し、さっと上手に避けることができます。昔は人間にも動物的な勘が備わっていましたが、文明の発達で、勘を使わなくても生きていけるようになったので、鈍ってしまったと言われています。虫が知らせる、虫が好かない、という表現がありますが、虫というのは感覚。自分のなかに虫がいて、それが非常に感覚的に優れていたから、虫にたとえた言い方をしていました。世の中の風潮は、頭で学習をすることが主体で、自分の感覚を磨く、ということはなおざりにされています。大変に惜しいことです。

・ロックフェラー家は、当時、世界一のお金持ちと称されていた一族でしたから、私は、偶然、同じチェック柄のスーツが続いたのだと思い、お付きの人に、「ミセス・ロックフェラーは、よほどチェック柄のスーツがお気に入りなのですね」と言いました。すると、「ミセス・ロックフェラーは、お気に召した洋服は、同じものを20着ぐらいはお作りになります」。それを聞き、私は、これは話にならない、と思いました。高級ブランドを取り換え引き換え着て装うという次元ではない。いつも同じ服、それでかまわなかったのです。自分を見せびらかすという感覚がない。乗せていただいた車もそうでした。型が古く、オールドスタイルと言っていました。しかし、エンジンは最新のものを搭載していました。美術家がゆえに、私は、こうした世にも稀な人に会うことができたわけですが、ジョン・D・ロックフェラー三世のご実家は、世界の美しいアートや工芸品に囲まれていたそうです。それは、ご自分たちが好きだったということもありますが、子どもたちが物心ついたときから、世界中の「美」に触れていれば、おのずと、その「美」を生み出した文化とその人々に対して、敬愛の念が培われるという、ご両親のジョン・D・ロックフェラー二世とアビー夫妻の教育信念によるものだったそうです。美しいものは、多少の好みはありますが、どの国の人も美しいと感じます。そうした敬愛の念を抱けるものが地球上で増えれば増えるほど、共通の心を持つ人は多くなり、価値観の違いや自己の利益を第一にした戦争は少なくなっていく。そう考えたのではないかと、私は思います。

・人への贈り物は、ただあげればいいと思って、適度に見栄がするものを選ぶ人、いい人なのだけれど気の回らないものを選ぶ人、そして、あの人はこういう人だから、こういうものを差し上げたいと、その人の気持ちに寄り添って選ぶ人がいます。人それぞれが持つ感覚によって、表れ方もずいぶんと変わってくるようです。そして、現実的には、誰しも、物をいただいて悪い気はしいあいものです。吉田兼好も「徒然草」に、よき友は物くるる友、と書いています。ちなみに、「徒然草」のよき友は、ほかに二つあります。医者と知恵のある友。どちらも現実的で、正直です。つくづく人間の本性は昔から変わらないものだと感じます。

・次から次へと、身内、友人を失くし続けて、私は、運命というものの前に、人はいかに弱いものか、ということを若くして知ったように思います。弱いというよりも無力で、なんの力もない。どんなに愛する人でも、さっと奪ってしまいます。運命にはあらがえない。私は、身の程をわきまえ、自然に対して、謙虚でなくてはならないと思いました。人が、傲慢になれる所以はないと思っています。

・それは、「治りますよ」という言葉でした。肺結核であることを直感して、「肺・・・」と尋ねた私に、彼女は「そう・・・」「でも治りますよ」と間髪入れずに言ってくれたのです。そして「幸いにして、ここは、空気はいいし、水もいいです。ヤギのミルクも卵も鶏もありますから、栄養を摂って養生すれば、結核菌を抑え込むことはできます」と、私が前向きに闘病するよう、希望を示してくれました。旧約聖書に、「時宜に適って語られる言葉は銀の器に盛る金のリンゴのごとし」という一節がありますが、彼女が言ってくれた言葉は、まさしくあの瞬間、私が必要としていた、金のリンゴでした。このほかにも、何回か生死を分けることがありましたが、その都度、私は人に救われ、生かしていただきました。私がこうして長生きしていられるのは、時宜に適って、救ってくれた人に巡り合えたからです。

良かった本まとめ(2016年上半期)

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