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江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか(中江克己)という本はとてもオススメ!

2021年06月20日 01時00分00秒 | 

 

 「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」という本は、江戸時代の江戸の盛り場での遊びについて分かりやすく説明したものです♪

 江戸時代は武家中心の身分社会でしたが、消費経済が発達するにつれ、町人が経済力を持ち始め、両国・浅草・日本橋・深川・本所・上野などで盛り場ができ、そして品川・千住・板橋・内藤新宿などの宿場町も旅籠や茶屋、料理茶屋などが整備され、盛り場化したようで、本書ではそれぞれの地での遊びについて楽しく説明があります♪

 その盛り場では、軽業(かるわざ)や綱渡り、曲独楽(きょくごま)、手品をはじめ、相撲や芝居、寄席(よせ)などが人気を集め、更には花見や月見、川遊び(船遊び)、花火、廓(くるわ)遊びなど多様化も進んだようです♪

 また食の娯楽化も進み、水茶屋ではただ茶を飲むだけでなく、評判娘(アイドル)を相手にすることや、珍しい名物料理という付加価値が求められるようになり、その評判娘は錦絵にも描かれるようになり現在のアイドルのようにもてはやされたようです♪

 また両国などでの盛り場には、鮨、天ぷら、蕎麦などの屋台が並ぶようになったようですね♪

「江戸っ子はなぜこんなに遊び上手なのか」という本は、江戸時代の江戸の遊びについて楽しく分かりやすく説明があり、興味深く、とてもオススメです!

 以下は本書のポイント等です♪

・江戸の人口は、江戸中期に110万人を超えている。同じ頃、ヨーロッパ最大の都市ロンドンが70万人、パリは50万人だから、江戸は紛れもなく世界一の大都市であった。盛り場が多く、それぞれ賑わっていたのも当然である。両国は江戸を代表する盛り場だった。両国は江戸中期に出現した盛り場だが、1日にざっと2万5千人が両国橋を通行したというからすごい人手である。両国が盛り場になったのは、隅田川に両国橋が架けられ、東西の橋詰一帯が火事除けとして広小路とされたからだ。この広小路にはさまざまな店や食べ物を売る屋台が並び、芸人が大道芸を見せたほか、多くの見世物小屋ができる。

・江戸が相撲の中心地になったのは、宝暦年間(1751~63)頃のことだ。当時、大名や旗本、商人に召し抱えられた力士のほか、そうしたスポンサーを持たず、一人で勝負稼ぎをする力士がいた。しかし、経済的に困窮し、すさんだ暮らしをしている力士が多い。そのせいか、相撲場では勝負の判定がもとでケンカが起こり、けが人が出たこともたびたびだった。幕府は慶安元年(1648年)、風紀を乱すとして勧進相撲を禁止。だが相撲ファンは多いし、関係者は勧進相撲を続けたいと願った。熱心な陳情を重ねた結果、36年後の貞享元年(1684年)、富岡八幡宮境内で勧進相撲が再開された。回向院が勧進相撲の定場所となったのは天保4年(1833年)から。同時に春秋の年2回の興行となった。江戸での相撲興行は年2回、晴天8日間とされた。しかし経営上の問題もあって、安永年間(1772~80)から晴天10日間と期間が延びた。

・江戸の人々は夏になると、涼を求めて大川端へ出かけた。大川端というのは隅田川の浅草付近に架かっている大川橋(吾妻橋)から下流の右岸を指す。なによりの楽しみは涼風を浴びながらの川遊びだが、川遊びといっても川に入ったり魚を捕るというのではない。船に乗り込み、川のうえで風情を楽しむ。これは盛んに行われて、寛文年間(1661~72)には船が大型化し、多い時には数百艘も出るほどだった。

・浅草の茶屋が有名になったのは、明暦3年(1656)の大火後、門前の茶屋で奈良茶を出したことだった。奈良茶とは、奈良茶飯のことだが、茶飯に豆腐汁、煮しめ、煮豆のセットで、値段は5文(約125円)。安さが売りの一膳飯である。その後、奈良茶飯を出す店が増えたが、そのはじまりは浅草寺門前の茶屋だったという。のちには高級化が進み、器や食材に凝る茶屋が現れ、富裕層の人気を集めた。

・茶屋が増え、奈良茶飯を出す店が出てくる一方で、若くて美しい茶汲み女を集め、派手な着物を着せるようになった。幕府は競争が激化したため、延宝6年(1678年)、規制に乗り出す。茶汲み女は1軒に2人までとし、衣服は木綿に限るとしたのである。しかし効果はない。その後、宝暦年間(1751~63)には茶屋が増え、ますます賑わった。どこの茶屋でも美女を置いたので、茶屋の女が話題になるほどだった。

・歌舞伎十八番「暫」(しばらく)は荒事の代表作で、市川家伝統の演目となっている。主人公が「しばらく」と声をかけて登場し、悪人をこらしめるという話だが、團十郎が舞台衣装である三枡大門の素襖に赤茶色を使ったことから、この色は「江戸好みの粋な色」と評判になり「團十郎茶」といわれて流行した。

・粋な色とされ、流行した色に「江戸紫」がある。歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」で、市川團十郎が侠客の助六を演じたとき、紫色の鉢巻を締めたことから、鉢巻の紫色を「江戸紫」と呼ばれるようになった。さらに「八百屋お七」でお七役が黄八丈の衣装を着たことから、江戸の女性に黄八丈が人気を博した。

・細長い小舟だがじつに速い。船の先端がそりあがって猪の牙を思わせることから「猪牙舟(ちょきぶね)」と呼ばれた。略して「猪牙」である。漁や舟遊びにも使われたが、よく吉原通いに利用された。隅田川から山谷堀へ入るのだ。

・当初、吉原遊郭は元和4年(1618)11月、葺屋町東隣の沼地(中央区日本橋人形町)を埋め立ててつくった。葦が生い茂っていたため、葦原と呼ばれていたが、その後、縁起をかついて吉原とした。やがて江戸の町が急速に発展し、吉原遊郭あたりが中心地になってしまった。明暦3年(1657)、明暦の大火で市中の6割が灰となる。吉原遊郭も全焼。幕府は移転させるのに好都合と判断、5割増しの土地を与えるとして、浅草寺裏に移転させた。このため焼失前のものを「元吉原」、それ以後のものを「新吉原」といって区別した。市中から離れていたため、当初は訪れる遊客が少なかった。しかし幕府公認の遊郭はここだけだから武士から商人、庶民までがやってきて、数年後には繁盛するようになった。

・吉原のほか「江戸四宿」といって、品川、千住、板橋、内藤新宿の宿場では「飯盛女(めしもりおんな)」の名目で遊女を置くことが認められていた。また深川、本所、日本橋、浅草など約190ヶ所の岡場所があった。「岡」とは「傍(かたわら)」の意味で、吉原以外の非公認の遊里のことである。宝暦から明和、天明(1751~88)にかけての頃だが、吉原遊郭には約3千人の遊女がいた。それに対して、岡場所の遊女は約2千人。吉原は江戸で最大の歓楽街だった。なお遊女のほか、妓楼関係者、一般の商人や職人などを合わせると吉原には1万人ほどが生活していたという。

・通とは「日本橋南側の本通り」という意味をこめた地名だ。「江戸城下の目抜きの通り」ともいわれ、江戸初期にはこのあたりを下町と称した。一丁目から四丁目までの細長い地域だが、次第に有名店が増えていく。通一丁目には菓子の塩瀬、呉服の白木屋、書店の須原屋などが店を構えていた。通二丁目は茶の山本山、筆墨の古梅園、書店の嵩山堂といった具合いで賑やかな繁華街に成長していった。白木屋では、店内の掘抜井戸から良質の水が湧き出し「白木名水」と評判を呼んだ。将軍家や諸大名家がお茶の水として用いたし、朝鮮通信使が江戸を訪れたときには、その名水のおかげで白木屋が臨時の休憩所になったほどだった。なお、白木屋は昭和42年(1967)、東急百貨店となり、現在その場所にはコレド日本橋が建っている。

・大伝馬町一帯では毎年10月19日、多くの店が道端に出て、買い物客や見物客でたいそう賑わった。江戸では翌10月20日に「恵比須講」が行われたからだ。商家では恵比須(七福神の一つ。漁業の神、商売繁盛の神とされる)を祭、商売繁盛を祝福した。当時、京橋や日本橋などの商家では、恵比須講の日は店を早く閉め、夕方には親類を招いて酒宴を開いたのである。前日の道端に出る店は「べったら市」といい、恵比須講に用いる品を売るためのものだった。「べったら」とは、べったら漬のことで、大根を塩と糠で下漬けをし、麹や砂糖などを漬けたもの。これを売ったわけだが、いまでも「べったら市」は10月19日夜、日本橋大伝馬町一帯の通りで開かれている。江戸のべったら市では大根のべったら漬けのほか、縁起物の鯛をかかえ、釣り竿を持った恵比須や千両箱、打ち出の小槌、鯛などを売っていた。恵比須講の酒宴では、それらを室内に飾る。たとえば縁起物の千両箱を積み上げ、その上に恵比須像を置き、大きな鯛を載せた三方や瓶子などを並べて祝福する。膳の上の椀には、飯を高く盛り上げるのが恵比須講の決まりだった。

・富岡八幡宮といえば門前仲町、略して「もんなか」が有名。これは昭和6年(1931)にできた町名で、古くは承応2年(1653)、永代寺の門前町として起立し、「深川永代寺門前仲町」と呼ばれていた。永代寺は富岡八幡宮の別当寺(神社に設けられた神宮寺)である。住民の町として発展したのは元禄10年(1697)ころからだった。江戸名所図会に載っている「富岡八幡宮」の絵を見ると表門のすぐ前が海で、石垣の船入と船着場が設けられていた。船で訪れる人も少なくなかったようだ。表門をくぐった境内にも水茶屋や料理茶屋がある。料理茶屋の名物は魚や鰻、牡蠣、蛤などの料理だったという。境内に水の流れがあり、橋も架けられている。本社のあたりにも水茶屋や料理茶屋が多い。本社の奥には、伊勢屋と松本という有名な料理茶屋があった。二軒茶屋である。この裏手に河岸があり、猪牙舟や屋根船が繋留されていたというから、客のもとめに応じて江戸湾や隅田川に出ることもあったのだろう。

・深川では、三味線を持つ芸者を「羽織」といい、三味線を持たない遊女を「子ども」といった。羽織といわれたのは、深川の芸者は見識が高く、客席でも羽織を脱がないことを誇りとしていたためだ。当初、羽織芸者といわれ、やがて芸者が省略された。安永年間(1772~80)には、この地は「辰巳」といわれたが、これは江戸城から見て辰巳(南東)の方向だったからだ。また吉原遊郭と肩を並べるほどの繁昌ぶりだったので、吉原を「北里」といい、深川の遊里を「辰巳の里」と称した。芸者は「辰巳芸者」といったが、その特徴は気風のいいことで、「深川かたぎ」ともいわれた。それは色よりは芸、粋や張りを重んじるものだった。そうした気質や生きる姿勢は、芸者だけでなく、広く深川の庶民にも広がっていたようだ。

・千住といえば、思い出されるのが松尾芭蕉である。元禄2年(1689年)3月27日早朝、芭蕉は門弟の河合曽良とともに深川から舟で隅田川をさかのぼった。千住に着くと舟を降りて一句詠む。「行く春や鳥啼魚の目は泪」これを「矢立の初」として奥州路に旅立った。

・亀戸には亀戸天神の藤のほか、亀戸梅屋敷という梅の名所もある。ここはもともと本所埋堀に住む呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘だった。多くの梅の木を植えていたが、その中でも「臥竜梅」は「江戸第一の名木」と評判だった。姿、形が珍しい木があったが、よく見ると、竜が地上にとぐろをまいているようにも見える。そこで「眠れる幡竜に似ている」というので「臥竜梅」の名がついた。これは水戸光圀によって名付けられたともいわれる。八代将軍吉宗も享保9年(1724年)に訪れたというから、不思議な姿の臥竜梅は広く知られていた。


・亀戸天満宮は藤の花が人気だった。寛文3年(1663)、太宰府天満宮を模した殿堂をはじめ、心字池、太鼓橋などをつくったが、境内は広く、現在の数倍はあったという。当時、亀戸天満宮の裏近くに船着き場があって、船で訪れる人が多かった。おみやげに人気なのは、文化2年(1805)創業という船橋屋の葛餅だった。天満宮の藤も船橋屋の葛餅も健在である。

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