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「幸せになる勇気-自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ(岸見一郎、古賀史健)」という本はとてもオススメ!

2016年09月02日 01時00分00秒 | 
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 「幸せになる勇気」という本は、ベストセラーになった「嫌われる勇気」の続編で、本書のテーマは、ほんとうの「自立」とほんとうの「愛」、そして「どうすれば人は幸せになれるか」です。

 「嫌われる勇気」の復習の部分もありますが、特に生徒への教育や仕事、恋愛について書かれています。

まとめると以下になるかと思います♪

<教育>
・教育者は生徒をありのまま認め尊敬し、勇気づけることが大切
・生徒の関心事に関心を寄せることが尊敬の第一歩
・生徒に叱責することは、互いの尊敬を毀損し、未熟で暴力的なコミュニケーション手段である
・生徒を褒めることは共同体の中に競争原理を生み、生徒たちに「他者は敵である」というライフスタイルを植えつけることになる
・叱ることやほめることは生徒の自立を妨げる
・生徒からの感謝を期待するのではなく「自立」という大きな目標に自分は貢献できたのだという貢献感を持ち、貢献の中に幸せを見出すことが大切
・自分の人生や日々の行いは自分で決定するものだと教え、自立させることが大切で、そのために自分の知識や経験を提供すること。
・生徒とは「ひとりの友人」として向き合うことが大切

<仕事>
・人間は弱いからこそ「分業」という画期的で効率的な働き方を手に入れた。従って仲間と働き、協力し、貢献すべきである。
・他者を先に信頼し、仲間になることが大切

<恋愛>
・子供の頃からの利己的な「私の幸せ」を求めるのではなく。利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「私たちの幸せ」を築き上げることが愛である
・相手が自分の愛にどう応えるかというのは他者の課題でありコントロールできないからその課題は分離し、自分から先に愛することが大切
・分かりもしない将来のことなど考えず、存在するはずもない運命のことなど考えず、ただひたすら目の前のパートナーと「今」をダンス(二人の人間が共同の仕事に参加する遊び)することが大切
・愛する勇気を持つことが、幸せになる勇気である

 そのほか、思い悩む人は「悪いあの人」や「かわいそうな私」を考えるのではなく、「これからどうするか」を考えることが大切ですね。


「幸せになる勇気」という本は、「嫌われる勇気」に引き続き、人生を幸せに生きるために参考となり、とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・アドラー心理学の掲げる目標を覚えていますか?行動面の目標と心理面の目標は。行動面の目標は次の二つ。
①自立すること
②社会と調和して暮らせること

そしてこの行動を支える心理面の目標が次の二つでした。
①私には能力があるという意識
②人々は私の仲間であるという意識

・親子であれ、あるいは会社組織の中であれ、どのような対人関係でも同じです。まずは親が子どもを尊敬し、上司が部下を尊敬する。役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。根源にあるのは「人間への尊敬」なのですから。特定の他者を尊敬するのではなく、家族や友人、通りすがりの見知らぬ人々、さらには生涯会うことのない異国の人々までありとあらゆる他者を尊敬するのです。

・「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである」「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気遣うことである」目の前の他者を変えようとも操作しようともしない。何かの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認める。これに勝る尊敬はありません。そしてもし、誰かから「ありのままの自分」を認められたなら、その人は大きな勇気を得るでしょう。尊敬とは、いわば「勇気づけ」の原点でもあるのです。

・ただ「子どもたちの関心事」に関心を寄せるのです。あなたの目から見て、どんなに低俗な遊びであろうと、まずはそれがどんなものなのか理解しようとする。自分もやってみて、場合によっては共に遊ぶ。「遊んであげる」のではなく、自分自身がそれを楽しむ。そのときはじめて、子どもたちは自分たちが認められていること、子ども扱いされていないこと、ひとりの人間として「尊敬」されていることを実感するでしょう。子どもだけではありません。これはあらゆる対人関係で求められる、尊敬の具体的な第一歩です。会社での対人関係でも、恋人との関係でも、あるいは国際関係においても、我々はもっと「他者の関心事」に関心を寄せる必要があります。われわれに必要なのは「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」だ。

・われわれが語り合うべきは、「悪いあの人」「かわいそうな私」ではなく、「これからどうするか」なのです。「悪いあの人」などいらない。「かわいそうな私」も必要ない。あなたがどんなに大きな声でそれを訴えても私は聞き流すだけでしょう。冷淡さゆえに聞き流すのではありません。そこに語り合うべきことが存在しないから、聞き流すのです。確かに「悪いあの人」の話を聞き、「かわいそうな私」の話を聞き、私が「それはつらかったね」とか「あなたは何も悪くないよ」と同調すれば、ひとときの癒しは得られるでしょう。カウンセリングを受けてよかった、この人に相談して良かったという満足感はあるかもしえません。でも、それで明日からの毎日がどう変わるのか?また傷ついたら癒しを求めたくなるのではないか?結局それは「依存」ではないのか?だからこそアドラー心理学では、「これからどうするか」を語り合うのです。

・問題行動の5段階は、まずは賞賛を求め、次に注目されんと躍起になり、それがかなわなければ権力争いを挑み、今度は悪質な復習に転じる。そして最終的に己の無能さを誇示する。そしてそのすべては「所属感」つまり「共同体の中に特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている

・暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。暴力とはどこまでもコストの低い安直はコミュニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえまえん。

・もしもあなたが自分自身と向き合う勇気を持ち、本当の意味で「これからどうするか」を考えられるようになったら、前に進むことができるでしょう。あなたはただ「変えられないもの」ばかりに注目して「だから無理だ」と嘆いている。「変えられないもの」に執着するのではなく、眼前の「変えられるもの」を直視するのです。・・・覚えていますか?キリスト教社会で口承されてきた「ニーバーの祈り」を。「神よ、願わくば私に、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ」。その言葉を噛みしめて、もう一度「これからどうするか」を考えるのです。

・教育者は孤独な存在です。誰からも褒めてもらえず、労をねぎらわれることもなく、みな自力で巣立っていく。感謝すらされることのないままに。生徒からの感謝を期待するのではなく、「自立」という大きな目標に自分は貢献できたのだという貢献感を持つ。貢献感の中に幸せを見出す。それしかありません。幸福の本質は「貢献感」なのだ。もしもあなたが、生徒たちから感謝されたがっているのだとしたら。「先生のおかげで」という言葉を待っているのだとしたら。・・・それは結果として、生徒たちの自立を妨げているのだと思ってください。

・「それは自分で決めていいんだよ」と教えること。自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料-たとえば知識や経験-があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。

・子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助す用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。

・人間は、その弱さゆえに集団を形成し、社会を構築した。我々の力と文明は「弱さ」のたまものなのだと。逆にいうと、人間にとって孤立ほど恐ろしいものはありません。孤立した人間は、身の安全が脅かされるにとどまらず、心の安全までも脅かされてしまう。ひとりでは生きていけないことを本能的に熟知しているのですから。ゆえに我々はいつも、他者との強固な「つながり」を希求し続けている。・・・この事実が何を意味するかわかりますか?すべての人には共同体感覚が内在し、それは人間のアイデンティティと深く結びついているのです。甲羅のない亀など想像できないように、あるいは首の短いキリンなど想像できないように、他者から切り離された人間などありえない。共同体感覚は「身につける」ものではなく、己の内から「堀り起こす」ものであり、だからこそ「感覚」として共有できるのです。アドラーはこう指摘しています。「共同体感覚は、つねに身体の弱さを反映したものであり、それとは切り離すことができない」と。人間は、身体的には弱い。しかしその心は、どんな動物にも負けないほど強い。仲間内での競争に明け暮れることが、どれだけ自然の理に反したことか、よくおわかりになったでしょう。共同体感覚とは、雲に浮かんだ理想ではありません。われわれ人間に内在する生の根本原理なのです。

・ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。ではどうするのです?他者からの承認を求めるのではなく、自らの意思で自らを承認するしかないでしょう。「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。幸福な生がどちらの先にあるのか、答えは明らかでしょう。あなたの価値を決めるのは、ほかの誰かではないのです。そんなもの不可能でしょう!われわれは自分に自信が持てないからこそ、他者からの承認を必要としているのですよ!おそらくそれは、「普通であることの勇気」が足りていないのでしょう。ありのままでいいのです。「特別」な存在にならずとも、優れていなくとも、あなたの居場所はそこにあります。平凡なる自分を、「その他大勢」としての自分を受け入れましょう。「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。「わたしであること」を認めず、他者と自分を引き比べ、その「違い」ばかり際立たせようつるのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他なりません。

・ここまでの議論を整理しましょう。まず、子どもを叱ってはならない。なぜなら、叱ることは、互いの「尊敬」を毀損する行為である。怒りや叱責は、それほどにもコストの低い、未熟で暴力的なコミュニケーション手段である。そしてまた、褒めてもいけない。褒めることは共同体の中に競争原理を生み、子どもたちに「他者は敵である」というライフスタイルを植えつけることになる。さらに、叱ることや褒めること、すなわち賞罰は子どもの「自立」を妨げる。なぜなら賞罰とは、子どもを自分の支配下に置こうとする行為であり、それに頼る大人たちは、心のどこかで子どもの「自立」を恐れている。子どもには、いつまでも「子ども」であってほしい。それゆえ賞罰というかたちで子どもたちを縛りつける。「あなたのためを思って」「あなたのことが心配だから」という言い訳を用意して、子どもを子どものままにとどめようとする。・・・こうした大人たちの態度にはいっさいの尊敬が存在せず、良好な関係も築けません。それだけじゃありません。アドラーは「承認欲求」まで否定する。他者からの承認ではなく、自らの自らによる承認に切り替えよとおっしゃる。「自立」とは、自らの手で自らの価値を決定することである。一方、自らの価値を他者に決めてもらおうとする態度、すなわち承認欲求は、ただの「依存」である。自立という言葉を聞いたとき、それを経済的な側面ばかりから考える人がいます。しかし、たとえ10歳の子どもであっても、自立することはできる。50歳や60歳であっても、自立できていない人もいる。自立とは、精神の問題なのです。

・カウンセラーであり、教育者であったアドラーは、「ひとりの友人」として、相談者と向き合っていました。だとすればあなたも、生徒たちと「ひとりの友人」として向き合うべきでしょう。あなたも教育者であり、カウンセラーなのですから。あなたがアドラー的な教育に失敗し、さらにいまだ幸せを実感できていない理由は、簡単です。仕事、交友、愛の3つからなる「人生のタスク」を回避しているからです。あなたはいま「仕事」として生徒たちと向き合おうとしている。しかし、アドラーが身をもって示しているように、生徒たちとの関係は「交友」なのです。そこのボタンを掛け違えたままでは、教育がうまくいくはずなどありません。

・アドラーの語る「すべての悩みは、対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです。

・自然界における人間は、鋭い牙も、大空を飛ぶ翼も、頑丈な甲羅も持たない、いわば身体的劣等性を抱えた存在です。だからこそ我々は、集団生活を選び、外敵から身を守ってきました。集団で狩りをして、農耕に従事し、食糧を確保し、身の安全を守りながら子どもを育てて生きてきたわけです。・・・ここからアドラーが導き出した解は、見事の一言です。われわれ人間は、ただ群れをつくったのではない。人間はここで「分業」という画期的な働き方を手に入れたのだ。分業とは人類がその身体的劣等性を補償するために獲得したたぐいまれなる生存戦略なのだ。・・・アドラーの最終的な結論です。群れをつくるだけであれば、多くの動物たちがやっていることです。しかし人間は、そこに高度な分業システムを組み込んだ上で群れをつくった。むしろ、分業するために社会を形成したと言ってもかまわない。アドラーにとっての「仕事のタスク」とは、単なる労働のタスクではありません。他者とのつながりを前提とした「分業のタスク」だったのです。他者とのつながりを前提としているからこそ「仕事」は対人関係の課題である。人間はなぜ働くのか?生存するためである。この厳しい自然を生き抜くためである。人間はなぜ社会を形成するのか?働くためである。分業するためである。生きることと働くこと、そして社会を築くことは不可分なのです。

・原則として分業の関係において個々人の「能力」が重要視される。たとえば企業の採用にあたっても、能力の高さが判断基準になる。これは間違いありません。しかし、分業をはじめてからの人物評価、また関係のあり方については、能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。そうでないと、互いに助け合うことは難しくなりますからね。そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事の取り組む態度なのです。

・われわれの共同体は、「ありとあらゆる仕事」がそこに揃い、それぞれの仕事に従事する人がいることが大切なのです。その多様性こそが、豊かさなのです。もしも価値のない仕事であれば、誰からも必要とされず、やがて淘汰されます。淘汰されずに生き残っているということは、何かしらの価値を有しているのです。

・信じることは、なんでも鵜呑みにすることではありません。その人の思想信条について、あるいはその人の語る言葉について、疑いの目を向けること。いったん留保して自分なりに考えること。これはなんら悪いことではないし、大切な作業です。その上で成すべきは、たとえその人が嘘を語っていたとしても、嘘をついてしまうその人ごと信じることです。他者を信じること。これはなにかを鵜呑みにする、受動的な行為ではありません。ほんとうの信頼とは、どこまでも能動的な働きかけなのです。たとえば私は、一人でも多くの方にアドラーの思想を知ってほしいと思っています。アドラーの言葉を届けたいと思っています。しかしこの願いは、私一人の努力によってかなうものではありません。私の言葉を受け止めてくれる人、私の言葉に耳を傾けようと思ってくれる人の「聞く意思」があって、はじめて成立することです。それでは、どうすれば私の言葉に耳を傾け、受け止めてもらえるのか?「私を信じてくれ」と強要することはできません。信じるかどうかは、その人の自由です。私にできるのはただ、自分が語りかける相手を信じること。それだけです。もしも私があなたに不信感を抱いたままアドラーを語っても、あなたは聞く耳を持ってくれないでしょう。その言説の妥当性に関係なく、はなから聞く耳を持たない。これは当然のことです。しかし私は、「私」を信じてほしいと思っている。私を信じ、アドラーの言葉に耳を傾けてほしいと思っている。ゆえに私は、先にあなたのことを信じるのです。たとえあなたが信じようとしなくとも。たとえば、子どものことを信頼していない親が、あれこれと注意をするとき。仮にその言葉が正論であったとして、子どもたちには届きません。むしろ、正論であればあるほど反発したくなるでしょう。なぜ反発するのか?親がちっとも自分のことを見ておらず、自分に不信感を抱いたまま、お仕着せの説教をしてくるからです。我々は「自分のことを信じてくれる人」の言葉しか信じようとしません。「意見の正しさ」で相手を判断するのではないのです。小さな口論から国家間の戦争まで、あらゆる争いは、「私の正義」のぶつかり合いによって発生します。「正義」とは、時代や環境、立場によっていかようにも変化するものであり、唯一の正義、唯一の答えなど、どこにも存在しません。「正しさ」を過信するのは、危険でしょう。その中でわれわれは、一致点を見出すことを求めている。他者との「つながり」を求めている。手をつなぎたいと願っている。・・・手をつなぎたいのならば、自分から手を差し出すしかないでしょう。

・マザー・テレサは「世界平和のために、我々は何をすべきですか?」と問われ、こう答えました。「家に帰って、家族を大切にしてあげてください」。アドラーの共同体感覚も同じです。世界平和のために何かをするのではなく、まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々の、小さな信頼の積み重ねが、いつか国家間の争いさえもなくしているのです。目の前のことだけを考えていればいいのですか!?いいも悪委も、そこから始めるしかないのです。世界から争いをなくしたければ、まずは自分自身が争いから解放されなければならない。生徒たちに自分を信じてほしいと思うのならば、まずは自分が生徒たちを信じなければならない。自分を棚に上げて全体の話をするのではなく、全体の一部である自分が、最初の一歩を踏み出すのです。

・我々は、心を豊かに保ち、その蓄えを他者に与えていかなければなりません。他者からの尊敬を待つのではなく、自らが尊敬を寄せ、信頼を寄せなければなりません。・・・心の貧しい人間になってはいけないのです。アドラーならきっと、こんなふうに言うでしょう。「与えよ、さらば与えられん」と。与えるからこそ、与えられる。「与えてもらうこと」を待ってはならない。心の物乞いになってはならない。

・アドラーは言います。我々はみな、「私は誰かの役に立っている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができるのだと。自らの価値を実感し、「ここにいてもいいんだ」という所属感を得ることができるのだと。しかし一方、我々は自分のおこないが本当に役立っているのかについて、知る術を持っていません。たとえ目の前に喜んでくれる人がいたとしても、それが「本当に」喜んでいるのかは原理的にわかりえないわけです。そこで浮かび上がるのが、貢献感という言葉です。「私は誰かの役に立っている」という主観的な感覚があれば、すなわち貢献感があれば、それでいい。それ以上の根拠を求める必要はない。貢献感の中に、幸せを見出そう。貢献感の中に、喜びを見出そう。我々は仕事の関係を通じて、自分が誰かの役に立っていることを実感するでしょう。我々は交友の関係を通じて、自分が誰かの役に立っていることを実感するでしょう。だとすれば、幸せはそこにあるのです。

・分業の根底に流れていたのは「私の幸せ」、つまり利己心でした。「私の幸せ」を突き詰めていくと、結果として誰かの幸せにつながっていく。分業の関係が成立する。いわば健全なギブ・アンド・テイクが働いている。そういう話でした。一方、交友の関係を成立させるのは「あなたの幸せ」です。相手に対して、担保や見返りを求めることなく、無条件の信頼を寄せていく。ここにギブ・アンド・テイクの発想はありません。ひたすら信じ、ひたすら与える利他的な態度によって、交友の関係は生まれます。つまり我々は、「私の幸せ」を追求することによって、分業の関係を築き、「あなたの幸せ」を追求することによって、交友の関係を築いていく。だとした場合、愛の関係は、何を追求した結果、成立するのでしょうか?利己的に「私の幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「私たちの幸せ」を築き上げること。それが愛なのです。「私」や「あなた」よりも上位のものとして、「私たち」を掲げる。人生のすべての選択について、その順序を貫く。「私」の幸せを優先させず、「あなた」の幸せだけに満足しない。「私たち」の二人が幸せでなければ意味がない。「二人で成し遂げる課題」とは、そういうことです。利己的では「ない」のだし、利他的でも「ない」のです。愛は、利己と利他の両方を兼ね備えるのではなく、どちらも退けるのです。我々は生まれてからずっと、「私」の目で世界を眺め、「私」の耳で音を聞き、「私」の幸せを求めて人生を歩みます。これはすべての人がそうです。しかし、本当の愛を知ったとき、「私」だった人生の主語は、「私たち」に変わります。利己心でもなければ利他心でもない、まったく新しい指針の下に生きることになるのです。幸福なる生を手に入れるために、「私」は消えてなくなるべきなのです。

・自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。だからこそ、アドラーは、共同体感覚のことをsocial interestと呼び、社会への関心、他者への関心と呼んだのです。我々は頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければならない。「私」から脱却しなければならない。甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。人間は変わることができます。そのライフスタイルを世界観や人生観を変えることができます。そして愛は、「私」だった人生の主語を「私たち」に変えます。我々は愛によって「私」から解放され、自立を果たし、本当の意味で世界を受け入れるのです。愛を知り、人生の主語が「私たち」に変わること。これは人生の、新たなスタートです。たった二人から始まった「私たち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくでしょう。それが共同体感覚です。

・第一子、また一人っ子の場合、最大の特権は「親の愛を独り占めしていた時代」を持っていることでしょう。第二子以降に生まれた子どもは、親を「ひとり占め」する経験を持ちません。常に先を行くライバルがいて、多くの場合が競争関係に置かれます。ただし、かつて親の愛をひとり占めしていた第一子も、弟や妹の誕生によって、その地位から転落せざるをえません。この挫折とうまく折り合いをつけられない第一子は、いつか自分が再び権力の座に返り咲くべきだと考えます。アドラーの言葉によると「過去の崇拝者」となり、保守的な未来について悲観的なライフスタイルを形成していきます。ただし、弟や妹が生まれたとき、すでに協力や援助についての教育を受けていれば、第一子は優れたリーダーになっていくでしょう。両親の育児を模倣して、弟や妹の世話をすることに喜びを見出し、貢献の意味を知るのです。

・アドラーは、典型的な第二子はすぐにそれとわかると言っています。第二子には、常に自分の前を走るペースメーカーがいます。そして第二子の根底には、「追いつきたい」との思いがあります。兄や姉に追いつきたい。追いつくためには急がねばならない。絶え間なく自らを駆り立て、兄や姉に追いつき、追い越し、征服したいとさえもくろんでいる。法の支配を重んじる保守的な第一子と違って、誕生順位という自然法則さえ覆したいと願っている。ゆえに第二子は、革命を志向します。第一子のように既存の権力に収まろうとするのではなく、既存の権力を転覆することに価値を置くのです。

・一人っ子の場合は、ライバルとなる兄弟はいません。しかしここでは、父親がライバルとなるでしょう。母親の愛を独占したいと願うあまり、父親をライバル視してしまう。いわゆる、マザーコンプレックスを発達させやすい環境にあります。

・フロムは言います。「人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は、無意識の中で、愛することを恐れているのである」と。そしてこう続けるのです。「愛するとは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである」と。たとえば、相手の好意をなんとなく察知した瞬間、その人のことが気になり、やがて好きになっていく。こういうことはよくありますね?これは、たとえ自分の勘違いだったとしても、なんとなく「愛される保証」が確保できた状態です。「あの人は、きっと自分のことが好きなのだ」「自分の好意を拒絶したりはしないはずだ」という担保のようなものを感じている。そして我々は、この担保を頼りに、より深く愛していくことができるわけです。一方、フロムの語る「愛すること」は、そのような担保をいっさい設けません。相手が自分のことをどう思っているかなど関係なしに、ただ愛するのです。愛に身を投げるのです。・・・愛に担保を求めてはいけない。そう。

・課題を分離するのです。愛することは、あなたの課題です。しかし、相手があなたの愛にどう応えるか。これは他者の課題であって、あなたにコントロールできるものではありません。あなたにできることは、課題を分離し、ただ自分から先に愛すること、それだけです。

・運命とは、自らの手でつくり上げるものなのです。我々は運命の下僕になってはいけない。運命の主人であらねばならない。運命の人を求めるのではなく運命といえるだけの関係を築き上げるのです。具体的には踊るのです。わかりもしない将来のことなど考えず、存在するはずもない運命のことなど考えず、ただひたすら、目の前のパートナーと「いま」をダンスするのです。アドラーは、ダンスのことを「二人の人間が共同の仕事に参加する遊び」だとして、子どもたちにも広く推奨していました。愛と結婚は、まさしく二人で踊るダンスのようなものでしょう。どこへ行くのかなど考えることなく、互いの手を取り合い、今日という日の幸せを、今という瞬間だけを直視して、くるくると踊り続ける。あなたたちが長いダンスを踊りきった軌跡のことを、人は「運命」と呼ぶでしょう。あなたは今、人生というダンスホールの壁際に立って、ただ踊る人たちを傍観している。「こんな自分と踊ってくれる人などいるはずがない」と決めつけ、心のどこかで「運命の人」が手を差し伸べてくれることを待ちわびている。これ以上みじめな思いをしないように、自分を嫌いにならないように、歯を食いしばって精一杯に自分を守っている。・・・やるべきことは一つでしょう。そばにいる人の手を取り、いまの自分にできる精一杯のダンスを踊ってみる。運命は、そこから始まるのです。

・フロムは言います。「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」と。・・・アドラーならこの「信念」を、「勇気」と言い換えるでしょう。あなたはわずかな勇気しか持っていなかった。だから、わずかにしか愛することができなかった。愛する勇気を持てず、子ども時代の、愛されるライフスタイルにとどまろうとした。それだけなのです。愛する勇気があれば、私は彼女と・・・。・・・ええ。愛する勇気、すなわちそれは、「幸せになる勇気」です。「幸せになる勇気」を持っていれば、私は彼女を愛し、「二人で成し遂げる課題」に向き合い、自立を果たしていたことでしょう。

・我々が幸せを手に入れるには、本当に愛しかないのですか!?愛だけです。「楽をしたい」「楽になりたい」で生きている人は、つかの間の快楽を得ることはあっても、本当の幸せをつかむことはできません。我々は他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。

・愛を知り、「私たち」を主語に生きるようになれば変わります。生きている、ただそれだけで貢献し合えるような人類のすべてを包括した「私たち」を実感します。すなわち共同体感覚です。さあ、私はこれ以上、あなたの課題に踏み込むことはできません。しかし、もしもアドバイスを求められるとしたなら、こう言うでしょう。「愛し、自立し、人生を選べ」と。

良かった本まとめ(2016年上半期)

<今日の独り言> 
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