現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

普化宗の日本開祖法燈国師とは?

2017-09-09 19:38:02 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」虚無僧曼荼羅 No13  5月号 

普化宗の日本開祖法燈国師とは?

法燈国師覚心と萱堂聖の覚心

普化宗は「中国唐代の普化を祖とし、由良興国寺の法燈国師覚心が日本に招来した」と

云われていますが、法燈国師の正規の伝記類にはそのような記載はありません。

どうして虚無僧たちは法燈国師を日本開祖と仰いだのか。いよいよその謎に迫ります。

法燈国師覚心(1207~1298)は信濃の人で、東大寺で得度授戒し、高野山に登って

密教を学び、また禅も学びます。当時の高野山は禅も密教も念仏もまだ分化していなかったのです。

宝治3年(1249)覚心は高野山で知り合った願性の支援で宋に渡り、滞在すること6年。

帰国後、高野山に戻りますが、3年後の正嘉2年(1258)、願性の要請によって紀州由良に移り、

西方寺の開山になります。ですから覚心は、正しくは「真言宗の西方寺の開山」でした。

覚心は永仁6年(1298)、91歳で亡くなります。それから数十年経って、

孤峰覚明(こほうかくみょう)の時に西方寺は禅宗の興国寺に改められます。

その理由は、覚明が禅家として後醍醐天皇、後村上天皇の帰依を受け、

南朝との関わりを深めていったからでしょう。

「興国」とは南朝の後村上天皇の御代1340年から1346年までの元号でもありました。

近世になって、法燈国師覚心についていくつかの伝説が生まれます。

紀州名産の金山寺(きんざんじ)味噌は、覚心が中国の径山寺(きんざんじ)で製法を学び、

日本に伝えたと云われています。

さらに覚心の名は信州味噌の祖としても知られるようになります。

覚心は、律宗、曹洞宗など各宗派と関わりがありました。時宗の一遍も覚心に会って

悟りを得たという伝説があります。高野聖(こうやひじり)の溜り場「萱堂(かやどう)」の

聖(ひじり)は、代々「覚心」と名乗り、山内で念仏を行ってきました。真言密教の聖地で

鉦太鼓を叩き、念仏を唱えることは高野山としてははなはだ迷惑でしたが、高野聖たちは

「法燈国師覚心の許しを得ている」と主張して居座ってきました。

法燈国師覚心は高野聖の祖にもなっているのです。

このことが、薦僧たちにも影響を与えたのではないでしょうか。つまり、薦僧は

諸国回遊することで高野聖や暮露、放下僧などの仲間でしたから、高野聖の祖「覚心」を

薦僧も祖と仰いだのではないかというのが私の推理です。そして室町時代の末には、

覚心は「禅宗の興国寺の開山」として知られていましたから、念仏を唱えない薦僧は

時宗と離れて、禅宗の一派とみなされるようになったのではないかと思われます。

放下僧も禅宗系とみられていました。

 

 覚心のスポンサー願性(がんしょう)

覚心の渡宋を支援した願性は、俗名を葛山(かずらやま)景倫(かげとも)といい、

源実朝(さねとも)の側近でした。実朝の命を受けて宋に渡る途中、実朝が暗殺されたため

渡宋を断念。実朝の菩提を弔うために高野山に登り、金剛三昧院で出家します。

金剛三昧院は北条政子が頼朝の菩提を弔うために建てた寺でした。願性は北条政子から

由良荘の地頭職を与えられ、金剛三昧院の別当となります。そして願性は、実朝の遺骨を

宋に分骨するために覚心を宋に送り、また由良荘に実朝供養の寺を建てます。

それが西方寺です。西方の国、宋に憧れていた実朝の思いを込めた寺名でした。

やがて北条政子も亡くなると、西方寺は北条政子の菩提も弔う寺となります。

それから200年後、この葛山氏の子孫が北条早雲と結ばれ、生まれたのが「幻庵」でした。

北条氏の沼津の城は興国寺城ですし、北条幻庵こそ近世の虚無僧の成立に最も大きな力と

なった人物と私は推察しています。この続きは次号で。

 

風に吹かれて

もう50年も前のことです。虚無僧に憧れて、19歳の時虚無僧の旅に出ました。

親から預かった学費9万円を持ち逃げし、大阪で天蓋と袈裟、着物等の虚無僧用具一式を

買い込んで。向かった先が「虚無僧の大本山」であるはずの由良興国寺。

車も無い時代です。歩いて行くには大変でした。ようやくの思いでたどり着いた興国寺でしたが、

「うちは虚無僧とは関係ありません」と、ピシャリ門前払い。呆然自失する私。

その時のショックをバネにして、今日までの「虚無僧探しの旅」が始まりました。

 


『虚鐸伝記国字解』の謎 

2017-09-09 19:31:00 | 虚無僧って?

虚無僧曼荼羅 No.14  6月号に寄稿

『虚鐸伝記国字解』の謎 

普化宗の由来

普化宗の由来については、江戸時代の末、寛政7年(1795)に京都で出版された

『虚鐸伝記国字解(きょたくでんきこくじかい)』の他、一月寺や京都明暗寺等の

縁起があります。まず『虚鐸伝記国字解』によると。

普化禅師は唐代、鎮州の人。鐸(たく)を振って「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」と

唱えながら市内を巡っていた。ある日、張伯という者が教えを請うたが断られたので、

普化の振る鐸の音を笛で模して吹いた。それでこの笛のことを”虚鐸”という。

その後、張伯より16代の孫の張参が護国寺で学んでいたとき、日本から学心という僧が

やってきた。学心は張参の吹く虚鐸の音に感じ入り、虚鐸を学び帰国し、弟子の寄竹に伝授した。

というものです。ここでは「法燈国師覚心」は「学心」になっています。張伯は普化に

教えを請うたが断られたのですから、普化宗の継承者ではありえませんね。

普化は尺八を吹かなかったので、「普化尺八=虚鐸」の祖はむしろ「張伯」と

いうことになります。全くおかしな内容なのです。

普化の行状を記した書『臨済録』他では、普化が振ったのは「鈴」となっています。

「鐸」とするのは『虚鐸伝記国字解』のみです。また『虚鐸伝記国字解』以前に

「虚鐸」という名称はどこにも出てきません。全くの創り話なのです。

 

法燈国師と普化宗は関係なし

『虚鐸伝記国字解』では、「学心は寄竹の他に国佐、理正、法普、宗恕という

四人の(日本人の)居士にも虚鐸を伝えた」と書かれています。

ところが「下総一月寺」や「京都明暗寺」の縁起では、「法燈国師覚心が

帰朝の際、国佐・理正・宝伏、宋恕という(宋人の)四居士が同船してやって来た」と

なっています。つまり法燈国師覚心自身が尺八を学んで帰朝したのではなく、

「普化のような変わり者の四人の居士が同船して日本にやってきた」というのです。

これには『虚鐸伝記国字解』の作者の意図が隠されているようです。

江戸時代を通じて虚無僧の本寺として幕府に認められていたのは、

下総小金(現千葉県松戸市)の一月寺と、青梅の鈴法寺でした。これに対抗して、

京都の明暗寺が強引に興国寺と本寺・末寺の契約を結び、興国寺をバックに

1760年代に「虚無僧の総本山は明暗寺である」と幕府に訴え出ていたのでした。

それで、『虚鐸伝記国字解』は京都明暗寺の主張を後押しするために創られたものと

考えられるのです。「法燈国師学(覚)心自身が張参から普化の禅と虚鐸を学び、

帰国して寄竹の他四人の弟子に伝えた。奇竹は京都明暗寺を開き、四居士の一人

宝伏は同じく法燈門下の金先とともに関東に下り、下総一月寺を起こした」として、

明暗寺も一月寺も法燈国師の門下であると作文したのではないか。

これに対して、一月寺では法燈国師と普化宗との関連をことさらに無視したものと

思われます。そもそも法燈国師覚心が普化宗を学んだとか尺八を吹いたという記録は

正史にはないので、一般に流布されている「法燈国師=普化宗日本開祖説」は

正に虚妄でした。「薦僧(こもそう)」を「虚妄僧(こもそう)と当て字した史料もあります。

 

『虚鐸伝記国字解』にはさらに続きがあり、虚鐸は寄竹から塵哉(じんさい)、儀伯、

臨明、虚風へと伝えられ、虚風の弟子が虚無(きょむ)。虚無は実は楠正成の孫「楠正勝」で、

天蓋で顔を隠し、世を忍ぶ姿となって諸国回遊した。世人「何者ぞ」と問うと

「虚無(きょむ)」と答えたので、この門徒が「虚無僧(きょむそう」と呼ばれるように

なったと、虚無僧の由来を述べています。

(『虚鐸伝記国字解』では「虚無僧」を「キョムソウ」とルビがふってあります)。

そして、虚無から儀道、自東、可笑、空来、自空、恵中、一黙、普明、知来へと

継承され、知来の弟子が「頓翁」で、この「頓翁」が『虚鐸伝記』を書き残した

とあります。頓翁は「寛政年中の人」とありますので、江戸時代初期の人ということに

なります。この頓翁が書き残した『虚鐸伝記』が、公家の阿野中納言家に伝えられ、

山本守秀が注釈を加えて世に出したというのです。山本守秀は阿野氏の一族です。

山本守秀は「『虚鐸伝記』には楠正勝のことが詳しく書かれていないのは不満である」として、

別の史料に基づいた「楠正勝」の伝承を『虚鐸伝記国字解』の巻の上にもってきており、

学心のことは「巻の中」に、そして「巻の下」には、「普化禅師」と「法燈国師覚心」に

ついて、尺八関連以外の、むしろ正しい伝承を掲載しているのです。

 

 


『虚鐸伝記国字解』の謎 

2017-09-09 05:06:53 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」寄稿  虚無僧曼荼羅 No.15  7月号

『虚鐸伝記国字解』の謎 2

前号までの内容を整理してみますと

①  薦(ルビ:こも)を背負って尺八を吹く薦僧(こもそう)は、

   室町時代の中頃から文献に現れる。それ以前鎌倉時代には存在が確認されない。

②  薦僧は暮露(ぼろ)や鉢叩き、放下僧(ほうかそう)と同様に馬聖

  (うまひじり)=時衆の仲間とみられていた。

③  高野聖の苅萱堂(かるかやどう)の主は代々覚心であり、

   薦僧も覚心を祖とするようになったのではないか。

④  普化の行状を記した『臨済録』が日本にはいってきたのは鎌倉時代の末であり、

  普化の名が知られるようになったのは、一休の時代1400年代になってから。

⑤ 普化に弟子は無く、普化は尺八を吹かなかったのだから、尺八を吹くことが

  座禅の代わりという普化宗は仏教史上存在しない。

⑥ 京都明暗寺や下総一月寺の縁起では、「法燈国師覚心が宋から帰国する際に、

  四人の居士が同船してきた」となっている。

 「法燈国師覚心自身が普化宗と虚鐸(尺八)を学んで帰国した」とするのは

 『虚鐸伝記国字解』のみ。

 

というわけで、「鎌倉時代に法燈国師が普化宗を日本に伝えた」などという話は

全くありえないのです。では『虚鐸伝記国字解』は何の目的で、普化と法燈国師との

話を創作したのでしょうか。

 

『虚鐸伝記国字解』の意図

実は『虚鐸伝記国字解』は「普化と法燈国師」のことよりも、楠正勝に多くを割いています。

「虚無僧宗の始祖は楠正成の孫正勝である」というのも創作ですが、「しかれば、

この宗に入る輩(ともがら)は、志を篤くし(中略)、ただ逍遥として風流を以て是とし、

威勝(いかつ)い振る舞いをなさざれば身を恥ずかしめず」と結んでいます。

つまり江戸時代の後半、虚無僧が堕落して、世間の嫌われ者になっていることを戒めるために、

「楠正勝の志にならい、世を忍び、行いを正しくせよ」と説いているのです。それが

『虚鐸伝記国字解』を世に出した真意でした。その背後には、関東の一月寺、鈴法寺と

対抗する京都明暗寺の意向があったものと思われます。

ちなみに『虚鐸伝記国字解』でも「普化宗」という語は無く、「虚無僧宗」となっています。

 

阿野・葛山・北条の不思議な縁

では『虚鐸伝記国字解』は、なぜ虚無僧寺ではなく、公家の阿野家に伝えられ、

山本守秀によって刊行されたのでしょうか。

阿野氏の祖は、牛若丸(源義経)の兄今若丸です。今若丸は、異母兄の頼朝が天下をとると、

駿河国駿東郡阿野荘(現静岡県沼津市西部)を領し、阿野氏の祖となります。

その子孫に後醍醐天皇の後宮「阿野廉子(ルビ:れんし)」がいます。南朝の後村上天皇の

生母です。後村上天皇によって西方寺は興国寺と改められました。

西方寺は、葛山景倫(ルビ:かげみち)が源実朝(ルビ:さねとも)と北条政子の菩提を弔うために

建てた寺でした。その北条氏を滅ぼした後醍醐天皇とその子後村上天皇が、西方寺を

手厚く遇したのは、政子の怨霊を封じるためでしょうか。

その阿野氏は南北朝合一後、北朝の公家の座に返り咲き、江戸時代、明治、昭和と続きます。

そして富士山麓の阿野荘の隣人は、西方寺を建てた葛山氏でした。

北条早雲が最初に沼津に築いた城は興国寺城です。

早雲と葛山氏の娘との間に生まれた北条幻庵は尺八の名手でした。北条家の家臣の多くが

尺八をたしなんでいましたから、北条家滅亡後、何人かの遺臣が薦僧になったと考えられます。

阿野氏と葛山氏、北条氏はそれぞれが興国寺となんらかの関わりを持っているのです。

 

 

今はネットで何でも調べられる時代になりました。阿野氏の系図を検索してびっくり。

山本氏は阿野氏の分家であること。阿野氏の最後の当主阿野佐喜子様は私の東京の家の近くに

住んでおられたこと。そして音楽家近衛秀麿の次男と結婚され、今その二人の姉妹が、

チェロリストとヴァイオリニストとして世界的に活躍されていることが判り、

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