「邦楽ジャーナル」虚無僧曼荼羅 No13 5月号
普化宗の日本開祖法燈国師とは?
法燈国師覚心と萱堂聖の覚心
普化宗は「中国唐代の普化を祖とし、由良興国寺の法燈国師覚心が日本に招来した」と
云われていますが、法燈国師の正規の伝記類にはそのような記載はありません。
どうして虚無僧たちは法燈国師を日本開祖と仰いだのか。いよいよその謎に迫ります。
法燈国師覚心(1207~1298)は信濃の人で、東大寺で得度授戒し、高野山に登って
密教を学び、また禅も学びます。当時の高野山は禅も密教も念仏もまだ分化していなかったのです。
宝治3年(1249)覚心は高野山で知り合った願性の支援で宋に渡り、滞在すること6年。
帰国後、高野山に戻りますが、3年後の正嘉2年(1258)、願性の要請によって紀州由良に移り、
西方寺の開山になります。ですから覚心は、正しくは「真言宗の西方寺の開山」でした。
覚心は永仁6年(1298)、91歳で亡くなります。それから数十年経って、
孤峰覚明(こほうかくみょう)の時に西方寺は禅宗の興国寺に改められます。
その理由は、覚明が禅家として後醍醐天皇、後村上天皇の帰依を受け、
南朝との関わりを深めていったからでしょう。
「興国」とは南朝の後村上天皇の御代1340年から1346年までの元号でもありました。
近世になって、法燈国師覚心についていくつかの伝説が生まれます。
紀州名産の金山寺(きんざんじ)味噌は、覚心が中国の径山寺(きんざんじ)で製法を学び、
日本に伝えたと云われています。
さらに覚心の名は信州味噌の祖としても知られるようになります。
覚心は、律宗、曹洞宗など各宗派と関わりがありました。時宗の一遍も覚心に会って
悟りを得たという伝説があります。高野聖(こうやひじり)の溜り場「萱堂(かやどう)」の
聖(ひじり)は、代々「覚心」と名乗り、山内で念仏を行ってきました。真言密教の聖地で
鉦太鼓を叩き、念仏を唱えることは高野山としてははなはだ迷惑でしたが、高野聖たちは
「法燈国師覚心の許しを得ている」と主張して居座ってきました。
法燈国師覚心は高野聖の祖にもなっているのです。
このことが、薦僧たちにも影響を与えたのではないでしょうか。つまり、薦僧は
諸国回遊することで高野聖や暮露、放下僧などの仲間でしたから、高野聖の祖「覚心」を
薦僧も祖と仰いだのではないかというのが私の推理です。そして室町時代の末には、
覚心は「禅宗の興国寺の開山」として知られていましたから、念仏を唱えない薦僧は
時宗と離れて、禅宗の一派とみなされるようになったのではないかと思われます。
放下僧も禅宗系とみられていました。
覚心のスポンサー願性(がんしょう)
覚心の渡宋を支援した願性は、俗名を葛山(かずらやま)景倫(かげとも)といい、
源実朝(さねとも)の側近でした。実朝の命を受けて宋に渡る途中、実朝が暗殺されたため
渡宋を断念。実朝の菩提を弔うために高野山に登り、金剛三昧院で出家します。
金剛三昧院は北条政子が頼朝の菩提を弔うために建てた寺でした。願性は北条政子から
由良荘の地頭職を与えられ、金剛三昧院の別当となります。そして願性は、実朝の遺骨を
宋に分骨するために覚心を宋に送り、また由良荘に実朝供養の寺を建てます。
それが西方寺です。西方の国、宋に憧れていた実朝の思いを込めた寺名でした。
やがて北条政子も亡くなると、西方寺は北条政子の菩提も弔う寺となります。
それから200年後、この葛山氏の子孫が北条早雲と結ばれ、生まれたのが「幻庵」でした。
北条氏の沼津の城は興国寺城ですし、北条幻庵こそ近世の虚無僧の成立に最も大きな力と
なった人物と私は推察しています。この続きは次号で。
風に吹かれて
もう50年も前のことです。虚無僧に憧れて、19歳の時虚無僧の旅に出ました。
親から預かった学費9万円を持ち逃げし、大阪で天蓋と袈裟、着物等の虚無僧用具一式を
買い込んで。向かった先が「虚無僧の大本山」であるはずの由良興国寺。
車も無い時代です。歩いて行くには大変でした。ようやくの思いでたどり着いた興国寺でしたが、
「うちは虚無僧とは関係ありません」と、ピシャリ門前払い。呆然自失する私。
その時のショックをバネにして、今日までの「虚無僧探しの旅」が始まりました。