現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

小田原北条氏と虚無僧

2017-09-07 21:24:45 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」H29年8月号 寄稿記事

虚無僧曼荼羅 16  

小田原北条氏と虚無僧

 前号で「北条早雲(?-1519)の最初の城は興国寺城」と

書きましたが、この話も、実は疑いがあります。

今川義元の時代「天文18年(1549)興国寺の跡に城を建てた」

という記録があるからです。早雲の死後30年後のことです。

それなのになぜ「早雲の最初の城が興国寺城」とされたのかが

問題となります。

北条早雲というのも正しくはありません。元の名は伊勢新九郎で、

北条を名乗るのは二代目の氏綱からです。その小田原北条氏は

「早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直」と五代続いて、天正18年

(1590)豊臣秀吉に攻められ滅亡します。

 

早雲と葛山氏の娘との間に生まれたのが北条幻庵((げんあん)。

葛山氏の祖景倫(かげとも)は、源実朝と北条政子の菩提を弔うために

紀州由良に西方寺(後の興国寺)を建て、法燈国師覚心を開山に迎えた人です。

幻庵は子供の頃は京都で育てられ、連歌、茶の湯等高い教養を身につけ、

尺八の製作も手掛けます。幻庵が作った尺八は「幻庵切」として都で評判となり、

幻庵の影響で北条家の家臣の多くは尺八を吹いたといいます。

 

北条家の家訓『早雲寺殿二十一個条』には「囲碁、将棋、尺八、笛の類は

知らずとも恥にはならない。ただ空しく時を過ごすよりは(たしなむのも良い)」

というようなことが書かれています。

 

『北条五代記』に興味深い記録があります。「(山上)宗仁という茶人が

やってきて、一味違った茶の湯と云うことで、北条一門や家老衆が巡礼や行者、

虚無僧の恰好で、毎日茶会を開いていた」というのです。

また幻庵は乱波(らっぱ)(忍者)の風魔を抱えており、

風魔は短い尺八を通信手段として使っていたという伝説もあります。

伊豆の修善寺の南、大平(おおだいら)は幻庵の屋敷があったところで、

幻庵の菩提寺「金龍院」があります。その近くに旭滝(あさひだる)があり、

滝の傍らには瀧源寺(ろうげんじ)という虚無僧寺がありました。

小田原落城後、北条家の遺臣が虚無僧となって住みついたのでしょう。

虚無僧本曲の「滝落ち」は、瀧源寺の虚無僧が吹いた曲と伝えられています。

 

北条氏滅亡後

北条家最後の当主は氏直。氏直の室は徳川家康の娘でしたから、

小田原落城後、命を助けられ高野山に幽閉されます。翌年には

赦免されるのですが、まもなく30歳の若さで病死してしまいます。

 

紀州の興国寺にも、興味深い記録があります。興国寺は天正13年

(1585)秀吉に攻められて破壊されたが、慶長6年(1601)浅野幸長が

入封してきて、再建を図った時、寺墟に行者や虚無僧が棲んでいて

追い払われた」というのです。

 

これは推測ですが、この虚無僧は北条氏直に付き従って高野山に来ていた

遺臣ではなかったか。そして、興国寺を追われた虚無僧が宇治を経由して

京都に移り、明暗寺の祖となったのではないか。明暗寺の縁起に

「宋から渡来した四人の居士が興国寺の普化谷に住み、風呂を焚いていた」とか、

「寄竹が宇治に移り住んだ」とあるのは、この時の記憶ではなかったかと

思われるのです。以下次号

 

 

風の吹くまま

20代の頃、虚無僧の恰好をして箱根を回った時のことです。

歩いていると早雲寺があり、北条五代の墓の前で尺八を吹きました。

その時は、北条氏が虚無僧と関係があるなどとは全く知らず、

何か引き寄せられるようにたどり着いた所が北条五代の墓だったのです。

こうした不思議な体験を数多くしてきました。