「邦楽ジャーナル」寄稿 虚無僧曼荼羅 No.15 7月号
『虚鐸伝記国字解』の謎 2
前号までの内容を整理してみますと
① 薦(ルビ:こも)を背負って尺八を吹く薦僧(こもそう)は、
室町時代の中頃から文献に現れる。それ以前鎌倉時代には存在が確認されない。
② 薦僧は暮露(ぼろ)や鉢叩き、放下僧(ほうかそう)と同様に馬聖
(うまひじり)=時衆の仲間とみられていた。
③ 高野聖の苅萱堂(かるかやどう)の主は代々覚心であり、
薦僧も覚心を祖とするようになったのではないか。
④ 普化の行状を記した『臨済録』が日本にはいってきたのは鎌倉時代の末であり、
普化の名が知られるようになったのは、一休の時代1400年代になってから。
⑤ 普化に弟子は無く、普化は尺八を吹かなかったのだから、尺八を吹くことが
座禅の代わりという普化宗は仏教史上存在しない。
⑥ 京都明暗寺や下総一月寺の縁起では、「法燈国師覚心が宋から帰国する際に、
四人の居士が同船してきた」となっている。
「法燈国師覚心自身が普化宗と虚鐸(尺八)を学んで帰国した」とするのは
『虚鐸伝記国字解』のみ。
というわけで、「鎌倉時代に法燈国師が普化宗を日本に伝えた」などという話は
全くありえないのです。では『虚鐸伝記国字解』は何の目的で、普化と法燈国師との
話を創作したのでしょうか。
『虚鐸伝記国字解』の意図
実は『虚鐸伝記国字解』は「普化と法燈国師」のことよりも、楠正勝に多くを割いています。
「虚無僧宗の始祖は楠正成の孫正勝である」というのも創作ですが、「しかれば、
この宗に入る輩(ともがら)は、志を篤くし(中略)、ただ逍遥として風流を以て是とし、
威勝(いかつ)い振る舞いをなさざれば身を恥ずかしめず」と結んでいます。
つまり江戸時代の後半、虚無僧が堕落して、世間の嫌われ者になっていることを戒めるために、
「楠正勝の志にならい、世を忍び、行いを正しくせよ」と説いているのです。それが
『虚鐸伝記国字解』を世に出した真意でした。その背後には、関東の一月寺、鈴法寺と
対抗する京都明暗寺の意向があったものと思われます。
ちなみに『虚鐸伝記国字解』でも「普化宗」という語は無く、「虚無僧宗」となっています。
阿野・葛山・北条の不思議な縁
では『虚鐸伝記国字解』は、なぜ虚無僧寺ではなく、公家の阿野家に伝えられ、
山本守秀によって刊行されたのでしょうか。
阿野氏の祖は、牛若丸(源義経)の兄今若丸です。今若丸は、異母兄の頼朝が天下をとると、
駿河国駿東郡阿野荘(現静岡県沼津市西部)を領し、阿野氏の祖となります。
その子孫に後醍醐天皇の後宮「阿野廉子(ルビ:れんし)」がいます。南朝の後村上天皇の
生母です。後村上天皇によって西方寺は興国寺と改められました。
西方寺は、葛山景倫(ルビ:かげみち)が源実朝(ルビ:さねとも)と北条政子の菩提を弔うために
建てた寺でした。その北条氏を滅ぼした後醍醐天皇とその子後村上天皇が、西方寺を
手厚く遇したのは、政子の怨霊を封じるためでしょうか。
その阿野氏は南北朝合一後、北朝の公家の座に返り咲き、江戸時代、明治、昭和と続きます。
そして富士山麓の阿野荘の隣人は、西方寺を建てた葛山氏でした。
北条早雲が最初に沼津に築いた城は興国寺城です。
早雲と葛山氏の娘との間に生まれた北条幻庵は尺八の名手でした。北条家の家臣の多くが
尺八をたしなんでいましたから、北条家滅亡後、何人かの遺臣が薦僧になったと考えられます。
阿野氏と葛山氏、北条氏はそれぞれが興国寺となんらかの関わりを持っているのです。
今はネットで何でも調べられる時代になりました。阿野氏の系図を検索してびっくり。
山本氏は阿野氏の分家であること。阿野氏の最後の当主阿野佐喜子様は私の東京の家の近くに
住んでおられたこと。そして音楽家近衛秀麿の次男と結婚され、今その二人の姉妹が、
チェロリストとヴァイオリニストとして世界的に活躍されていることが判り、
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