現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

一休こそ虚無僧の元祖か

2017-09-12 05:12:05 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」連載 虚無僧曼荼羅 No.7  11月号

 一休こそ虚無僧の元祖か

虚無僧の源は「薦(こも)を腰に付けて諸国を回遊していた薦僧(こもそう)」でした。

その薦僧と中国唐代の普化(ふけ)を結びつけたのは誰かが虚無僧の最大の謎です。      

普化は『臨済録』(1120年)などに登場してくる奇僧ですが、中国では普化の後継者はおらず、

普化宗などは存在しませんでした。日本でも『臨済録』がはいってきたのは鎌倉時代の末ですから、

それ以前に普化を知っている人はいなかったはずです。その『臨済録』を読んで、普化に注目したのが

一休(1394-1481)でした。そう、あのトンチで有名な一休さんです。

 

一休が普化僧(こもそう)に?

江戸時代の初めに刊行された『一休関東咄(はなし)』に、「一休が関東下向の折、

普化僧(こもそう)の尺八を吹きて通らせ給う」という話があります。「普化僧」に

「こもそう」とルビがふられています。

 

一休は室町時代の臨済宗大徳寺派の僧ですが、既存の教団を批判し、

風狂に生きた禅僧でした。その実相を探る史料は『一休和尚年譜』と『狂雲集』です。

今日「一休さん」として親しまれている逸話のすべては、江戸時代以降に創られたものです。

一休が関東に赴いたこともありませんし、「水飴」の話、「屏風の虎」「このハシ渡るべからず」

などの話は、すべて後世の創り話です。しかしこれらの話は、一休の言行を知り尽くした上での創作なのです。

 

では「一休が普化僧となって」とはいったい何を意味しているのでしょう。

一休ゆかりの寺、京田辺市の酬恩庵一休寺と大徳寺芳春院には「一休愛用の尺八」というのが

遺されています。1尺1寸(33cm)ほどの短い「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる尺八です。

その真贋(しんがん)は不明ですが、一休は尺八に関する詩をいくつか作っていますので、

尺八大好き人間だったことは間違いありません。そしてまた「普化」についての詩を

3編作っています。そのひとつ「普化を賛す」と題して

 

 徳山臨済同行をいかん 

 街市の瘋癲(ふうてん)群衆驚く    

 坐脱立亡(りゅうぼう)敗闕(はいけつ)多し、

 和鳴隠隠たり宝鈴の声

そう、普化は瘋癲(ふうてん)と呼ばれていました。その「瘋癲の普化には名僧の徳山も

臨済もかなわない」と一休はいうのです。

 

大徳寺の住持に

  

一休がいかに普化を賛美し、尺八を愛したかは、『狂雲集』に記載された次の

法語からわかります。81歳で大徳寺の住持(=住職)に就任した時の法語では

 「明頭来明頭打 暗頭来暗頭打

  四方八面来旋風打 虚空来連架打」 (以下略)

と、普化の偈(げ)を借用しているのです。     

続いて退任の法語が

 「酒に淫し色に淫し亦詩に淫す (中略)

  尺八を弄(ろう)して云う 

 一枝の尺八知音少なし」 と。

退任の挨拶が「この尺八のすばらしさを知る者はおるまい」というのですから、

これを聞いた人たちは、なんのこっちゃ、ちんぷんかんぷんだったことでしょう。

一休の晩年は応仁の乱で荒廃した時代。多くの知識人が都を離れ一休のもとに

集まって来ました。そして一休の言行から普化を知り、尺八を吹く人も増えたのでした。

その一人が朗庵、そして一路でした。この続きは次回。

 

 

 

風の吹くまま

  

『一休関東咄』(1672年刊)

一休が関東に赴いた時、山伏から問答をふっかけられる。

山伏「これ普化僧、いずれへ?」

一休「風の吹くまま」

山伏「なに、風吹かぬときはいいかに?」

 

一休「(尺八を)吹いていく」

他愛ない話ですが、「風が吹かなければ、自ら吹いていこう」という言葉が

私を虚無僧に駆り立てたのでした。バブルはじけてリストラ失業。尺八演奏の仕事も

こなくなって、喰うや喰わずの時、虚無僧になって自己PRに励んだのでした。

 

 

 


普化の信奉者 堺の一路

2017-09-12 05:03:51 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」虚無僧曼荼羅 No.8  12月号

 普化の信奉者 堺の一路

私は「吸江(きゅうこう)流尺八の一路(いちろ)」と自称していますが、

実は600年前、一休と同時代に「一路」という人物がいました。

「一路は泉州(現大阪府)堺の人。ある日一休が一路を訪ね、“万法みな道あり、

一路とはいかに”と問うと、一路は“万事休めといいながら一休(ひとやす)みとはこれいかに”と返し、

二人は大笑いして無二の親友となった」という話があります。よくできた話ですが、

これは江戸時代に書かれたもので、それ以前の一休関連の史料には出てきません。

ただし一路が実在していたことは、当時の人の日記や漢詩などから明らかです。

一路も貴人の出で、作詩に長(た)け、宮中や文人の間でも知られる存在でしたが

遁世(とんせい)し、その生きざまは一休同様に自由磊落(らいらく)だったようです。

最後は食を断って自死しています。その死にざまは、棺桶に入って昇天したという普化にも

通じるところがあります。

 

吸江庵の朗庵

 さて、もう一人「朗庵(ろうあん)」について、黒川道祐(? - 1691)の

『雍州府志(ようしゅうふし)』に記載があります。「雍州(ようしゅう)」とは

山城国のことで、京都の名所旧跡、寺社等をくまなく探索して、由緒、伝聞を

書き留めたものです。宇治の川辺にあった「吸江庵(きゅうこうあん)」について。

「中世異僧あり朗庵と号す。普化振鈴の作略を慕い、常に尺八を好み自ら普化道者と号す。

尺八一枝の外、一物をも携えず。大徳寺一休和尚と友として善し。

一説に虚無僧の祖たるなり」と。

その「朗庵」の絵というのがありますこの絵の上には、「余(私)が東奥行脚(あんぎゃ)の砌(みぎり)、

鎌倉の建長寺に逗留した折り、祥啓(しょうけい)という画僧が、わが体のはなはだ異なるを見て

紙に描いてくれた。それで(私が)年来の所執(しょしゅう)を述べて書く」

「龍頭を切断して以来

尺八寸中古今に通ず

吹き出す無常心の一曲

三千里の外知音絶す

文明丁酉(ていゆう)の秋、宇治の旧蘆にて朗庵」と書かれています。

「文明丁酉」は文明9年(1477)。一休は文明13年(1481)に88歳で亡くなっていますので、

一休の最晩年の頃のこととなります。

さて、この「朗庵」の絵に描かれている尺八は、異様に長く、上の方に響孔がついていますので、

中国の洞簫(どうしょう)のようです。釣り竿にはリールがついており、明らかに日本人離れした

恰好ですので、中国からの渡来人ではないかと思われます。

そして「龍頭切断」の詩偈(しげ)は、一休の没後30年ほどして書かれた『體源抄(たいげんしょう)』には

「狂雲子(きょううんし)の作」と記されています。「狂雲子」とは一休のことですから、

朗庵は一休と親交があり、一休から聞いた詩偈を書いたのではないかと、私は推察しています。

「龍頭」は「両頭」に掛けたもので、『明頭来明頭打、暗頭来暗頭打』の普化の偈に通じます。

竹の両端を切って作られた尺八から吹き出す無常心の曲は、古今東西の真理に通じ、

三千里の彼方まで普く照らし絶える」というのでしょうか。

一休から普化の存在を知り、普化の境涯を真似、「普化道者」「今普化」と呼ばれたのが「朗庵」でした。

 

この絵は後世かなり知られていたようで、何点かの写しがありますし、狂言の『楽阿弥』にも

「かの朗庵の頌にも龍頭を切断し…」とのセリフがあります。また、この絵から創作されたのでしようか、

「蘆安(ロアン)という渡来人に、一休が “おまえさんの言葉はわからないが、その尺八を吹いて

全国どこへでも行ける”と諭した」というような話もあります。

「言葉はいらない、尺八一管の音で衆生を済度(ルビ:さいど)する」という虚無僧の悟りに通じます。

 

図1 「一路居士」 (『秀雅百人一首』 弘化5 緑亭川柳 葛飾北斎等画 より)

図2 「祥啓筆 朗庵像」 (『日本画大成』 昭6 東方書院 より)

 

 

風に吹かれて

 

朗庵と一路を“同一人物”としたのが、林羅山の『尺八記』です。

「宇治庵主 狂雲子、一路なる者あり。共に世を避け、尺八を吹く」と。

狂雲子こと一休も「宇治の庵主」にされてます。方や一路が宇治に住んだという

記録も無いのですが、『雍州府志』の記載とミックスされて、「宇治の庵」の名は

「吸江庵」。その庵主の名は「朗庵一路」と結びつけられてしまったようです。

そして、私は「吸江流一路」を勝手に名乗っております。

一路と朗庵が同一人物とするには少々難があるのですが、そこは気にしない気にしない。