現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

若者に思う

2012-04-02 17:39:35 | 社会問題
たまに「回転寿司」の店に行くと、システムが
変わっている。会計時、バーコード読取機の
ようなものを、積み上げられたお皿に
当てるだけで、金額が計算できるのは以前から。

今や、欲しいメニューにタッチするだけで、その
品が自動的に廻ってきて自分のテーブルに落ちる。

そうした「プログラムを開発する人がいる」と
いうことに驚くのだ。

ニッセイ(日本生命)が全職員に持たせるノート・
パソコンもそうだ。その仕組み、ソフトを考え
る人がいる。

車もガソリン車からハイブリット、電気自動車と、
従来の常識、知識とは全く違った車が創造されて
いる。

これからの若者は、就職したら、そのような仕事を
しなければならない。“未知の世界の創造”だ。

病院のシステムもどんどん変わる。検査機器、
治療機器も日進月歩。がん治療の最新「陽子線治療」
を開発した人は どういう頭をしているのかと思う。

私など、もう到底無理。就職した若者が3年で
離職するのも判らんでもない。この時代を生きれるのは
数パーセントの超能力者だけかと思う。


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「愛知大学」が名古屋駅近くに移転

2012-04-02 17:25:00 | 社会問題
今朝の名古屋駅。おびただしい若者の数。
名古屋駅近くに「愛知大学」の新校舎が建ち、
その学生たちで溢れかえったのだ。

これまで、各大学は郊外に広大なキャンパスを
築いてきた。おかげで市内に住む学生は、下宿
するか、長い通学時間を強いられてきた。
大先輩のO氏は「自分らの頃は豊橋だった。
朝7時に乗ってようやく9時に着いた。まともに
授業なんか出れやせん。毎日 市内の麻雀屋に
入り浸っていた」と。

それが、名古屋駅近くの、JRの操車場跡地に
移転してきたのだ。周囲はトヨタ本社を始め
主要企業のビルが建ち並ぶ。「愛知大学」も
オフィスビルのような校舎で、周囲に溶け込む。

大学という隔離された“学びの舎”から、より
実践的な“実学”を目指すという。第1、第2
外国語の一番人気は「中国語」だというから
驚き。

時代が大きく変わる息吹を感じる。


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ペーパー レス

2012-04-02 16:53:09 | 社会問題
富士通SSL、ペーパレス会議システムを新型iPadに対応(マイナビニュース) - goo ニュース

ニッセイ(日本生命)の商品が変わった。これまでは
主商品に特約をセットした「折り詰め弁当型」だった。
それが「特約」をすべて廃止し、すべて「単体商品」
として、顧客が必要な保障を必要な額だけ選択する
ようになった。

そして、「申込書」が無い。「告知書」も無い。
「領収証」も無い。「約款」も無くなった。
すべてオリジナルのノートパソコン(富士通製)で
処理。

契約内容を取り決めた『約款』は必ず契約者に
手渡すものとされていたが、どうせ読みはしない
ものだった。そのために膨大な紙と印刷代が費や
されていたのだ。

極め付きは、契約時に「現金」も不要。「カード決済」。
これではもう、カードの無い私などは「保険」に
加入できない。

本店からの「契約確認」もパソコンのカメラ機能を
使って「テレビ電話」だそうだ。

年配の職員は、もう ついていけないかも。
時代が変わる。いや 変わった。



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「変額保険」ついに売り止め

2012-04-02 14:53:49 | 社会問題
三井生命、三菱東京UFJ銀行が「変額保険」の販売を
中止するとのニュース。

「変額保険」は、生命保険でも株式などに投資して
ハイリターン(高利回り)が期待される商品。逆に
「ハイリスク」=元本割れすることもありうる。

昭和47年、千代田生命入社2年目で社長室調査課に
配属された私。英語が苦手で、英語の試験の無い
千代田生命を受けたのに、皮肉にも最初の仕事が英書の
翻訳だった。そして『変額保険』についての調査を
命じられた。その仕組みや概念、運用方法など、
従来の生命保険とは全く異なる商品に随分面食らった
ものである。

翌 昭和48年の「オイルショック」で、生保業界あげて
「変額保険」の発売は見送られた。それから20年ほどして、
バブルの翳りが見えた頃から、中小生保や外資系生保では
この「変額保険」を中心に販売するようになった。

利回りがどんどん低下する中で、外国の株や債権に
投資すれば、高利回りが得られるという思惑だった。

それが、リーマンショック以降、株価の世界的暴落で
各社多額の損失計上を負うことになった。

従来の国内生保との差別化を図って「変額保険」一本槍で
きた外資系生保などは「売る商品がない」状況に追い詰め
られている。業界№1の日本生命は、商品のラインアップを
大幅に変えた。生き残れるのはそうした会社だ。

「山鹿灯篭」

2012-04-02 12:21:27 | 虚無僧日記
熊本県北部の「山鹿(やまが)市」。近年「千人灯篭祭り」で
有名になった。「山鹿灯篭」と呼ばれる和紙で作った
灯篭を頭の上に乗せて踊る。

You-Tubeで見ると、千人もの若い女性が金銀の灯篭を
頭に載せて踊る。踊りもたおやか。実に美しい。

「盆踊り」というと、地元の婦人会の“おば(あ)さん”
方が浴衣着て踊るものだが、この「山鹿」は、
スラリとした若い女性が、どうして千人もいるのか
狐につままれたような幻想的な光景に目を見張らされる。

この町は、よほど「美意識」が高い。「灯篭祭り」の
ポスターは「鶴田一郎」画伯の絵だ。ほれぼれするほど
美しい。
そして、町中には「八千代座」という古い舞台小屋がある。
これも町の人の力で大修理を行い、今も現役で使われている。
なんと「坂東玉三郎」が毎年ここで踊るのだ。


かつては物資の集積地として、温泉街として栄えたが
今は観光客も少ない。地方の片隅に忘れられたような
田舎町(失礼)で、このような文化が創られ、守られて
いることに驚く。


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熊本「山鹿町」と「山鹿素行」は関係無かった

2012-04-02 11:16:42 | 虚無僧日記
九州熊本県の北部に「山鹿市」がある。「赤穂市」と
姉妹都市の関係を結んでいる。赤穂浪士といえば
「山鹿流陣太鼓」。その「山鹿流軍学」の「山鹿素行」と
関係があるかと、訪ねてみたが「関係は無い」とのこと。

「山鹿素行」の父は、蒲生氏郷に伴って伊勢松阪から
会津に来たとされる。それ以前の出自は不明で、
熊本の「山鹿市」との関係は見出せなかった。


その代わり、「山鹿市と赤穂浪士」の意外な
関係がわかった。

「山鹿市」に「日輪寺」という寺があり、そこに
大石内蔵助以下、赤穂浪士17人の遺髪が祀られて
いるのだ。

赤穂義士四十七士は、吉良邸に討ち入り本懐を遂げた後、
細川、松平、毛利、水野の各藩にお預けとなる。
そのうち、大石内蔵助を始めとする幹部級の十七士は
細川家に“お預け”となった。内蔵助らを預かった
細川家では、義士たちを丁重にもてなした。その
接待役に当たったのが「堀内伝右衛門」。

伝右衛門は、義士達と親しく接し、義士達の話しを
詳しく書き留めていた。その「堀内伝右衛門覚書」に
よって、義士達の切腹の様子などが、後世に明らかに
されている。

伝右衛門は義士達の遺髪をもらい受け、知行地である
菩提寺である山鹿の「日輪寺」に遺髪塔を建てて
手厚く祀った。それで、山鹿でも毎年2月には
「義士まつり」が行われ、遺髪塔前で慰霊祭が行われて
いるとのこと。


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「山鹿素行」って?

2012-04-02 09:25:12 | 会津藩のこと

「大石内蔵助」といえば「山鹿流陣太鼓」。
吉良邸討ち入りの際、「山鹿流の陣太鼓」を
打ち鳴らしたというのは、芝居の上だけの話。
夜討ちを掛けるのに太鼓など鳴らしたら、みな
起きてしまう。それに近所迷惑だ。実際「山鹿流
兵法」に“太鼓の打ち方”など無いそうだ。

「山鹿流」とは、山鹿素行の説いた軍学、兵法。

山鹿素行は会津の生まれ。会津には「山鹿町」と
いう町名があり、「山鹿素行誕生の地」の立派な
石碑まである。「牧原」の本家筋がそこに住んで
いるので、子供の頃から「山鹿素行」については
知っていた。

山鹿素行が会津に居たのは6歳まで。父に
連れられて江戸に出、9歳で林羅山につき
朱子学を学ぶ。
その後、軍学や神道を学ぶようになって、
朱子学を批判したため、会津藩祖保科正之に
よって江戸を追放され、赤穂藩にお預けの身と
なっていた。

その10年の間に、浅野内匠頭や大石内蔵助に
軍学を教えた。山鹿素行の思想は吉田松陰に
まで影響を与え、幕府倒壊の火種となった。

つまり、会津藩は、かつて追放した山鹿素行に
よって滅ぼされたようなものだ。


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中国人も買わない中国製

2012-04-02 08:39:36 | 社会問題
名古屋の桜は、ようやく「開花宣言」。
まだ蕾は固いが、行楽地はすごい人出。
春休みで家族連れが多いが、それより
多いのが中国、韓国からの観光客。

様子を見ていると、観光みやげ品売り場で
買い物をしているのは日本人ばかり。
のぞいてみて判った。人形やおもちゃなど
安いのは皆「中国製」。模造刀まで
中国製だった。

中国人は「アメ横」で日本の電機製品を
買って帰る。

その昔(50年前)、ハワイで みやげ物を
買ったら日本製だった。当時の日本製品は
「安かろう、悪かろう」だった。

今、“100均”など 安い物はたいてい
「中国製」。鍋など二、三回 火にかけたら
終わり。靴下も一回はいたら、伸びきって
しまって、踵(かかと)の部分が足首まできた。

こんな“粗悪品”は中国人でも買わない
そうだ。

製造元の中国人も「日本人はこんな粗悪品を
買っているのか」とバカにしているそうな。