(過去の再掲載です。この後に『親鸞』関係をつなげてみました)
仏教哲学者梅原猛は、「登山と山伏」という
エッセイで次のように言っている。
「山伏を生業とする人は少なくなったが、一般の
人で行に参加する人は年々増えているという。
仏教とは、観行によって、あるいは座禅によって、
あるいは念仏によって自分が仏になろうとする事
であると思うが、山伏の行も、登山という行に
よって仏と一体になることであると思う。
職業をもちながら、山伏として山に登る時は何日も
前から潔斎し、身も心も清めて僧となる、この姿
こそ新しい時代の僧職のあり方ではないだろうか」と。
まさに、我が意を得たり。山伏がそうなら、虚無僧も
然りだ。在家であって僧以上に仏に近づくことを
願うならば、本物の仏徒ではないか。「既存の寺の
僧侶が妻帯し、酒魚を喰らい、幼稚園や駐車場、
観光業に精出して、金儲けをしながら恥じぬ姿は、
とても尊崇に値するものではない」と梅原猛はいう。
それは600年昔の一休の時代からそうであった。
禅寺は、大名や公卿の次男以下受け入れ先であった
から、衣食住に何ひとつ不自由せず、貧困にあえぐ
民衆のことなど少しも考えていない。高名な寺の
住職になるには、親の権威と金次第であった。
一休とんち話の「水飴の話」は弟子たちに仏法を
教えることもせず、“水飴=銭儲け”に夢中になって
いる和尚さんをとっちめる」話なのだ。
日@BlogRanking
仏教哲学者梅原猛は、「登山と山伏」という
エッセイで次のように言っている。
「山伏を生業とする人は少なくなったが、一般の
人で行に参加する人は年々増えているという。
仏教とは、観行によって、あるいは座禅によって、
あるいは念仏によって自分が仏になろうとする事
であると思うが、山伏の行も、登山という行に
よって仏と一体になることであると思う。
職業をもちながら、山伏として山に登る時は何日も
前から潔斎し、身も心も清めて僧となる、この姿
こそ新しい時代の僧職のあり方ではないだろうか」と。
まさに、我が意を得たり。山伏がそうなら、虚無僧も
然りだ。在家であって僧以上に仏に近づくことを
願うならば、本物の仏徒ではないか。「既存の寺の
僧侶が妻帯し、酒魚を喰らい、幼稚園や駐車場、
観光業に精出して、金儲けをしながら恥じぬ姿は、
とても尊崇に値するものではない」と梅原猛はいう。
それは600年昔の一休の時代からそうであった。
禅寺は、大名や公卿の次男以下受け入れ先であった
から、衣食住に何ひとつ不自由せず、貧困にあえぐ
民衆のことなど少しも考えていない。高名な寺の
住職になるには、親の権威と金次第であった。
一休とんち話の「水飴の話」は弟子たちに仏法を
教えることもせず、“水飴=銭儲け”に夢中になって
いる和尚さんをとっちめる」話なのだ。
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