現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

虫歯も自力で治る?

2009-01-18 19:15:45 | 虚無僧日記
(1/16 の再掲載)
昔、虫歯の治療をして詰めたところが取れて、
そのままにしていたら、虫歯になったか、痛み
だした。医者嫌いの私だが、歯だけは歯医者に
行かざるを得ないと思っていた。そしたら最近、
「抜かずに治す」とか、「虫歯になるとすぐ削って
詰めるという治療は間違いだった」などの記事を
目にした。歯も自力再生することが判ったとか。
それを読んだら、歯医者に行く気がしなくなった。
そして気づいたらここ2、3日、水を飲んでも痛ま
ない。虫歯も治ったか。(ここまでは1/16の稿です)


と書いたら、ご親切にコメントをいただいた。

「虫歯の痛みが無くなったのは、治ったのではなく、
一段進行したのであって、危険な状態。放置して
おくといよいよ歯を全部抜かなければならないこと
になる」とのご教示。
世の中にはご親切な方も居られると感謝。明日に
でも、歯医者に行ってみよう。素直に従う私。
歯は尺八家にとっては“命”なのだから。

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北の漁場

2009-01-18 18:39:58 | 虚無僧日記
子供の頃音痴で歌が歌えないと思い込んでいた私。
社会に出て、必要に迫られて必死に練習し、今では
音楽で食べている。

カラオケで好きな曲は、北島三郎の『北の漁場』。
「北のォォ漁場はァよォォ、男ォォの死に場所さぁ」
が好きなのだ。
子供の頃からずっと死に場所を求めて生きてきたと
云ったら、“変”に思われるか?。“侍の血”か、
「男なら戦場で死にたい。戦争は男の死に場所として
かっこよい」と思っていた。過去形だ。今60過ぎて
今更志願兵にもなれない。

震災で死ぬのも、インフルエンザで死ぬのもいやだ。
死に方が美しくない。美しく散りたいと思うのだが、
「遺体処理業者」のブログを見ると、「美しい死に
方など無い」そうな。棺の中で遺族と最期の対面を
する遺体は、彼ら専門業者によって作られた仮面なの
だとか。

虚無僧が祖師と仰ぐ普化禅師は、空中に煙となって
昇華する「最終解脱」を果たした。その普化に憧れて
私は虚無僧になったのだ。私ってやっぱり“変”か。

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感染列島

2009-01-18 18:10:34 | 社会問題
今、『感染列島』という映画が封切られている。
テレビでさかんに宣伝している。それを見ただけで、
染まりやすい私である。ウィルスに侵された気分に
なって具合が悪い。

「インフルエンザAソ連型にはタミフル効かない」と
いう。鳥インフルエンザのように、どんどん薬への
耐性が増してきているのだ。『感染列島』の話は
架空の話ではない。現実に起こりうる話なのだ。

私の子供の頃、アメリカ映画で (TVドラマだったか)
『感染列島』と同じテーマのドラマがあった。
アメリカの小さな町で謎のウィルスが発生し、次々と
人が死んでいく。ウィルスが他に飛び火しないように、
国はその町を封鎖し、一切の交通を遮断し、人々は
町から出れなくなる。
その町の全員が死ぬのを待って、いや生存者がいた
としても、町全体を焼き尽くすより他に方策はないと
決定が出されたのだ。その事が洩れると、なんとか
町から脱出しようとする住民と町を封鎖している軍隊
との間で死闘が展開される。
送りこまれた医師たちにも生き残る道は無い。感染
して病死するか、生きたまま焼き殺されるか、脱出を
図り、銃弾を浴びて死ぬか。まさに死に方の選択に
迫られる。

私は、子供心にも強烈な印象を受け、今でもその
シーンを思い出す。結局人間は誰でも、いずれかの
方法で死ぬのだ。病死か事故死か殺されるかだ。
それは遅かれ早かれの差でしかない。死をどう受け
止めるか。子供の頃からずっと私は、このテーマに
とらわれてきた。

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院内感染

2009-01-18 16:58:36 | 社会問題
東京・町田で院内感染3人死亡 患者ら101人インフルに(共同通信) - goo ニュース

「院内感染で、101人がインフルエンザを発症、
女性患者3人が死亡」とのこと。
こういうニュースを聞くとますます病院が怖い。
病院に行くと、かえって病気になる。菌だけで
なく、悪い気を取り込みそうなのだ。

元妻の祖父母も父も、従兄弟二人も、検査で病院に
行き、ガンが見つかったとかで、即、抗がん剤やら
切除手術で、たちまち病人に仕立てられ、そのまま
帰らぬ人となってしまった。祖父も父も「家に帰り
たい」と夜中に抜け出すものだから、ベッドに紐で
縛り付けられ、悲惨な状態だった。
私の父は11年も母の介護で生きながらえたのに、
最期は病院に連れて行ったがために、喉を切開され、
言葉を失い、苦しんで死んだ。病院は自分たちが
看護しやすいように、患者を“物”としか扱わない。

母も父を病院に入れたことを悔やんで、「自分は死ぬ
まで病院には行かない」と言っている。私も同意見だ。

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仏とは?

2009-01-18 07:04:15 | 五木寛之
中日新聞に連載中の五木寛之『親鸞』に染まって、
今、五体投地に取り組んでいる。五体投地を1回
6秒のペースでやると100回で600秒=10分で終わる。
それを休憩しながら10回繰り返せば1000回なのだが、
1日300回でダウンだ。

これを五木寛之の小説の中で、親鸞は、毎日3,000回。
1カ月以上続けている。10万回だ。それでも仏は見え
てこない。親鸞は悩み苦しむ。「自分は仏画や仏像で
知っている仏を見たいのではない。これまで身に付けて
きた知識や体得してきたことが、ボロボロと古い垢の
ように剥げ落ちていく。今まであたりまえのように信じ
てきた仏とは何か。なぜこの世には仏が必要なのか、
人はなぜ仏を求めるのか」という根本の疑念に苦しむ。

さすが五木寛之だ。私も五体投地をやったからといって
仏の姿が見えるとは信じていない。それでもなぜやるのか。

神社や寺にお参りすれば願い事が叶うなどと、真剣に
信じている人はいないだろうに、人はなぜ神社や寺に
お参りし、賽銭を入れるのか。私のような虚無僧にも
喜捨してくれるのか。虚無僧を初めて見る小学生の
子供から20代の若い人も、親から教わったわけでもない、
前に経験したわけでもないのに、虚無僧に「喜捨しよう」
という心が湧き起こる。これは何なのか、人は心の中に
生まれながらに“仏性”を抱いているのか。“仏性”とは
何なのか。私の問いもそこにある。

五木寛之の『親鸞』はそれを明かしてくれるだろうか。
毎朝、新聞を心待ちにして、真っ先に『親鸞』を読むのだ。

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