あまりにも
悔しき この日を忘れまじ
夕闇せまりて
一人 歩むを
勇退後の先生のお歌です。
あの、突然の勇退報道の、どれぐらい前だったでしょうか、こんな事を聞きました。
「九州長が寺の坊主の事を批判したそうだ。夜な夜な鬘かぶって、赤いスポーツカーで、繁華街へ繰り出している、とか何とか」
私達が所属していた寺院の住職は、まだまともな様子だったので、へー、そんなのもいるの、ぐらいの感想しか、その時は持ちませんでした。
しかしその、当時の九州長Fの発言は、やがて大問題となり、本性を表した宗門は、待ってましたとばかり創価学会切り崩しにかかって来たのです。
理不尽ではあっても、攻撃一方の宗門は勢いがありました。
対して、創価学会の会長として、池田先生は僧俗和合を、懸命に守ろうとしていた時期です。
あまりにも形成は不利でした。
そして、池田先生の会長勇退、名誉会長就任、第四代会長に北条氏が就きます。
池田先生が会長を勇退される、などと、誰も考えてはいませんでした。
平成十六年四月二十一日の随筆「人間世紀の光」には、その時の心情をつづられた一文があります。先生は、九州の同志の事を、こんなにも深く理解してくださっていたのか、と感動と感謝の念でいっぱいになる随筆です。
その一節を紹介します。
ひたすら広宣流布に奮闘してきた、健気にして真面目な同志が、どけほど、いじめられ、裏切られ、苦しめられた事か!
共に頑張ろうと手を取り合った翌日に、同じ相手が、恩深き学会に対して、悪口雑言の限りを尽くして去っていった。畜生の如き裏切りの罵倒に対して、その無念さは、血の涙が出るほどであった。
「断じて、これらの悪を打倒して見せる」と、決意を固めた。
この宗門事件の渦中、私が会長辞任に至ったのも、九州を担当していた見栄っ張りの最高幹部の不用意な発言が、直接の引き金となった。
―――『完勝の旗 先駆の九州』221ページより引用―――
今、先生の勇退の日を知らない人達も多くなってきました。
そんな人たちに、あの時の悔しさ辛さを、語り継いでいくのは、私達の使命、と痛感すせずにはいられません。
そして、幹部と言うその立場を利用して、多くの学会員を苦しめた輩のことも、語り継いでいく使命があるのだ、と。
春から初夏。
この、一斉に華やぎ、生命の伸びゆく季節に、色彩を失い、吹き荒れるブリザードに飲み込まれるような日々を送った時があった。
昭和五十四年四月二十四日。
未来永劫、忘れてはいけないのだ、と改めて思います。
悔しき この日を忘れまじ
夕闇せまりて
一人 歩むを
勇退後の先生のお歌です。
あの、突然の勇退報道の、どれぐらい前だったでしょうか、こんな事を聞きました。
「九州長が寺の坊主の事を批判したそうだ。夜な夜な鬘かぶって、赤いスポーツカーで、繁華街へ繰り出している、とか何とか」
私達が所属していた寺院の住職は、まだまともな様子だったので、へー、そんなのもいるの、ぐらいの感想しか、その時は持ちませんでした。
しかしその、当時の九州長Fの発言は、やがて大問題となり、本性を表した宗門は、待ってましたとばかり創価学会切り崩しにかかって来たのです。
理不尽ではあっても、攻撃一方の宗門は勢いがありました。
対して、創価学会の会長として、池田先生は僧俗和合を、懸命に守ろうとしていた時期です。
あまりにも形成は不利でした。
そして、池田先生の会長勇退、名誉会長就任、第四代会長に北条氏が就きます。
池田先生が会長を勇退される、などと、誰も考えてはいませんでした。
平成十六年四月二十一日の随筆「人間世紀の光」には、その時の心情をつづられた一文があります。先生は、九州の同志の事を、こんなにも深く理解してくださっていたのか、と感動と感謝の念でいっぱいになる随筆です。
その一節を紹介します。
ひたすら広宣流布に奮闘してきた、健気にして真面目な同志が、どけほど、いじめられ、裏切られ、苦しめられた事か!
共に頑張ろうと手を取り合った翌日に、同じ相手が、恩深き学会に対して、悪口雑言の限りを尽くして去っていった。畜生の如き裏切りの罵倒に対して、その無念さは、血の涙が出るほどであった。
「断じて、これらの悪を打倒して見せる」と、決意を固めた。
この宗門事件の渦中、私が会長辞任に至ったのも、九州を担当していた見栄っ張りの最高幹部の不用意な発言が、直接の引き金となった。
―――『完勝の旗 先駆の九州』221ページより引用―――
今、先生の勇退の日を知らない人達も多くなってきました。
そんな人たちに、あの時の悔しさ辛さを、語り継いでいくのは、私達の使命、と痛感すせずにはいられません。
そして、幹部と言うその立場を利用して、多くの学会員を苦しめた輩のことも、語り継いでいく使命があるのだ、と。
春から初夏。
この、一斉に華やぎ、生命の伸びゆく季節に、色彩を失い、吹き荒れるブリザードに飲み込まれるような日々を送った時があった。
昭和五十四年四月二十四日。
未来永劫、忘れてはいけないのだ、と改めて思います。
聞いてみますね
当時の事は、現場でお聞きになるのが一番です。
さまざまな人がいますよ、確かに現場では。
でも、すべての答えは現場にある、と言うのが私の感想です。
ネットで言える事は、限度があります。
東京だったら、古い入会の方も多いでしょうし、当時を知っている人もいるはずです。
個人的に、当時の事を聞いて、自分で調べてみる、と言うのが一番だと思います。
ごめんなさいね、これくらいしか言えなくて。
東京墨田区の婦人部です
当時私は、女子部
能天気で、無知な私は、テレビのニュースでそのことを知りました
会長から、名誉会長に もっと偉くなったの?
そんな感じでいました
その当時の事、本当には、いまだに分かっていません
先生をその時お守りしたのは,Hさん ただ一人だったと聞いております
できましたら、もっと詳しく教えていただけるとありがたいのですが
宜しくお願いいたします
毎日暑いので、お体ご自愛くださいませ
考えると、私の信心も長くなりました。
記憶もあやふやな所が多くなってきましたが、その中で絶対に忘れないのが、54年4月24日です。
その前後、後継と期待していた女子部が、一家ともども檀徒になった時の事も、忘れられません。
あの時を切り抜けていたから、破門の時は冷静でいられたのかもしれませんね。
お互い、学会の正しい歴史を語り継いでいくべく、頑張ってまいりましょう。
今後ともよろしくお願いいたします。
http://www.heianbooks.jp/gyouan/atogaki.html
私も再認識させていただきました。
ありがとうございます。
先日東京行った時も東京の後輩と話しました。
紅の歌のできた経緯、五座三座の勤行しらない、幹部増えてきて、54年の会長勇退の経緯知らない若い人未来部に伝えていかねば、大変な事になり創価が宗門と同じになる。私も札幌で語り続けます。お励みください。
お体ご自愛くださいませ。うるさいオヤジ拝
当該個所、訂正させていただきました。
今後とも、よろしくお願いいたします。
若鷹の掲示板で紹介の投稿があり、こちらを拝見させていただきました。
記事の中で一点、事実誤認かな?と思える箇所がありましたので投稿いたします。
記事中の「法主に就いたばかりの日顕は、まだ勢いがありました。」なのですが、この時期まだ日顕は登座しておらず、法主は日達氏でした。
日達氏はこの数年前より、学会との連絡会議において板本尊を承認した事を失念したり、当時の学会顧問弁護士山崎正友の謀略にはまったり、一部の活動家僧侶に影響を受けたりで、宗門と学会との軋轢を拡大させてしまいました。
結果、それにより池田先生は責任を取らされる形で勇退を余儀なくされました。
そして日達氏はそれを了解した三カ月後の昭和54年7月22日には急逝します。
ですので日顕が法主になったのはその後ということになります。
(そしてその頃の活動家僧侶たちが後の正信会となります。)
差し出がましいかもしれませんが、素晴らしきプログ故にご連絡致しました。お許し下さい。
メルアドを探しましたが判りませんでした。
本投稿をご確認並びに本文修正後削除して頂いても構いません。
益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます。