『唯仏の遺言の如く一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権教に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。(唱法華題目抄 16頁)』
仏の遺言のように、ただ権教を広め、実教を最後まで広めない人師は、権教に命がつながっていて、実教に入る事がない者で、そういう者は、魔に支えられて通力を現ずるのであろうか。
しかしそうした力ではなく、ただ法門で宗教の正邪をはっきりさせるべきである。決して特殊な能力や、通力などに頼ってはいけない。
御書十大部の一つ、『唱法華題目抄』の結論部分の一説です。通力の完全否定の文、と言ってもいいと思います。
一見、通力は、カッコよく見えてしまいます。なぜなら、常人のできない事を、いとも簡単にやってのけるからです。
しかしそこに、落とし穴があります。冒頭の文にもあるように、それらの特殊能力は、魔にたぽらかされて、あるいは魔の力を借りて、人を間違った方向へ導こうとする現象だからです。
人は弱いものです。思い通りにならなかったり、不運な事が続いたりしたら、つい、何かに頼って、その原因、あるいは解決法を尋ねたくなったとしても、当然かもしれません。
しかし、それらの問題は、自身の生命から発したものであり、実は誰に頼るものでも、すがって解決してもらうものでもありません。自分自身で解決するしか道は無いのです。それを、何かにすがる、その段階で、自分の幸・不幸の原因と、向き合おうとしていない、と言う事になってしまうのではないでしょうか。
『如来秘密神通之力』と言う言葉があります。
仏法で認めた唯一の通力、と言っていいでしょうか。
しかしこれは、仏の力、つまり南無妙法蓮華経であって、自身の生命の中に、仏の生命を涌現させ、強い生命力で以って問題を解決していく、と言うものです。決して他力本願ではありません。
では、現代で言う、代表的な通力とは、何を指しているのでしょうか。
手軽なものとしては、占いや予言の類いも入るのかもしれませんが、やはり真言による祈祷でしょうか。
ある評判の真言の寺があります。そこへ行けば、一つは叶う、と言われています。だから、多くの人が、悩みの解決を求めて参詣しています。
しかし、そこへ月参りをし、何かあったら祈祷をしてもらって、身動きできなくなった人がいます。結局はそれが不幸の根本原因だったことを悟り、創価学会へと宗旨替えをしたのですが、宗教の正邪をまざまざと見せつけられた思いがしました。
通力は、一見カッコよく見える、と書きました。普通の人にはできない事を、いともたやすく行ってしまうからです。しかも通力を誇ります。それを行える自分を、大きく見せ、通力を持たせてくれた宗教を称えます。
しかし祈祷とは、実は恐ろしいものです。祈る人、祈らせる者、どちらもその身を滅ぼす、と御書にあります。
日蓮大聖人の仏法に、特別な祈祷はありません。ただ、自分で祈って、自分で解決していくしかないのです。『如来秘密神通之力』とは、ただ、強盛な祈りしかない、と捉えていくべきでしょう。
仏の遺言のように、ただ権教を広め、実教を最後まで広めない人師は、権教に命がつながっていて、実教に入る事がない者で、そういう者は、魔に支えられて通力を現ずるのであろうか。
しかしそうした力ではなく、ただ法門で宗教の正邪をはっきりさせるべきである。決して特殊な能力や、通力などに頼ってはいけない。
御書十大部の一つ、『唱法華題目抄』の結論部分の一説です。通力の完全否定の文、と言ってもいいと思います。
一見、通力は、カッコよく見えてしまいます。なぜなら、常人のできない事を、いとも簡単にやってのけるからです。
しかしそこに、落とし穴があります。冒頭の文にもあるように、それらの特殊能力は、魔にたぽらかされて、あるいは魔の力を借りて、人を間違った方向へ導こうとする現象だからです。
人は弱いものです。思い通りにならなかったり、不運な事が続いたりしたら、つい、何かに頼って、その原因、あるいは解決法を尋ねたくなったとしても、当然かもしれません。
しかし、それらの問題は、自身の生命から発したものであり、実は誰に頼るものでも、すがって解決してもらうものでもありません。自分自身で解決するしか道は無いのです。それを、何かにすがる、その段階で、自分の幸・不幸の原因と、向き合おうとしていない、と言う事になってしまうのではないでしょうか。
『如来秘密神通之力』と言う言葉があります。
仏法で認めた唯一の通力、と言っていいでしょうか。
しかしこれは、仏の力、つまり南無妙法蓮華経であって、自身の生命の中に、仏の生命を涌現させ、強い生命力で以って問題を解決していく、と言うものです。決して他力本願ではありません。
では、現代で言う、代表的な通力とは、何を指しているのでしょうか。
手軽なものとしては、占いや予言の類いも入るのかもしれませんが、やはり真言による祈祷でしょうか。
ある評判の真言の寺があります。そこへ行けば、一つは叶う、と言われています。だから、多くの人が、悩みの解決を求めて参詣しています。
しかし、そこへ月参りをし、何かあったら祈祷をしてもらって、身動きできなくなった人がいます。結局はそれが不幸の根本原因だったことを悟り、創価学会へと宗旨替えをしたのですが、宗教の正邪をまざまざと見せつけられた思いがしました。
通力は、一見カッコよく見える、と書きました。普通の人にはできない事を、いともたやすく行ってしまうからです。しかも通力を誇ります。それを行える自分を、大きく見せ、通力を持たせてくれた宗教を称えます。
しかし祈祷とは、実は恐ろしいものです。祈る人、祈らせる者、どちらもその身を滅ぼす、と御書にあります。
日蓮大聖人の仏法に、特別な祈祷はありません。ただ、自分で祈って、自分で解決していくしかないのです。『如来秘密神通之力』とは、ただ、強盛な祈りしかない、と捉えていくべきでしょう。
今、斧さんの所はほとんど見ていませんので、私のブログが題材にされている事なんて、初めて知りました。
ちょっと驚きです。
私は特殊能力は否定しません。
しかしそれがナンボのもんじゃい、と言う位です。
通力、超能力があっても、信心とはほとんど関係ないし、成仏とは全く関係ないようですね。
プラスになるよりマイナスになる方が大きいのではないか、とは感じます。
ただ、私は学会教学に沿った解釈ができれば、それでいい、と思っている方ですので、ブログ本文以上の解釈は、あえてしないでおきましょう。
かつてのSFファンとしましては、超能力は書物の中だけで楽しめれば、それでよしとしましょうか。
お節介屋さん、面白い情報、ありがとうございました。
こんなお節介だったら、大歓迎です。
「新解釈」を提示し、市丸さんや一般的学会員の解釈に対して「憶見、誤謬」と
主張なさってるみたいなので、一応、私の方から、こちらにひとことコメント
入れておきます。
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20110115/p2
>明らかに超能力があると思われる人物を私は6人ほど知っている。
>「凄いなあ」と思う。
それにしても、あの斧さんが、唱法華題目抄と日蓮大聖人に仮託して、
「超能力の通力を認めて」しまうなんて、いったい、どうしちゃったの
でしょう?
その6人に「超能力がある」と斧さんが思った根拠や見識はいかなるものなのか?
第三者による科学的検証を得た上で「超能力がある」と認定された人物が
6人もいるとするなら、たしかに私も「凄いなあ」と思いますし、
手品や話術で再現可能な「現証」を見せつけられて「超能力がある」と
思ったのであるなら、それもまた「凄いなあ」と私は思います(爆)
その大部分が、ブログの流れを阻止するだけだと判断したからです。
ご了承ください。
そうですよね、通力がどれほど余計な物かは、釈迦十大弟子の一人、目蓮尊者の事を学べば、すぐに分かる事ですよね。
盂蘭盆御書(1427~1430頁)にありますが、通力第一の目蓮尊者でさえも、通力で母一人救えないわけですよね。
学会にいて、通力を誇る者など、いないはずですし、そんな人がいたら、それは自分で学会員ではない、と宣言しているようなものです。
まともではありませんよね。
それに、本当に通力を持った人がいたとしたら、絶対に隠し通します。そして真剣に信心をして、消して行っています。
通力が、どれほど成仏の妨げになるか、よく解っているからです。
学会員の目指すものは一生成仏であって、それ以外は余計な物だからです。
一生懸命祈って、通力第一になど、なりたくもないものです。
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市丸さん、あなたは間違っています。
○○さんの言う事が正しいんです。
鍛えていない刀を御覧なさい、すべての不純物を含んで、
10キロもあるんですよ。
鍛えた刀なんて、たったの1キロではありませんか。
○○さんは、鍛えていない刀で、すべてを含んで、
10キロもの重量があるのです。
あなたはたった1キロしかないではありませんか、鍛えすぎです。
どっちが得か、よーく考える事です。
市丸さん、通力第一の○○さんに反抗してはいけません。
あなたは題目だけで行きなさい。
○○さんは、なんでもありで行くのです、素晴らしいではありませんか。
釈迦50年の説法のすべてを身につけ、その他の通力までも持っている
○○さんに対して、あなたは日蓮大聖人の南無妙法蓮華経しか
持っていないのですよ。
どちらが正しいか、言わなくても分かっているでしょう。
通力・超能力があって、それに執着したって、成仏できなければ意味がありません。