文科相の松野博一(54歳・早大法学部卒 )が2016年11月18日、イジメはいけないことだ、悪いことだといったことを教師が一方的に教えるこれまでの道徳教育からイジメについて「考え、議論する道徳」教育に転換、そのような授業を通してイジメ防止に繋げるべく、具体的例まで示した「大臣メッセージ」を公表した。
・どのようなことが、いじめになるのか。
・なぜ、いじめが起きるのか。
・なぜ、いじめはしてはいけないのか。
・なぜ、いじめはいけないと分かっていても、止められなかったりするのか。
・どうやって、いじめを防ぐこと、解決することができるのか。
・いじめにより生じた結果について、どのような責任を負わなくてはならないのか。
こうったことを自分のこととして考えさせ、議論させる。
何のことはない、かつて文科省が「総合的な学習」として掲げた、〈変化の激しい社会に対応して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる〉としたテーマと何ら変わらない。
だが、「総合的な学習」への注力が学力低下を招き、早々に元々の知識重視、いわば詰め込み教育に先祖帰りさせてしまった。
原因は「総合的な学習」を教える能力が知識・情報を伝達するだけの暗記教育に慣れきった教師に備わっていなかったことと、主体的自己思考能力・主体的自己判断能力を育むには時間がかかることを考えて我慢すべきを政治家や教育関係の役人たちが学力低下に我慢し切れすに痺れを切らしてしまったからだ。
要するに学校教師も政治家・役人も考える能力を欠いていた。
だとしたら、いくらイジメ防止という大義を掲げたとしても、「考え、議論する道徳」教育への期待は「総合的な学習」の二の舞いを演じない保証はないことになる。
「考え、議論する道徳」教育がイジメ防止にたいして役に立たないことの理由はもう一つある。
学校のイジメは主として考える力を持たない児童・生徒か、考える力が未発育の児童・生徒がやる。
いくら日本一成績が優秀な東大に入学したとしてもワイセツ事件を起こす生徒もいる。あるいは法学部卒業という名誉を担ったとしても、悪事を働く人間もいるということは満足に考える力を備えないままに学歴を過ごしたことになる。
学校教師が道徳教育を通して児童・生徒に対してイジメについて活発に議論させ、考える力をつけさせていく能力を備えていることを前提にそのような道徳教育をいくら施そうとも、学校のイジメは考える力を持たない児童・生徒か、考える力が未発育の児童・生徒が専ら専門能力とすることだから、考える力を持たないないままに、あるいは考える力が未発育のままに学校生活を送ることになる児童・生徒には猫に小判となりかねない。
そのような児童・生徒には「考え、議論する道徳」と銘打とうとも、決定的な解決策となることは期待できないだろう。
人類は大昔から偉大な道徳教育に恵まれていた。宗教という名の道徳教育。聖書、コーラン、仏典、その他その他は様々な道徳を人類に示し、説き、教えようとしてきた。
だが、悪事はなくならない。折角考える力を身につけながら、時と場合に応じて考える力を失わせて悪事に走る人間もいる。
学校教師が「総合的な学習」を教える能力を欠いていたように「考え、議論する道徳」教育を教える能力を欠いていたなら、このような能力の欠落性と対面することになる児童・生徒にとっては「考え、議論する道徳」教育のより良い機会になり得るかという問題が生じるばかりではなく、学校のイジメが主として考える力を持たない児童・生徒か、考える力が未発育の児童・生徒によって起こされる由々しき出来事であるなら、そのような児童・生徒が無くならずに存在し続けることに対応してイジメにしても無くならずに存在し続けることになる。
このような能力の欠落性と対面することになる児童・生徒にとっては「考え、議論する道徳」教育のより良い機会になり得るかという問題が生じるばかりではなく、学校のイジメが主として考える力を持たない児童・生徒か、考える力が未発育の児童・生徒によって起こされる由々しき出来事であるなら、そのような児童・生徒が無くならずに存在し続けることに対応してイジメにしても無くならずに存在し続けることになる。
手っ取り早く言うと、イジメは決して無くならないということである。
この理(ことわり)を常に十二分に弁えていなければならない。特に学校教師は。
イジメが無くなることはない以上、イジメが起きることを防ぐことは不可能なことで、その時々に起きているイジメにいち早く気づいて、そのイジメが決定的に陰湿化・凶悪化する前に摘発し、進行を食い止めることが児童・生徒が喜怒哀楽の感情で常時表現している生きて在る自然な生命(いのち)に不当な力を加えられて歪められてしまわないためのより有効な解決策となるはずである。
病気の治療で言うと、病気がなくならないことを前提に早期発見・早期治療に努めることと同じである。
となると、イジメの陰湿化・凶悪化への早期発見・早期防止のためには学校教師はせめて1日に1度はこの学校のどこかで今現在、イジメは進行中なのかもしれないと自身に警戒を促す危機管理を発動させていなければならない。
それが1日に1度であっても、習慣とすることによってイジメに警戒し、それを見つけようとするアンテナの感度を鋭くすることになる。
現在問題となっている原発避難いじめ問題で小学校はそのような対応――早期発見・早期防止の危機管理を機能させていたのだろうか。
原発事故が起きた福島県から横浜市へ両親と自主避難した男子6年生が転校先の小学校でイジメを受けた。現在中1になったが、不登校が続いているという。
イジメが当然の権利として持つ自然な生命(いのち)としてある6年生の喜怒哀楽の感情を歪め、当たり前の感情の発露を奪ってしまった。
彼がイジメについて書いた手記には、原発事故で賠償金があるだろうから、カネを持ってこいと脅されたことやに蹴られたり、殴られたり、階段から押されたりの厭がらせを受けたことが書かれている。
小学校がどんな対応をしたか、2016年11月18日付「NHK NEWS WEB」から先ず見てみる。
2014年6月ということだから、小学校5年生のときになるが、男子生徒の両親が「遊ぶ金として同級生に合わせて150万円ほどを渡した」と学校に被害を訴えた。同じ年の11月には警察が同様の情報を学校に寄せたと記事は書いている。
「いじめ防止対策推進法」は心身や財産に重大な被害が生じた疑いがある場合は「重大事態」として調査するよう規定しているが、横浜市教育委員会も小学校も「重大事態」に当たらないと判断し、調査は行わなかった。
横浜市教育委員会は今月中にも担当者への聞き取りを始め、当時の対応を検証することにしているという。
記事はなぜ「重大事態」に当たらないと判断したのか書いてないが、NHKの11月18日7時のニュースで、学校が被害者・加害者双方から聞き取りを行ったところ、加害者側は「おごってもらっただけだ」と説明したために学校も横浜市教育委員会も「いじめ防止対策推進法」で調査が求められている「重大な事態に」には当たらないと判断したと説明していた。
つまり加害者側がタカリを否定した、その言い分を学校は鵜呑みにし、その報告を横浜市教育委員会も鵜呑みにしたといった経緯を取ったのだろう。
タカリ(金銭要求)、殴打、パシリ、過度の無視等は類型化されたイジメの手口となっている。そのような手口でイジメる側がイジメを受ける側に対して支配と従属の権威主義的関係を強要する。
そしてまたイジメる側もイジメを受ける側も、イジメが露見して教師や親に尋ねられたとき、イジメを否定することも類型化した反応となっている。
親の幼い子どもに対する児童虐待もイジメの一種だが、児童相談所が家庭訪問して子どもの身体につけた傷について親に尋ねると、親は階段から落ちた、自転車で転んだとウソをついて虐待を否定することも、その言い逃れを真に受けて幼い子供を死なせてしまうという事例も既に類型化の内に入れることができる。
1994年に愛知県西尾市立中2の大河内清輝君がイジメ自殺した件でも、脚に怪我をして尋ねられたとき、自転車で転んでつけた傷だとウソをついた。イジメグループに多いときで6万円、少ないときでも3万か4万円とカネをせびられ、合計100万円以上も強請られていながら、遺書に「僕からお金をとっていた人たちを責めないでください。僕が素直に差し出してしまったからいけないのです」と書いて、逆に自分の非としている。
例え親か教師に「金を取られていないか」と尋ねられたとしても、否定した可能性は高い。
過去のイジメ自殺事件からイジメは無くならないゆえに肝心なことはイジメが陰湿化・凶悪化しない前に今起きているかもしれないイジメの早期発見・早期防止に努めるしか手はないのだという危機管理を学習していたなら、あるいは類型化しているイジメの手口とイジメ側がイジメではないと装う類型化した言い分、更にイジメられる側の正直に話したらなおイジメが激しくなるのではないかと恐れて、イジメの被害を隠す類型化した態度を学習していたなら、強請りの聞き取りに対して加害側の生徒が「おごってもらっただけだ」と金銭要求を否定したとしても、鵜呑みにせずに聞き取りを他の生徒にまで広げて、確認の上に確認する努力を行ったはずだ。
だが、何も学習していなかった。
イジメがなくならない以上、ここにこそ問題点がある。
文科相の松野博一も教育行政を与りながら、過去のイジメ自殺事件から何も学習せず、何も理解せず、それゆえにどこに問題点があるか気づかずに、だからだろう、それでイジメが解決するとでも思っているから、やれ「考え、議論する道徳」教育だと、見当違いの「大臣メッセージ」を発したはずだ。