1月28日午後の安倍晋三の施政方針演説等政府4演説に対する衆院本会議代表質問。
海江田民主党代表(安倍晋三の昨年末の靖国参拝について)「国益上正しい行為なのか。諸外国の国民は賛同しているのか」(YOMIURI ONLINE)
安倍晋三「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方々に尊崇の念を表し、冥福を祈るのは国のリーダーとし て当然で、世界共通の姿だ」(MSN 産経)――
「世界共通の姿」 だから、間違っていない。いや、正しいことだと言っている。
ヒトラーの自殺遺体は側近たちによってガソリンをかけられて燃やされ、総統地下壕の地上の庭に埋められたが、ソ連軍によって発見され、完全焼却後、エルベ川に散骨されたということだから、ヒトラーの墓は地上に存在しないことになるが、ヒトラーの墓が存在しないことの代償なのだろう、ナチス副総統ルドルフ・ヘスの墓がナチス信奉のネオナチストの熱烈な聖地と化し、彼らによるその 墓への巡礼が跡を絶たなくなったために墓地管理の現地協会が遺族の了解のもと、墓を撤去したと「Wikipedia」 には解説されている。
もし国家主義者・軍国主義者の安倍晋三が靖国参拝・戦没者慰霊を 「国のリーダーとして世界共通の姿」だと言って世界的に普遍的な正当性を持った口実として許されるなら、戦後ドイツはヒトラー礼讃やナチスの意匠・出版物流布等を禁止し、禁止を破った場合民衆扇動罪(ドイツ刑法 第130条)で以って厳しく罰するそうだから、不可能な譬えとなるが、ナチス信奉者が首相になって、ヒトラーやその他ナチス政権の閣僚のゆかりの地を聖地と見立てて参拝して、参拝は「国のリーダーとして世界共通の姿」だとの口実を用いたとしても、正当性ある口実だとして参拝が許されることになる。
理由は安倍晋三にしても、不可能な譬えとして持ち出したナチス信奉のドイツ首相にしても、それぞれの自国が戦った戦争の性格を問題にしていないからこそ正当化が可能となるのであって、その点でのみ、「世界共通の姿」だとすることができるからだ。
合理的判断能力ゼロだから戦争の性格を問題にしないで済ますことのできる安倍晋三に対して、不可能な喩えであることは承知し て、同じく戦争の性格を問題としないナチス信奉者のドイツ首相を持ち出してみた。
つまり、戦争の性格によって、靖国参拝・戦没者慰霊を「国のリーダーとして世界共通の姿」だとするその世界的共通性は正当性を失い、異例な個別性と化す。
ドイツは一方でナチス的なもの全てを否定しながら、その一方で第2次世界大戦の戦没者に対する政府主催の追悼式典を開催している。だが、その戦没者の位置づけは安倍晋三のように国のために戦い尊い命を捧げた英霊として誉れを付与する位置づけではなく、「全国民哀悼の日」と名づけた、戦没者並びにナチスの暴力支配の犠牲者追悼を目的とした式典であって、いわば戦争やナチスの犠牲者という位置づけとなっている。
このことは靖国神社参拝の際に頻繁に使われる「顕彰」という言葉とドイツの「哀悼の日」の「哀悼」という言葉の違いにも現れている。
【哀悼】「人の死を嘆き悲しみ悼むこと」(『大辞林』・三省堂)
【顕彰】「隠れた功績・善行をなどを讃えて広く世間に知らせること」(『大辞林』・三省堂)
前者のドイツの場合は戦死者を戦争もしくはナチズムの犠牲と位置づけているから、「哀悼」という形を取り、後者の日本の場合は「国のために戦った」、あるいは「天皇陛下のために戦った」と勇気ある犠牲と位置づけているから、「顕彰」という形を取る。
死者に対する戦争の犠牲、もしくはナチズムの犠牲との位置づけはその戦争、あるいはナチズムに対する否定意思の上に成り立つ。決して肯定意思の上に成り立つことはない。
だが、靖国の死者に対する勇気ある犠牲との位置づけは日本の戦前の戦争に対する肯定意思の上に成り立つ。決して否定意思の上には成り立たない。
この文脈からしても、戦死者に対する参拝を「国のリーダーとして世界共通の姿」だとするのは無理があり、戦争の性格によって自ずと共通性を失うことになる。
安倍晋三はこのことを弁える合理的判断能力を満足に持ち合わせていないから、簡単に「国のリーダーとして世界共通の姿」だと言って、参拝を正当化できる。実際には戦前の日本の戦争を肯定し、その肯定に立っているからこそ、戦死者の死を勇気ある犠牲だと讃えることが可能となる。
今朝、このブログ記事を書くためにインターネット上と行き来している間に日本人の父親とスイス人の母親を持つ現役大学生でもあり、テレビタレントでもある春香クリスティーンが
12月26日の「情報ライブ ミヤネ屋」にコメンテーターとして出演、安倍晋三の靖国参拝に対するコメントが原因となって、彼女のブログやツイッターが炎上したという。
春香クリスティーン「海外でよくこの問題と比べられるのが、『もしもドイツの首相がヒトラーのお墓に墓参りをした場合、他の国はどう思うのか?』という論点で議論されるわけですけれど、まあ難しい問題ですよね」(J-CASTニュース)――
「ヒトラーの墓と靖国神社を同じにするな」とか、「国のために命を捧げた英霊をヒトラーと一緒にするな」とかの批判が殺到したという。
記事は解説している。〈あくまで春香さん個人の意見ではなく、海外で「靖国参拝」と「ヒトラーの墓参り」が同列に扱われることがあると紹介したのみだったが、発言の一部がひとり歩きした結果、多くのネットユーザーから「英霊に対する侮辱」や「事実誤認がある」などと反発を浴びることとなった。〉――
解説も言っているように春香クリスティーンはヒトラーの墓(存在させた上での話だが、)と靖国神社を同列に扱って紹介したわけではなく、参拝した場合の行為自体が同列に扱われることになることを紹介したに過ぎない。
但し墓に眠るヒトラーは、「もしもドイツの首相がヒトラーのお墓に墓参りをした場合、他の国はどう思うのか?」という言葉自体によって否定対象と位置づけられていることになる。
だが、日本の批判はドイツの首相のヒトラー墓参がヒトラーを肯定対象とした墓参になると解釈したがゆえに(事実その通りになるのだが)、「ヒトラーの墓と靖国神社を同じにするな」等々の異議申立てが成り立つわけで、このことは安倍晋三を含めた自分たちの靖国神社参拝が戦没者を肯定対象として英霊だと顕彰していることと矛盾することに気づいていない。
要するに靖国神社の戦没者は肯定対象として扱うのはいいが、ドイツの戦没者を、特にヒトラーやその閣僚を肯定対象として扱うのは同列に扱われることの危険性から許すことができないということなのだろう。
やはりそれぞれの国の戦争に肯定・否定の違いを持たせているからこそ、可能となる日本側の解釈であるはずだ。
日本側のこのような解釈の構図とは違って、ドイツはそれぞれの国の戦争を否定対象とし、そのように位置づけた構図で解釈しているからこそ靖国参拝と比較して、「他の国はどう思うのか?」という推論が成り立つ。
だが、日本の場合は真逆で、特に安倍晋三は「国のリーダーとして世界共通の姿」だと、全てを肯定対象とすることができる。ヒトラーの墓と同じにするなといった問題ではない。
ブログやツイッターの炎上は春香クリスティーンこそ、安倍晋三の靖国神社に対するコメントを介した日本の戦争の犠牲者と位置づけることができる。