コメント(2014-01-19 00:13:11)
1月19日に当2013年10月4日記事ブログ記事――>《安倍晋三の靖国神社とアーリントン墓地との等価値論に矛盾する米閣僚の千鳥ケ淵墓苑との等価値化 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に関してコメントを頂いた。確か似たような批判を幾つか頂いているから、公開だけで済まそうと思ったが、批判に対する自分の考えを少し述べてみることにした。
投稿者名「異論」
タイトル「こんばんは!」
〈まあ、仮に大日本帝国が"「天皇のため・お国のため」を口実に兵士を弾避(たまよ)けに使い、犬死にさせてしまうような国”だったとしても、それならばなおのこと贖罪と慰霊を兼ねて民主化された平和な日本の指導者は参拝すべきではないでしょうか?
そもそも大日本帝国とその指導者についての考察があまりに不十分かつ一方的なので説得力の一切を欠いていますが。〉
「そもそも大日本帝国とその指導者についての考察が」云々以下は全く以って合理的かつ正当な批判だと思う。説得力がないことは即、僅かなアクセス数に現れている。
だが、前半の主張――「まあ、仮に大日本帝国が"『天皇のため・お国のため」を口実に兵士を弾避(たまよ)けに使い、犬死にさせてしまうような国”だったとしても、それならばなおのこと贖罪と慰霊を兼ねて民主化された平和な日本の指導者は参拝すべきではないでしょうか?」には明らかに論理矛盾があるように思える。
兵士の人権を軽視して、その生命(いのち)を粗末に扱ったことを歴史的事実として前提とすると、例え戦後「民主化された平和な日本」国家であったとしても、その国家は戦没した兵士たちを英霊と顕彰する資格を持たない。
戦前日本が兵士に対してその人権と自由を最大限に尊重する国家であったとき初めて、その国のために戦い、生命(いのち)を犠牲にしたなら、いくら顕彰しても検証し足りないだろう。
だが、兵士の人権を軽視して、その生命を粗末に扱った戦前日本国家が一方にあり、日本軍兵士がそのような国家のために戦い、生命(いのち)まで落としたことを歴史の事実として前提とするなら、戦前日本国家にしても戦前日本軍兵士にしても、両者共に少なくとも正義を勘違いしていたことになり、よくぞ国のため・天皇陛下のために戦ったと顕彰することは論理矛盾そのものの滑稽な儀式と化す。
滑稽な儀式から脱するためには顕彰ではなく、なぜ戦前日本国家と日本軍兵士、広く言うと日本国民は正義を勘違いするに至ったのか、その検証と総括から入って、戦前日本国家と特に日本軍兵士は勘違いした正義履行の共犯関係にあった以上、共に責任を認め合わなければならないはずだ。
当然、「贖罪と慰霊」は戦後日本国家と戦後日本国民が戦没兵士に対してではなく、被害を与えた外国政府と外国民を対象に行わなければならない責任と義務ということになる。
だとしても、兵士を含めた戦前の日本国民は戦前日本国家の下位に位置づけれら、国家に従属した関係を強いられてきた。国家が主導し、体質としていた人権軽視と自由の抑圧であり、国民、特に戦前日本軍兵士は自らもその体質を体現して、発揮することとなった。
その象徴的行為の一つが日本軍兵士による海外の占領地での現地人の14、5歳の少女に対する拉致・誘拐の従軍慰安婦狩りであり、その成果としての一日に数十人もの兵士を取らせた行為は国家から始まって日本軍兵士に連鎖していき、さらに外国民へと連鎖していった人権軽視と自由の抑圧であろう。
もし靖国の戦没者を「贖罪と慰霊を兼ねて民主化された平和な日本の指導者は参拝すべき」であるとする主張が論理矛盾のない正当性を獲得するためには、戦前日本国家も日本軍兵士を含めた戦前日本国民も間違いのない正義を体現していたとしなければならない。
但し、そういったことを歴史的事実だとする前提に立って安倍晋三が靖国の戦没者を「国のために戦って尊い命を犠牲にした」と位置づけるなら、戦前日本国家は正義を体現していた国家であり、その国家が起こした戦争は正義の戦争だったとの歴史認識を正直に主張し、言葉を尽くしてそうであることの説明を尽くすべきだろ。
戦前日本国家は正しかった。戦前日本軍兵士も正しかった。当然、戦前の戦争は正義を体現していた。日本軍の戦没者は「国のために戦い、天皇陛下のために戦っい、尊い命を失うことになった」外国軍隊の犠牲者であったと。
このように主張し、証明して初めて、あるいはそのような歴史認識を描いて初めて、「贖罪と慰霊を兼ねて民主化された平和な日本の指導者は参拝すべきではないでしょうか」という主張は論理的矛盾に陥ることなく、論理的な整合性を得るはずだ。