仙谷の「国民は木を見て森を見ず」は自分事を棚に上げた、被災者に目を向けない詭弁

2011-05-31 10:32:11 | Weblog

 

 仙谷官房副長官は詭弁家枝野の親分だけあって、なかなかの大詭弁家である。《仙谷副長官「震災復興遅れてない」 政権批判に反論》asahi.com/2011年5月30日13時47分)

 昨5月30日(2011年)午前の記者会見――

 菅政権の東日本大震災復興の取り組みに批判が出ていることについて

 仙谷「震災復興が遅れているなんて全然思わない」

 朝日新聞の世論調査で「評価しない」が5割を超える菅仮免政権の復興策について。

 仙谷「国もあらゆる施策を用意した。段取りのいい首長がいる市町村は仮設住宅建設も早く、そうでないところをとらえて批判するのは『木を見て森を見ず』だ。政府がやっていないという報道が多すぎる」

 記者『木を見て森を見ず』は国民なのか」

 仙谷「そういう部分もなきにしもあらずだ」

 《仙谷氏、「震災対策は全然遅れていない」》MSN産経/2011.5.30 12:58)では仙谷の発言は次のようになっている。

 東日本大震災の被災者向け仮設住宅建設等に遅滞が生じていることに対して。

 仙谷「震災復興が遅れているとは全然思わない。被災地の市町村の力もそれぞれ違う以上、それを『遅れている』という国民は木を見て森を見ていない。・・・より早く仮設住宅や医療施設、法律相談態勢を作るのに、今から急に(必要な)人材を作れといわれても一朝一夕にはできない」

 先ず最初に言えることは、日々の生活の困窮はもとより、家や財産を失って、あるいは肉親や一家の大黒柱であった夫を失って将来に対する不安を抱えている、あるいは経済的なすべてを失った上に年齢や体力的な衰えから来る不安を抱えている、精神的にも物質的にも追いつめられている多くの被災者に全然目を向けていない発言となっているということである。

 もし目を向けていたなら、「震災復興が遅れているなんて全然思わない」などと言えなかったろ。

 大自然災害に於ける政府初動の責任行為である救出・救命というのは家を失った、あるいは家が住めない状態となった被災者を避難所に収容することで、あるいは倒壊した建物や津浪に襲われて建物に閉じ込められた被災者を救出し、同じく避難所に収容することで一段落をつけていいものではなく、憲法が保障する「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という点からも、避難所から少しでも人間らしい生活を送ることができる仮設住宅への早い段階での入居を保証して初めて政府の救出・救命の対策は一段落(あくまでも一段落)をつけることができるはずだ。

 いわば救出・救命とは命を生命(いのち)として救い出し、命を生命(いのち)として維持・有らしめることまでを言うはずである。

 救出・救命が国家の務めとしてある国民の生命・財産を守る行為と同一線上にあるその一環として含まれるからでもある。例え仮設住宅建設が各自治体の主たる役割であっても、国民の生命・財産を守るという大枠を守るためにも国家が管理し、推進しなければならない建設と入居であろう。だから国家の行政機関である国土交通省が所管している。

 それを菅仮免は避難所に収容するまでを救出・救命と解釈し、自衛隊を何人派遣して、何人救出したと誇って早々に一段落をつけてしまい、国民の「健康で文化的な最低限度」の生命・財産を守る救出・救命という点で目前に控えている次の段階としてある肝心要の仮設住宅建設にしっかりと目を向けることができずにその遅滞を招いてしまった。

 ここで既に「木を見て森を見ず」は国民ではなく、菅仮免を初めとした菅内閣の方だと分かる。

 しかも関係省庁や関係大臣と議論を尽くしたわけでもなく、確信もないままに仮設住宅入居を8月中旬に完了させるなどと安請合いする無責任までやらかしている。

 被災者の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を弄んだということである。

 要するに仮設住宅の建設と入居は国家の責務としてある国民の生命・財産に対する保障行為の一環としてある生命(いのち)の救出・救命でもある。それが遅れている以上、「震災復興が遅れているなんて全然思わない」は被災者の困窮に目を向けていない発言と見られても仕方はあるまい。

 仙谷詭弁家親分は仮設住宅建設の遅れを次のように正当化している。

 「国もあらゆる施策を用意した。段取りのいい首長がいる市町村は仮設住宅建設も早く、そうでないところをとらえて批判するのは『木を見て森を見ず』だ。政府がやっていないという報道が多すぎる」(上記asahi.com

 「震災復興が遅れているとは全然思わない。被災地の市町村の力もそれぞれ違う以上、それを『遅れている』という国民は木を見て森を見ていない。・・・より早く仮設住宅や医療施設、法律相談態勢を作るのに、今から急に(必要な)人材を作れといわれても一朝一夕にはできない」(上記MSN産経

 仙谷詭弁家親分は段取りのいい首長と悪い首長とでは仮設住宅建設の進捗に差が出ると言っているが、避難所から仮設住宅への入居が救出・救命の一環であり、大枠としてある国民の生命・財産を守ることの範囲内にある政府の務めであるはずだから、首長が段取りの悪いために建設が遅れている自治体に対しては政府が補わなければならないはずだ。

 補うことによって、国民の生命・財産を守る政府の務めを果たし得るからである。段取りが悪いから建設が遅れているで放置していていい問題では決してない。

 そうでありながら、仙谷は「国もあらゆる施策を用意した」と言って、その成果を以って国の責任なしとしているが、仮設住宅建設が遅れている以上、遅れが主として段取りの悪い自治体に顕著であろうと、そのことを放置していていいわけではないことから、「用意した」「施策」が追いついていないことの証明にしかならない。この証明は建設の遅れている自治体に対する何らの補助となっていないことの証明でもあろう。

 「用意した」「施策」は結果を出してこそ、初めて用意した意味を持ち、その点での政府の役割を果たしたと言える。

 結果が出ていないにも関わらず、「用意」したことだけを言って政府の成果とし、責任なしとすること自体が詭弁そのものだが、「政治は結果責任」意識を菅仮免共々欠いているからこそ言える詭弁であろう。

 一方で「国もあらゆる施策を用意した」と言ってやるべきことはやった、政府に責任はないとしていながら、「より早く仮設住宅や医療施設、法律相談態勢を作るのに、今から急に(必要な)人材を作れといわれても一朝一夕にはできない」と「あらゆる施策を用意した」に反する不可能を言う矛盾を平気で犯している。

 この矛盾を無視したとしても、「仮設住宅や医療施設、法律相談態勢」の構築は国民の生命・財産を守るという点でも、憲法が保障する「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という点でも、救出・救命だけで一段落がつくわけではない、仮設住宅入居と同じく次の段階として待ち構えている措置であることは既知の事実としていたはずである。

 もし次の段階として計算に入れていなかったとしたら、自然災害に於ける政府の危機管理の体裁をなさないことになる。

 それを今更、「今から急に(必要な)人材を作れといわれても一朝一夕にはできない」などと逃げ口上でしかない詭弁を展開する。

 危機管理に於いて前以て予定事項としていなければならない対応・対策を待ったなしのスケジュール感で迅速に構築し、実施していくべきを「今から」のこととすることも、「木を見て森を見ず」は国民ではなく、菅仮免であり、仙谷詭弁家親分のことだと言わざるを得ない。

 何のために内閣に20を超える対策本部やチームをつくり上げたのだろうか。指揮系統の混乱や責任所在の不明を理由に縮小・改編されたが、このこと自体が「木を見て森を見ず」に危機管理に当たったことからの視野狭窄が招いた菅政治の失態そのものであろう。

 閣僚や党役員は菅仮免を内閣不信任案から守ろうと目の色を変えているが、菅仮免を始め、守る価値もない「木を見て森を見」ない面々としか言いようがない。


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