仙谷官房長官の小村寿太郎と松岡洋右はご都合主義からの譬え話

2010-12-27 07:22:15 | Weblog


 昨26日曜日、大掃除と言う程でもない小掃除程度の年末の掃除をしながら、朝日テレビの『サンデーフロントライン』を仙谷官房長官が出演すると言っていたから、録画しながら聴いていた。

 トイレ掃除をしていたとき、仙谷官房長官が以前国会答弁で言い、ブログにも取り上げたポーツマス条約全権の小村寿太郎と国際連盟脱退時の日本全権松岡洋右の名前を口にしていたから、てっきり菅政治正当化論に小村寿太郎と松岡洋右を以前と同じく再度持ち出したのかと固定観念の早トチリをしてしまった。

 今朝録画を聴き直して見ると、意外と小沢元代表の人柄を肯定的に説明するための引用であった。だが、国会招致に応じるべきだとの主張の中での人格評価なのだから、外交辞令か、あるいは穿って受け取った場合、野党が菅内閣不信任案を提出した場合、小沢派が乗らないことを願った予防線といったところかも知れないと最初は思った。

 野党、特に自民党は小沢派が乗るかもしれないチャンスが窺えたなら、不信任案を出す可能性は高い。

 仙谷官房長官の国会招致に関する発言と件の発言の箇所を文字化してみた。

 仙谷官房長官「やっぱり一度はね、おっしゃっていたように国会で然るべきというか、政治倫理綱領とか、我々持っていますから、それに伴う説明をいただけたらなあと、もう、それを冀って(こいねがって)おります。

 確かに刑事事件になることがはっきりしていますから、そういうプロセスの中に入っていますから、刑事被告人であれば、供述拒否権というものはどなたにもあるわけで、そういう微妙な段階ですから、話しにくいということなんでしょうけど、できない部分はできないということをおっしゃっていただくしかないんじゃないかと思うんです、僕は」――

 海千山千の政治家にしてはお目出度いばかりの性善説に立った楽観主義なことを言っている。「できない部分はできないということをおっしゃっ」た場合、国会招致終了後、やれ隠した、事実を述べていない、十分な説明になっていないと批判し、あるいは叩きまくり、ありもしない疑惑を膨らまして、結果的に国会招致前よりも疑わしき人物に仕立てているといった始末の悪さは前例、パターンとしてあるわけで、それを抜きにした自身に都合がいいばかりの供述拒否のススメとなっている。

 野党はともかく、特に菅首相始め仙谷、前原、野田、蓮舫といったところは率先して説明になっていなかったと小沢叩きの先頭に立つことは目に見えている。

 小村寿太郎と松岡洋右に関する発言の箇所――

 小宮悦子「小沢さんという人物は、仙谷さんがご覧になって、どういう人物ですが」

 仙谷官房長官「政治家としては批判しない人。もうちょっと泥臭く言えば、泥をかぶってでもやり抜くという、そういう強さはお持ちですよね。そこはやっぱり政治というものはいつの時代も、大衆的というと、大袈裟かもしれませんが、色んな世の中の人から、とある時期は批判を受けるということは当然のことながらあるわけですね。特に損得というのが出てくる場合とか、金銭に触れる事態は、そういうことがあるわけですが、やっぱりあとから振り返ってみると、それが正しかったんだというか、あるいはそれしかなかったんだということは、よくある話で、僕はよく例に出すのは、例の日露戦争のあとのポーツマス条約の小村寿太郎が日比谷焼き討ち事件を以って迎えられたという話と、あの松岡洋右が当時国連、国際連盟を脱退して帰ってくると歓呼の声で迎えられたということの象徴的な事例だというのは、よく申し上げているのだけども、そこのところは多少遠望する眼差し、中長期的な視点の元に物事を決めて、非難、批判を浴びても動じないという姿勢があることは必要だと思っているけれども、小沢先生はそういう部分はやっぱり強いところがあるなと、いう気がしますね。物ともしないと」――

 【物ともせず】「障害を無視して立ち向かう様。」(『大辞林』三省堂)

 言っていることが矛盾している。小村寿太郎と松岡洋右の例を出したのは直後の評価・判断が必ずしも正しいとは限らない、事後の評価・判断の方が正しい場合があると言うためだったはずだ。それを「とある時期は批判を受けるということは当然のことながらある」が、「あとから振り返ってみると、それが正しかったんだというか、あるいはそれしかなかったんだということは、よくある話」という言葉で直截に説明した。そしてそのことの備えとして、「遠望する眼差し、中長期的な視点」の必要性を説いた。

 ここまでは立派である。だが、小沢氏自身の行動様式を「多少遠望する眼差し、中長期的な視点の元に物事を決めて、非難、批判を浴びても動じないという姿勢」が「小沢先生はそういう部分はやっぱり強いところがある」とするなら、小沢氏の「政治とカネ」の問題にしても、国会招致を求める側は現在の否定要素が将来の肯定要素に転ずる可能性を考慮して、いわば「とある時期は批判を受けるということは当然のことながらある」が、「あとから振り返ってみると、それが正しかったんだというか、あるいはそれしかなかったんだということは、よくある話」なのだから、ここは「遠望する眼差し、中長期的な視点」を働かせて強制裁判を待つべきとすべきを、小村寿太郎と松岡洋右の例を出してまで言っていたことをすべて無視して、「遠望する眼差し、中長期的な視点」も糞もなく、早急に国会招致に応ずることを求める矛盾を平気で犯している。

 要するに国会招致を一方的に求めるだけでは小沢氏を一方的に悪人と決めつける印象を与えることになるから、現在の非難、批判が将来霧消する可能性もあるのだからと国会招致を納得させるご都合主義で持ち出した程度の譬え話だったのだろう。

 「とある時期は批判を受けるということは当然のことながらある」が、「あとから振り返ってみると」、それが覆されることが「よくある話」だとするなら、国会招致を求めるのではなく、逆に小沢擁護に回っていいはずだが、そうなっていないところはやはり海千山千の食わせ者としか言いようがない。

 以前ブログに取り上げたと書いた、10月15日(2010年)参議院予算委員会でみんなの党の小野次郎議員が尖閣諸島沖中国漁船衝突事件以降の菅内閣の対中外交を、「中国に対する柳腰外交、今後も忍従、弱腰の対応を続けるつもりですか。もしご感想があればお伺いいたします」と質問した際の小村寿太郎と松岡洋右を例に出した仙谷官房長官の答弁を参考のために再度記載してみる。(《仙谷官房長官の参議院予算委員会答弁に見る日本国民“愚民論”》

 仙谷官房長官「外交への評価というのは(一語一語ゆっくりと強い口調で話す)、松岡洋祐が、国際連盟を脱退して帰ってきたときに、日本国民の殆んどが、歓呼の声を以って迎えた。小村寿太郎が、ポーツマス条約を、締結して帰ってきたときには、焼き打ちに遭ったという、この二つの日本の歴史は、これを教訓として、とりわけ政治家はこの二つのことは、拳々服膺して(常に心中に銘記し、忘れないこと)、自らの言動を、相対的に、いつも客観的に点検しながら、そのときの国民が、大いに喜んでいただける、大いに歓呼の声を与えてくれる、そういうとき程、自戒をして、行わなければならないと、いうことを思っているわけであります。

 (一段と大きな声で)そこで、今回のことについては、世論調査の結果もそうでありますし、みなさん方も、かなり多くの方がよわ、弱腰だ何だ、もっと中国と、強く闘えという、ある種のナショナリックな、雰囲気が多いわけでありますけれども、政治家はそのことをじっくりと考えて、自ら判断しなければいけない。

 そういう例として、ポーツマス条約のときのことと、満州事変後、満州建国をして、国際連盟を脱退したこの二つのことを、記者のみなさん方に、掲げて、お話をしているだけの話であります」――

 小村寿太郎と松岡洋右はここでも多くの場合がそうであるように直近の評価・判断の間違いの譬え話となっていて、その上で仙谷官房長官は国民受けのする外交を自戒すべきだと訴えている。 

 要するに菅内閣の中国人船長処分保留のまま釈放で下がっていた支持率をさらに下げることになった世論調査の結果から国民受けする対中外交とはなっていないが、国民受けする外交の危険な例を挙げることで逆に菅内閣の対中外交の正当化、世論調査の結果に対する異議申し立ての主張となっている。

 だが、前のブログにも書いたが、当時の日本国家は天皇絶対主義の体制のもと、天皇の名で自らも絶対主義体制にあった。そのような体制の下で日本国民は情報統制下に暮らしていた。情報統制は国家権力に都合のいい情報のみを流し都合の悪い情報を隠蔽する情報操作を必然的属性として伴う。いわば国民の国家権力が展開する政治・外交に対する行動・評価は国家権力の行動・評価と一致させられる宿命にあった。

 このことは現在の金正日独裁体制下の北朝鮮国民を見れば一目瞭然のはずである。

 だが、民主化した現在の日本に暮らす国民はどのような情報にも自身の選択に応じて自由に触れることができ、自らの判断・評価に従って自由に解読することも可能となった。また国民自身も自由に表現した自身の情報を自由に発することができる。

 いわば国家権力が発する各種情報に対する判断能力・解読能力は小村寿太郎や松岡洋右の時代と比較して情報に触れる自由度に比例して飛躍的に向上しているはずだ。

 それを情報統制下、情報操作下にあったかつての国民と現在の国民を同列に置く。これを以て日本国民愚民論だとした。

 最初の小村と松岡の譬え話は小沢氏に国会招致を納得させるご都合主義、次の譬え話は外交を含めた菅政治の正当化と世論調査の結果をノーとするご都合主義と言える。大体が食わせ者というのはご都合主義者と相場が決まっている。

 沖縄の民意を何ら考えない、仙谷の基地「甘受」発言にしても、国家と菅内閣の都合だけを考えたご都合主義で成り立たせていた。

 こういったご都合主義な食わせ者を影の総理大臣としなければならない菅総理大臣の政治家としての資質はその依存性から言って極めて貧困状況ににあると言わざるを得ない。


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