分権の受け皿能力検定と子どもの思考能力

2010-02-26 08:46:45 | Weblog

   ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 2010年2月24日の「asahi.com」記事――《分権の受け皿へ能力判定 「自治体検定」に注目集まる》

 地方自治体職員を対象に初の全国検定となる自治体法務検定が6月から始まるそうで、それをなぜ記念するのか分からないが、2月24日に都内で記念シンポジウムが開かれたという。

 どのような検定かと言うと、記事は次のように解説している。

 〈検定は、地方分権の受け皿になる職員の育成を目指す。法律の基礎知識や行政手続き、市民参加、公共政策などについて70問出題し、千点満点で採点して3段階の級を認定する。研究者らで自治体法務検定委員会を組織し、法律書籍出版会社の第一法規が事務局を務める。〉――

 地方自治体の職員、あるいは職員を目指す学生等それぞれが自分では学ぶ力がないと看做していることになる。

 〈法律の基礎知識や行政手続き〉は学校という場では教師から知識を受けて自ら学ぶか、職場なら、先輩や仲間からアドバイスを受けつつ自ら学ぶ事柄であって、〈市民参加、公共政策〉等は市民や自分が所属する部署のチームと検討し合って相互に学びつつ発展させていくべき事柄であろう。特に後者の〈市民参加、公共政策〉等は地域に応じてケースバイケースが存在するだろうから、それを一律的に設問を設定した検定試験でその能力を測るのはケースバイケースに矛盾する能力検定とならないだろうか。

 全員が同じ知識を暗記したなら、日本全国一律の金太郎飴のような地方分権となりかねない。一斉に右へ倣えが日本人の体質ではあるが。

 「自治体法務検定」をより詳しく知ろうとしてインターネットを調べると、《自治体法務検定とは》なるHPに出会った。

 

 自治体職員の「法務」能力を向上させるための検定です。

 2000年の第一次地方分権改革に代表される現在の分権化の流れは、明治維新、戦後改革に次ぐ時代の劇的な変化を、私たちの生活にもたらしつつあります。

 国民国家としての従来の社会統合が崩れつつある現在、各地域に根ざした声が浮上しつつあり、新しい社会的連帯が模索されています。

 それは、市町村合併による広域行政の現状、公共サービスの民間化、NPOなどの市民団体による行政への積極的な関わりが示している通りです。

 分権改革以降、現行の法体系・法整備では、あまりにも急速に変化している現場の状況に十分な形で対応ができていない側面があります。

 機関委任事務が廃止され、自治事務・法定受託事務に再構成され、地域的な裁量を認める法整備が行われつつあるとはいえ、自治体の現場では、それまでの画一的な行政運営の思考方法から脱却できないまま、地域固有の諸課題に対応した自治との整合性が求められています。そこでは、いうまでもなく基礎となる法務能力を持ちながら、高度な政策の実現を遂行できる人材が強く求められています。

 また、財政の逼迫を常に抱える多くの自治体にとって、効率的な行政サービスを行うことを前提とした自治体内の人的資源の管理が喫緊の課題となっています。

 こういった状況の中で、自治体職員の「法務」能力を向上させるために「自治体法務検定」は生まれました。

 個人でも職域でも、多くの人々が検定に参加され、自治体の法務能力が向上し、地域の活力を取り戻すことに役立てればと心から願っています。
 
  自治体法務検定委員会〉


 「法務」とは、元々は「法律に関する種々の事務」(『大辞林』三省堂)を意味するらしい。それを政策づくりやその運用まで広げた能力をここでは言っている。

 文中の「各地域に根ざした声」、「地域的な裁量」、「地域固有の諸課題」は先に触れた地域的なケースバイケースを指す言葉であって、それを各地域性を無視した統一的な検定で以て「高度な政策の実現を遂行できる人材」かどうかを探る。

 地域のことは地域に学べという格言にも反する一律化ではないだろうか。

 受験の対象者は違えても、検定主催者側に関して言うと、上記「asahi.com」記事は、〈研究者らで自治体法務検定委員会を組織し、法律書籍出版会社の第一法規が事務局を務める。〉と書いているが、「自治体法務検定委員会」が総務省とか法務省とかの天下り官僚OBによって占められ、一般男女や学生を受験対象とした漢字検定のように検定試験を通して受験料の形で得る濡れ手に粟の利益構造がそこに形成されるだけのように思えないことはない。

 記事は記念シンポジウムでの北川正恭・早稲田大学教授の基調講演の発言を伝えている。

 「分権には地方政府の確立が不可欠。地方公務員は国の下請けを脱し、自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造していかなければならない」

 要するにこれまでは「地方公務員は国の下請け」であった、下請であったから、指示されたこと、命令されたことを単に忠実に消化すれば済んだ、「自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造」する手間を労する必要もなかった。だが地方分権の今後に於いては「国の下請けを脱し」て、「自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造していかなければならない」と自律(自立)のススメを説いているのである。

 このような国と地方の関係、地方の非自律性(非自立性)はかねがねブログやHPで書いているが、国を上位に置いて地方を下に置く上下関係にあって、上の国が下の地方を従わせる権威主義の構造に縛られていたことを意味する。このような力関係から国を元請としていることに対して地方が下請の地位にあったということであろう。

 だからこそ、明治以来の(実際は封建時代以来の)中央集権体制と言われる。

 このことを裏返すと、封建時代以来、殆んど進歩を見ない、少なくとも基本のところでは何ら変わらない権威主義的な国と地方の関係を続けてきたことになる。

 また知識や情報の活用といった思考面でも上下の地位的な力関係に倣って国が与える知識や情報に従う権威主義的な“下請”関係にあったから、「自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造」する能力を欠くこととなっていた。

 思考面での国と地方の権威主義的な上下関係を破っていたなら、地位的な上下の権威主義的な関係は成り立たなかったろう。

 この「自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造していかなければならない」は、現在の文部科学省が文部省であった時代に2000年から段階的に導入した学習指導要領の、いわゆる総合学習で言っていた言葉と重なる。

 総合学習が求めていた能力は「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育て、それを以て生きる力とする」能力であった。

 文部省やのちの文科省が子どもに求めていた能力を高卒・大卒の人間に今更ながらのように検定試験で問わなければならない。

 このことは子どもから大人までを通して、「自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造してい」く思考能力・判断能力、大きく言うと創造性を一般的に欠いていることを示している。

 以前2009年11月25日放送のNHK「クローズアップ現代」“言語力”が危ない~衰える 話す書く力~をブログで取り上げて、小・中・高生の言語力の欠如は大人の欠如の反映としてある現象であるといったことを書いたが、このことを証明する上記思考能力・判断能力、あるいは創造性の欠如であろう。

 キャスターの国谷裕子女史が番組の中で、「言語力とは外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたりする力のことを言う」と解説していたが、北川正恭・早稲田大学教授が言う「創意工夫で新しい価値を創造してい」く能力と国谷女史が言う他人の考えではなく、「自分の考えを組み立て」る能力は基本的には重なる同じ能力を指し、大人と子どもがそれぞれに欠如していると把えていることになるからだ。

 また「言語力」の欠如や「「自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造」する能力の欠如は大人の欠如の反映としてある子どもの欠如という相互的な欠如性としてあると同時により優位にある、あるいはより強力な他者の知識や情報に自己の考えや判断を下に置いて従わせる権威主義性の知識や情報の受容を基本構造として成り立つ。

 思考面に於けるこのような両者関係には当然のこととして、自分の考えや判断を挟んでより発展させるプロセスを含まない。北川正恭・早稲田大学教授の言葉を使って説明すると、「下請」に徹することによって、そのような権威主義性を貫くことができる。

 いわばこのような地位面、思考面の権威主義性が国と地方の関係に現れているということであり、また学校教育に暗記教育の形で現れているものであろう。

 暗記教育は教師の知識・情報に丸ごとなぞる形で従い、そこに生徒の考えや判断を介在させないことによって成り立つ。その結果として存在した総合学習に於ける「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育て、それを以て生きる力とする」能力の育成要求であり、地方分権、地方政府の確立に不可欠な「自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造」する能力の要求となって現れているということであろう。

 09年1月25日の『朝日』社説――《大学生の学力―まず入試から考える力を》に次のようなことが書いてある。

 題名自体が大学生の「考える力」の欠如の指摘となっているが、〈日本の子どもたちについて、OECDがこんな警告を発したことを思い起こしたい。「知識を再現する学習ばかり続けていると、労働市場に出た時に必要とされる力が身につかない」〉――

 「知識を再現する学習」とは北川正恭氏が言う「自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造」する思考プロセスを介在させずに、暗記した知識を暗記したままに再現・活用する知識伝達の権威主義性を言うはずである。

 社説はまたOECD学習到達度調査によって、〈知識はあるが応用力に乏しいという問題点が浮き彫りになった。〉とも書いている。

 この応用力の欠如も、「自ら考え、自ら決定し、創意工夫で新しい価値を創造」する能力の欠如と響き合ったものとしてある。いわば子どもから大人まで貫いて存在する“欠如”であるということであろう。

 社説は最後に、〈生きるための知力をどう育てるのか。大学が知恵を絞る時である。 〉と書いているが、権威主義性を構造とした暗記教育に象徴的に現れている知識伝達・情報伝達から発生した弊害としてある能力欠如なのだから、保育園・幼稚園の時代から、教師から子どもへの知識伝達・情報伝達に権威主義性を排除して、そこに考えるプロセスを取り入れることを第一番の肝要な課題としなければならないように思えるが、どうだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする