教育格差を自活教育でカバーすることはできないだろうか

2009-10-04 06:10:26 | Weblog

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 職業訓練ではない、実地に食べていく教育

 〈親の経済格差は教育格差にとどまらず、「健康格差」となって児童生徒に広がっている。〉――

 名文章と言えるなかなかの出だしとなっている。ニュースとフィクションの違いはあるが、川端康成の『雪国』の出だし、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」以上に的確に言いたいことを表現している。

 「asahi.com」記事――《広がる子どもの健康格差 病院に行けず、保健室で治療も》(2009年10月1日23時27分)

 県立高2年生の男子生徒が体育の授業で足首をひねったと保健室にやってきたので養護教諭が腫れ上がった患部を湿布で手当てし、「靱帯(じんたい)が切れているかもしれないから病院に行った方がいい」と言い聞かせたが、次の日も次の日も「湿布を貼って」とやって来て病院に行った様子がない。聞くと、「家には湿布なんかないし、買ってもらえない。・・・・病院に行かなくてもそのうち治る」

 親に治療費を払うカネがなくて保健室で直そうとする子や健康診断で異常が見つかってもなかなか再検査を受けない子がいるという。

 記事は〈「保健室は本来、初期の手当てをして医療機関につなぐまでが役目だ。しかし、そんなことを言っていられない現実がある。〉と訴えている。

 1年前から毎日市販の鎮痛薬を飲んでいた別の2年生が、多分薬を切らしたが、買うカネを持ち合わせていないといった事情からなのか、「薬、ちょうだい」と保健室に頭痛薬をねだりに来る。いつまでも直らない様子だから、養護教諭は心配になって母親に「一度検査を受けた方がいい」と手紙を出したが返事が来ない。校医に治療勧告書を書いてもらって、母親はようやく生徒を病院に行かせた。幸い大事には至らなかったが、放っておけば脳梗塞を起こすおそれがある状態にまで進行していたという。

 母親としては子どもが脳梗塞を起こしてからの治療費や最悪寝たきりになった場合の世話や死んだ場合の葬式代よりも安くついた計算になるだろうが、そんな計算など頭に思いつく程の余裕もないということなのだろうか。

 この北海道立高校は全校生徒の4割が生活保護を受けているという。ということは親の経済格差を受けて当然の反映として教育格差もあるが、同時並行的に健康格差の影響をも諸にかぶることになっているとしても、それ以前の問題として地方格差が親の経済格差に反映しているということであり、それ以下の格差に連鎖反応しているということであろう。

 〈歯科検診では虫歯が8本以上ある生徒が1割を超え、中には20本ある子も。親は日々の暮らしで精いっぱいで、子どものころに歯磨きの習慣をつけてもらっていない生徒が多いという。

 「何かあったら治療を受ける、という発想や習慣が全くない。学校を出て、この先ちゃんと暮らしてゆけるのか」 〉と養護教諭の心配を伝えている。

 埼玉県のある県立高校の場合は生活保護世帯やひとり親の家庭が多くて、授業料や生活費をアルバイトで賄う生徒が多く、「新入生の3分の1は初年度のうちに退学していく」という。

 〈「おなかすいた」。こう言って保健室にやってくる生徒のために、この養護教諭はビスケットやアメを自腹で常備している。話を聞くと、前の日から食事をとっていない子がざらだ。体温や血圧が低く、体育の授業中、うずくまったり壁にもたれたりしてやり過ごす子も多いという。

 学校の定期健診で再検査が必要になっても、生徒からまず出る言葉は「検査代はいくら?」。自己負担になる再検査では、例えば心電図だと5、6千円かかるという。再検査を促し、ようやく受診して問題がなかった生徒の保護者からは「お金が無駄になった」と苦情を言われたこともある。「お子さんのためにはよかったんです」と返すしかなかったという。 〉――

 記事は親の経済的困窮が子どもに影響、拡大している状況を文部科学省の統計で示している。

●学用品や修学旅行費などを公的に負担する「就学援助」の対象となる小中学生は、
 この10年で約78万4千人から約142万1千人と1.8倍に増えた。

●都道府県立高校で授業料の減免措置の対象になっている生徒も、約11万1千人から約22万4
 千人へと倍増している。

 記事は最後に、〈7月に愛知県で開かれた全日本教職員組合の養護教員の会合でも、子どもたちの窮状が相次いで報告された。これまで埋もれていた親の経済状態と子どもの健康の関係について掘り起こそうと、各地の教員に報告を呼びかけている。(中村真理子) 〉と報じているが、「子どもたちの窮状が相次いで報告され」ているという状況は「就学援助」にしても「授業料の減免措置」にしても、効果を見ない生徒が多くいることを示している。

 その証拠が埼玉県のある県立高校の「新入生の3分の1は初年度のうちに退学していく」というケースであろう。

 民主党の中学校修了まで最終的に一人当たり月額2万6000円の「子ども手当」の支給と高校授業料の実質無償化が多くの子どもたちの教育にかかる経済的負担を軽くするだろうが、これらの政策が所得制限を受けることになったとしても、金額的に個々の収入格差を埋める決定的な要因とはならないだろうから、経済格差と相関関係にある教育格差をどれだけ埋めることができるかだが、悲観的に思える。

 例え2万6000円を得て、今まで通うことのできなかった塾に行けるようになったとしても、親の高収入のお陰で塾代はそれ相応に高いが、成績を上げることで名を馳せている名物塾教師がいるような有名塾に通っていた子どもとの間の教育格差は簡単にはカバーすることはできまい。かなり前のことだが、週末ごとだったと思うが、飛行機に乗って地方から東京の有名塾に通っている子どもをテレビで扱っていたことがあった。

 また教育の機会は学校教育だけではない。連休もどこへも連れて行ってもらえない子どもと纏まった連休となると海外旅行に連れて行ってもらって、その土地の情報を目や耳から得て知識とする子どもたちとでは当然教育格差は生じる。小学校低学年のうちにパソコンを買ってもらうことができた子どもと高卒まで学校でしかパソコンに触れたことがない子どもとの間も同じだろう。困窮家庭の中で2万6000円をパソコンの購入、インターネットにつなげるためにプロパイダーと月々3000円だ4000円だといった契約にまでまわせる余裕のある家庭がどれ程あるだろうか。

 2万6000円が親の生活費に吸収されて教育費に回らないケースも多々あることも考えなければならない。あるいは国からの支援で高校を無事卒業して大学に進んだとしても、大学を卒業するまでの経費を奨学金やアルバイトで凌ぐ都合上、勉強に手が回らずに大学卒業が名ばかりとなって、大学に進んだ生徒にも経済格差が教育格差となって実質的に付き纏うことになる。

 つまり子ども手当てや高校授業無償化が「健康格差」の解消に例え役立つことがあったとしても、教育格差を埋めるまでに個々の収入格差を埋める決定的な要因とはならないということなら、経済格差が教育格差へとつながっていく親から子への、さらにその子から次の子への循環は依然として続くことになる。

 教育格差は学歴格差をほぼ必然とする。学歴格差は就職格差へと循環していく。国の支援で高卒までこぎつけたとしても、記事に登場する子どもたちの中から就職格差の影響を最初に受けやすい象徴的対象を挙げるとしたら、やはり「新入生の3分の1は初年度のうちに退学していく」といった生徒たちに向けられることになるに違いない。記事の中にはない高校への進学を希望していながら親の経済的理由から叶えられずに中学卒で学歴を終えていた子どもたちも、同じく国の支援で高卒まで行けたとしても、就職格差の狙いやすい標的とされることだろう。

 親から子へと延々と循環していく経済格差から教育格差へ、教育格差から就職格差へ、就職格差から収入格差、そして最初の経済格差へと戻る連鎖を断ち切れないままこれまでと同様に不景気になるとリストラの最初の犠牲者となるパート、アルバイト、派遣、あるいは期間工といった不安定な職業が定番の就職機会しかなく、行く行くは親の経済状況を繰返すことになるということなら、そういった境遇をある意味約束されている者にとって中学や高校の卒業はワーキングプアの保証にしかならないことになる。

 そうであるなら、道立高校の養護教諭が経済的事情で腹を空かせた生徒に「ビスケットやアメを自腹で常備」しておくといったことではなく、学校が用意してやることは学校社会でも可能な教育の側面を持たせた自活の方法ではないだろうか。

 学校でよくやる職業訓練などを通した卒業後の自活のためのなまじっかな資格の習得は大卒が手にする資格に太刀打ちできない、そもそもからして学歴の点で後れを取って、落着き先は相も変らぬパート、アルバイト、派遣、あるいは期間工といった不安定な職業しか約束されないということなら、大卒と同じレベルで勝負するのではなく、本人の選択に委ねる必要はあるが、義務教育の中学は勿論、在籍している高校が普通高校であっても、希望する者に将来的に生活の糧を得る手段としなくても、農業技術を取得させて学校に在籍している間自活できる方策を講じて、併せて教育手段とすることも一つの手であろう。

 自活の方法を身につけることによって生きる知恵が自然とつく。

 教室で農業の知識を伝えることから始めるのではなく、あくまでも自活が主であるから、学校の敷地内に畑を作り、先ず実地にバラや菊といった園芸物の育成、あるいは地味が痩せていても育つというサツマイモ等の種を撒く試行錯誤から始めて、育て、収穫まで持っていく。その合間に教室で農業の知識を深めていくといったことをし、収穫物は自分たちの食料とすることは勿論、学校内や学校外で自分たちで販売方法を工夫し、学びながら販売して換金し、次の農作の資材を購入した差引きを、プラスならばということになるが、平等に分配してそれぞれの収入として何分の一かでも自活の形を整えていく。

 あるいは夏休み等に農家にアルバイトに行き、農業を職業としている者から農業技術を直接学ぶといったことをしていくばくかの収入を得ることができれば、自活の割合を増すことができる。

 自分たちで生産し、その収穫物を製品として、あるいは商品として自分たちで販売して収入を得るというプロセスは自活の学びだけではなく、実人生そのものを学ぶことに重なる貴重な経験となるはずである。

 勿論学ぶ対象が農業でなくてもいいが、中学生、高校生が学校の授業として手がけるには元手がそれ程かからないこと、学歴や学歴に応じて得た知識・資格で勝負する職業ジャンルに含まれていないことが学歴を持たない者にとって将来的な有益性につながる可能性を少なからず保証するはずである。

 例え高卒でも親の収入に守られて高校教育を十分に自分の知識とすることができる者、同じく親の収入に守られて大学教育を自分の知識とすることができる者と違って不安定な低収入の職業に就くぐらいのことしか保証されない、不景気になるたびに真っ先にクビを切られることしか予想することができない者であって、自分で食べていくぐらいのことは自分でどうにかできるという自活の知恵(=生きる知恵)と開き直りを中学・高校の間に学び取ることができたなら、上記記事の北海道立高校の養護教諭の「学校を出て、この先ちゃんと暮らしてゆけるのか」 〉という心配は少しは解消できるのではないだろうか。

 農業のなり手がないと言われている。この不況でクビを切られた大勢の非正規雇用者のうち、どれ程の人数なのか、生活の糧を求めて農家や農業法人に就職する者が出たが、中学、高校で農業を実地に学んだ生徒が仲間と語らって休耕地を借りて農業を始めるといった場面が展開されるケースが生じた場合、なり手の少ない農業分野に雇用が生まれることになる。

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