日本の「中央集権制」を過去記事から改めて見る(1)

2009-07-09 00:19:25 | Weblog

 

 日本人性の反映としてある国と地方の関係

 橋下、東国原両知事の成果なのか、「麻生おろし」程頻繁ではないが、最近「地方分権」なる言葉が盛んに飛び交っている。「地方分権」でパソコン内を検索していたら、「地方分権」に関するいくつかの自作記事が出てきた。適当に拾って読み返してみたうちの約2年前の2006年8月4日付記事「日本人性の反映としてある国と地方の関係」と昨年の208年1月18日記事「中央官僚と知事との間の権威主義的上下関係」が最近の言葉で言うと、“自分的には”決して古い内容とはなっていないように思えた。

 “自分的には”とは“他人的には”古臭くなっていると見るかどうかは分からないということにもなるが、また妥当な内容かどうかも不明ではあるが、「地方分権」が政権の座から滑り落ちたくなくてワラにも縋る思いで東国原知事の人気に頼ろうとしている自民党一部幹部の右往左往と両タレント知事のバカの一つ覚え的連呼、それを伝えるマスコミ報道で始まった最近の問題というわけではなく、東国原が宮崎県知事に就任したのが2007年1月23日、それ以前から引きずっていて満足に解決も見ないまま推移してきた古くて新しい問題であること、そして日本に於ける地方分権制度の未確立は中央集権制、あるいは中央集権政治に深く関わっていることを改めて知って貰うためにも再掲載してみることにした。

 昨8日の「時事ドットコム」記事が橋下大阪府知事が「国と地方は奴隷関係。(奴隷側に)公民権を。・・・・(地方自治体に)拒否権とか議決権を制度として与えてほしい」と述べて、国からの自律(自立)した主体的地位確立とその保証を訴え、〈分権のため参院に自治体首長枠を設ける案も表明〉したと伝えているが、「国と地方は奴隷関係」が実感として持っている関係性なのか、「地方分権」を訴える中で、インパクトを与える意味で少々過激な表現を使ったのか分からないが、国と地方が上下関係にあることは事実中の事実となっている姿なのは改めて断るまでもあるまい。

 これは戦前から受け継いでいる中央集権体質が制約している国と地方の上下関係であり、この反映を受けて自民党という組織及び自民党政治が中央に位置した政権党として上に立ち、地方が下に従うことから生じた国柄であろうが、基本的には何よりも物事のすべてを上下の区分けで人間を価値づけ、その価値観に従って人間行動を律している権威主義の行動性が影響して、社会全体を支配していることから起きている国と地方の関係であろう。

 《日本の「中央集権制」を過去記事から改めて見る(1)》として、「日本人性の反映としてある国と地方の関係」を、《日本の「中央集権制」を過去記事から改めて見る(2)》として、「中央官僚と知事との間の権威主義的上下関係」を再掲載してみることにした。
 
「日本人性の反映としてある国と地方の関係」の記事中参考引用した「朝日新聞」の記事「地方分権描けぬ道筋」の見出し自体が自民党政治の地方分権に無能力の証明となっている。
日本人性の反映としてある国と地方の関係(Weblog/2006-08-04 04:57:26)

 日本人がつくる人間関係に関わる体系すべては日本人性に影響を受ける。日本人性から出た制度、組織、慣習を形作る。何事も日本人性の反映を受けて成立・維持していくのだから、それはごく当然な因果性であろう。国と地方の関係に於いても、日本人性がつくり出した力学下にある。

 このことの理解に役立つ新聞記事がある。

 「地方分権描けぬ道筋」(06.7.21.『朝日』朝刊)

 「地方分権で、国と地方の役割を見直す『新分権一括法』の制定が焦点となってきた」という出だしとなっている。新法の必要性では内閣・与党とも認識が一致しているが、その道筋が描けないでいるという内容の記事である。ここにきて小泉構造改革も迷走状態に入ったようだ。

 「小泉政権が進めた三位一体改革は、補助金削減や税源委譲などのカネの配分見直しが柱だったが、国と地方の役割分担から改めて問い直す」(同記事)こととなったというから、「小泉政権が進めた三位一体改革」は最初から満足な内容を伴っていなかったと言うことだろう。

 あれほど三位一体、三位一体と大騒ぎしていながらである。「カネの配分見直しが柱だった」と言っても、財政再建の必要上、国の負担を何兆円ぐらいは減らしたい、地方への財源移譲は何兆円に抑えたいといった、国により都合のいい差引計算で単に数字を弾き出しただけのことだから、〝見直し〟は次なる予定調和として宿命的に抱えていたということなのだろう。構造改革、構造改革とさももっともらしげに言い募ってはいたが、数字上の操作か職務配分上、あるいは配置上の機械的な操作・改変程度で終わっている改革ばかりではないか。

 特殊法人や独立行政法人の整理統廃合にしても公務員改革にしても、いくつのものをいくつにするかといった差引計算、あるいは現在の数字をどのくらい減らすかといった最初に数字ありきで、組織・制度に於ける人事的な機能性の改善抜きでは本質的な問題解決にはつながらない。

 人事的な機能性の中で最も問題としなければならない事柄は日本の官僚が特に血とし肉としている日本人の権威主義性がもたらし制度化している縦割りと縄張りの問題であろう。それが手つかずのままでは諸外国と比較してただでさえ低い公務員の生産性(無能ぶり)は低いままで推移し、改革が改革の体裁を成さないことになる。統廃合や人数削減で従来以上に生産性を上げなければならないところを、逆に組織改変や人数が減ったからと縦割り・縄張りが今までどおりに機能しないより悪い方向に病変して、その混乱によって逆に生産性がなお一層落ちる恐れなしで、改革が組織・制度の表面をいじっただけのこととなり、より始末の悪い結果をもたらすことになりかねない。

 改革が数字を弾き出すか、職務に対する機械的な操作・改変程度で終始するといったことも日本人性に深く関係している。上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の力関係・人間関係に阻害要件となることから欠如させている創造性のなさが、そういった機械的操作に向かわせているのだろう。

 記事は国と地方の関係について次のように伝えている。「現在の分権一括法は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した。ただ、地方全体の仕事の7割に相当する部分が国の関与が残り、役割見直しは不十分とされてきた」

 カネの配分だけではなく、国の役割を主体に地方の役割をも一括して見直すべく取りかかろうとしているのが「新分権一括法」と言うことらしいが、「現在の分権一括方は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した」と記事が解説している国と地方の関係内容と、「地方全体の仕事の7割に相当する部分が国の関与が残」っている関係内容とは相矛盾する成立過程となっている。「国の関与が残」っている以上、「国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え」たとは言い難いからである。

 そもそもからして21世紀の自由・平等の民主主義の時代に自由・平等の民主主義に真っ向から反して「国と地方の関係」が「上下・主従」の権威主義的関係にあること自体、日本人が権威主義性を如何に歴史・伝統・文化としてきたか、「国と地方の関係」がそのような日本人性の反映の一つの姿であることを否応もなしに証明している。

 そのようにも歴史・伝統・文化としてきた「国と地方」の「上下・主従」の権威主義的関係である、地方との間に「7割」も「国の関与」を残していて、「対等・協力」の関係に移行するわけがない。

 例え「関与」がゼロとなったとしても、「対等・協力」の関係は成立しないだろう。権威主義性は日本人が血としている行動様式である。一朝一夕には消えてなくなるものではない。自分たちの情けない血を自覚して、余程意識的に行動しないことには中央の政治家・役人にペコペコ頭を下げる民族的に刷り込まれた習慣はそう簡単には改まらない。

 国の関与が「7割」からゼロになり、地方が完全独立を獲ち取って完璧に別個に仕事をすることになったとしても、いわば地方の役人が中央の役人と顔を合わすことがなくなったとしても、県が今度は一番上の地位を獲得することによって、その権威主義性を強め、これまでの国と地方の「上下・主従」の権威主義的な人間関係に取って代わる形で、県と各市町村との従来からあった「上下・主従」の権威主義的な人間関係にさらに上乗せされる可能性無きにしも非ずである。

 また国会議員が自身や秘書、あるいは系列の県会議員を通して地元選挙区の県の政策や事業に介入する政治家と県との権威主義的な支配・被支配の関係は国の関与とは別個の場所でも行われていたことであって、そういった権威主義的関係をも排除しないことには、いくら「新分権一括法」だと法律をこね回したとしても、改革の底から水漏れが生じない保証はない。

 役人の天下りにしても、権威主義が助けている制度・慣習であろう。一旦手に入れた上下関係の有効期限が変化せずに持続するからこそ、天下りは成立する。在職中の内外に対する上下関係が離職後失効して対等性を招じ入れる類のものなら、天下りは成り立たない。離職後、特に在職中の内に対する上下関係が際立って力を持ち、その関係で有効期限が長く持続するものなら、再就職先で天下りとしての価値が高まる。

 また天下りは中央の役人の特許ではなく、地方の役人の特許ともなっている生業(なりわい)であって、権威主義性が網の目のように日本社会を覆っていることの証明でもあろう。

 天下りに顕著な形で見ることができるように、権威主義的な人間関係が機会の不平等をつくる大きな要因となっている。上に位置する力の強い者が下を従わせる特権を利用して、より有利な機会を手に入れ、下の者の機会を奪う。機会獲得の不平等は当然のこととして、利益配分の不平等をもたらし、そのことが格差をつくり出していく。よく言われる国と地方の格差も、国と地方が権威主義的に「上下・主従」の関係にある同じ構図からの利益配分の不平等がもたらした格差であろう。

 そういったことに手をつけずに、手をつける頭もないからだろうが、安倍晋三は日本を「勝ち組」「負け組」に固定化しない再チャレンジ可能な社会にしていくと勇ましく大見得を切って、5月22日(06年)に第二の人生として農業を目指すサラリーマン退職者などとの意見交換を行ったそうだが、一応の功なり名を遂げ、それなりの生活資金を蓄えた、いわば「勝ち組」に入れてもいい人間相手により確かに「勝ち組」に位置づけていこうとする〝再チャレンジ〟支援であって、譬えれば天下りに新たな利益を与えるべく手を貸すようなもので、「勝ち組」「負け組」を固定化しないという趣旨に反することをして、その矛盾に気づかずに得意顔となっている。所詮「再チャレンジ」は奇麗事の政策で終わる宿命にあるのだろう。

 日本人は上に立つとふんぞり返りたくなり、下に位置すると上に対してペコペコ頭を下げて取り入ろうとする人種である。そのような上下関係を改めることからすべての改革は手をつけるべきではないだろうか。真に対等の関係となったとき、言いたいことを言うことが可能となり、そこから政策にしても制度づくりに関しても、創造的な発想が生まれてくる。

 日本の「中央集権制」を過去記事から改めて見る(2)
  《中央官僚と知事との間の権威主義的上下関係》
に続く


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日本の「中央集権制」を過去記事から改めて見る(2)

2009-07-09 00:11:48 | Weblog

 

  中央官僚と知事との間の権威主義的上下関係」(Weblog / 2008-01-18 06:21:20)

 08年1月16日『朝日』朝刊に次のような記事が出ていた。

 ≪毎週上京してカネ無心 乞食丸出しのよう 官僚への知事の姿勢 道州制懇座長チクリ≫

 <道州制のあり方などを検討する政府の道州制ビジョン懇談会の江口克彦座長(PHP総合研究所社長)は15日、名古屋市で開いた道州制シンポジウムで「愛知県知事は毎週のように東京に行っているだろう。官僚にカネください、カネくださいともらいに行っている。差別用語かもしれないが、乞食丸出しのような格好で行かなければならない」と発言した。

江口氏はこの直前に「地方分権という言葉を使うべきではない。嫌な言葉だ。どうして『地方』なのか。みんな『中心』だと思えばいい。自主独立の気概が生まれてこない」と述べ、地域主権型の道州制を目指す考えを強調した。

 中央官僚が知事よりも偉いかのような関係のあり方を批判するつもりだったようだが、逆に知事から反発を招きそうだ。>・・・・・

 上記記事は相変わらず日本は国が地方を支配する中央集権型の国家となっていて、「地域主権型」といった名前はどうであれ、国と地方が対等の関係とはなっていないことを示唆している。国と地方がもし対等であったなら、地方側の実現させたい政策が国の補助金を必要とする場合、その計画を具体的に述べた文書を国に送り、担当者のプレゼンテーションを参考材料に加えて国が審査を行えば済むはずだが、県知事がわざわざ東京にまで出かけ、中央官僚に会って直に頭を下げるところに対等ではない、自らをお願いする下の立場に置いた上下関係が浮かび上がってくる。

 地方が中央の有力な官僚に天下りを求めるのも、企業の官僚活用と同様に天下った元官僚の勤めていた省庁への影響力・顔を期待してのことだと言うが、そのことの可能性も元官僚とかつての職場の在籍者との権威主義的な上下関係の確たる存在を条件として成り立つ期待値であろう。

 いわば天下り官僚が省内で持っていた上下関係(=権威主義性)の地方対中央の磁場への置き換えに過ぎず、権威主義を纏った中央対地方の関係であることに変わりはない。

 中央省庁が自治体をコントロールする強力な武器となっている「補助金制度」がある限り、中央と地方の「上下・主従」の関係は変わらないという意見があるが、「補助金制度」が日本人の権威主義的上下関係を慣習化させたわけではない。民族性としている日本人の権威主義性が人間関係を上下に規定していて、そこから中央を上に置き、地方を下に置く現在の「補助金制度」を発生させたに過ぎない。日本人の上が下を従わせ、下が上に従う権威主義の行動様式は中央対地方の関係にのみ存在するわけではなく、すべての人間関係に亘って存在する関係式だからである。

役人の世界だけの関係式ではなく、地方政治家と国会議員の間にも働いている関係力学であり、警察社会をも動かしている構造式であり、企業社会でも本社と支店、あるいは元請会社と下請会社の関係を規定づけ、一つ組織であっても、上司対部下の関係を制約づけている上下性でもあるからである。

1996年を14年も遡る1982年に会計検査院が愛知県警本部の立入り検査を行い、カラ出張で捻出した裏ガネの使途が記載されている裏帳簿類を摘発したものの、不正経理を証拠立てるまでに至らず、1996年に内部告発を受けたかして再度立入り検査が行われたが、朝日新聞社が14年前の裏帳簿のコピーなど同県警の過去の内部文書を入手したとして、1996年の8月26日の記事で次のように伝えている(一部引用)。

≪カラ出張で裏ガネ1000万円 会計検査院 愛知県警の裏帳簿、82年に入手≫

<関係者の話や帳簿類によると、総務部では当時、各課でカラ出張を行い、その旅費をプールする方法で裏金を捻出。裏金に回したのは、旅費予算の8割にものぼり総務、会計、広報など5課があった総務部全体では、裏金の総額が年間、1千万円を超えていた。

 裏金の多くは「課費」として課の支出に充てるが、さらにこの「課費」の一部を総務部長ら幹部の私的な経費などを賄う「部費」と「部長経費」に上納する二重構造になっていた。

 幹部優先

裏帳簿を見ると、使途で最も多いのは、せんべつやお祝い、香典などの慶弔費で、額の差はあるものの一般職員も対象になっている。が、階級社会の警察だけに、裏金の使途も幹部に厚く、下に薄い。
 (中略)

 つけ届け

 本部長や部長への中元、歳暮は慣例になっていて、毎年、機械的に費用が裏金から出ている。70年代半ば、部長が本部長に贈る歳暮、中元の代金は1回21200円。部長と部長夫人には、各課で合同で贈り、一つの課で6000円ずつ出し合っている。

 幹部への気遣いは贈り物だけにとどまらない。「本部長令嬢結婚祝分担金」として計55000円が部長経費から。また、「本部長実兄方葬儀に伴う経費」で60100円が使われた。

つけ届けは、警察庁をはじめ全国の警察幹部も対象だ。警察庁や他県幹部が愛知県を訪ねると、みやげを持たせる。人によってはホテル代や運賃まで裏ガネで払っている。「名駅通過、おみやげ 二千円」の記載がある。これは、名古屋駅を通過しただけの管区警察局長に、課員が駅にかけつけて、みやげ品を渡したのだという。(後略)>

 下線で表記した箇所が日本人の人間関係が権威主義的上下関係で成り立っていることを証明している。特に「『名駅通過、おみやげ 二千円』の記載」部分は権威主義的上下関係が最も露骨に現れている場面であろう。

 管区警察局とは警察庁の地方機関ではあるが、東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州の7地域の警察本部の上部組織として各地域警察を監督する立場にある組織である。そこのトップである局長が単に電車に乗って通過するだけなのに「二千円」の「おみやげ」を持って、多分使いっ走りの下っ端なのだろう、課員が駆けつけて失礼がないように卑屈にペコペコと頭を下げて手渡し、電車が見えなくなるまで深々と頭を下げるか敬礼するかした直立不動の姿勢でプラットフォームから見送る。そのようなシーンがいやでも目に浮かんでくる。

 自分たちを下の者に置いていなければできない上の者に対する過剰な敬いではないだろうか。

 受取る方も当然のように受取ることができるものだが、自分を上の位置に置いているからこそできる下の者からの貢物行為であり、そのことによって自分を上の者・偉い人間だと確認してもいるのだろう。

 ここで問題なのはただ単に電車で通過するだけのことがその通過時間と共に下部組織に情報として伝わる組織の機能性である。上下関係を演ずるだけの儀式の情報交換に関しては遺漏のない組織の機能性とは何を物語るのだろうか。

 上の者に対しては常に相手が上の者であり、当方が下の者であると分かる敬いと卑下の相互関係が相手に対して失礼にならない人間関係となっているからこそ、上下関係を証明する情報交換能力が自然と発達することとなった日本人の権威主義性と言うことなのだろう。この情報交換能力の優秀性は上下関係を証明する儀式を疎かにしては上の者に対して失礼であるし、不興を買った場合、下の者の立場が危うくなるといった態度と相互的発達関係にあるのは断るまでもない。

 とすると、例えば教育政策で文科省は自分で課題を見つけて自分で解決する能力を植えつける教育が機能しなかった理由を、そのことを目指した「ゆとり教育」の趣旨をうまく伝えることができなかったからだとしているが、制度として機能させ得るかどうかはひとえに情報(=政策)をつくり出し、出力する側の創造性と情報(=政策)を入力し、それを実行する側の創造性との連携プレーにかかっているように、各種政策を機能的・実際的に社会制度化するための創造性を喚起する情報交換能力に不足があるのは権威主義的な上下の人間関係に費やす情報交換能力の突出・優秀さ(=プラス)を受けたマイナスとしてある情報伝達能力の欠如と言えるかもしれない。何しろ日本人の上下の人間関係維持に浪費される情報伝達や創造力にしても、そのエネルギーは金銭的エネルギーに劣らず膨大な量となるだろうから、社会の発展に向けた肝心の情報伝達には手が回らないのも無理はない。

 例え「地域主権型の道州制」を目指そうとも、「自主独立の気概」を心掛けようとも、補助金制度の解消に成功しようとも、権威主義的な上下の人間関係をDNAとしていることから逃れらることができなければ、中央と地方の上下関係・主従関係はどこかに残ることになるに違いない。

 戦前の日本の軍隊は天皇の軍隊であり、官僚は天皇の官僚であった。戦前に於いても支配層はお上意識を持ち、一般国民を下に置く権威付けで以て相互の人間存在の証明としていた。それぞれが発揮する能力の内容ではなく、能力の権威付けを上下の人間関係で計った。

 そのような権威主義的な上下関係の存在様式を戦後も引きずって、中央と地方の関係に最も象徴される権威主義に縛られた「上下・主従」の人間関係が日本社会全体にはびこり状態となっている。知事が中央の「官僚にカネください、カネくださいともらいに行」く場面は日本に於ける「上下・主従」の人間関係の単なる一つの姿に過ぎない。

 日本が真に自立(自律)し、他力(=他国)に依存しない自力的発展を望むには人間関係を上下で律する権威主義のメカニズムから抜け出て、個人個人が自立(自律)することから始めなければならないだろう。個人の自立(自律)があって、初めて社会の自立(自律)があり、国の自立(自律)へとつながっていく。

 それにしても上に立つ者の卑しいコジキ行為となっている金銭授受・物品授受(歳暮・中元、その他)であることか。中央省庁官僚の汚職の反省から生まれた「国家公務員倫理法」が施行されたのは1999年。内容は国家公務員が利害関係者からの借受けを含むカネの授受や各種接待、贈与の機会を得ることを禁じているが、防衛省の守屋次官の金銭授受・接待やその他の者の類似例が「国家公務員倫理法」が権威主義的な上下関係の打破に無力であることを物語っている。天下りに約束する多額の給与と多額のボーナス、多額の退職金もある意味、「国家公務員倫理法」が禁止している「カネの授受・接待」に当たらないことはあるまい。


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