無検証・無責任の線上にある靖国秋季例大祭参拝

2007-10-21 06:19:41 | Weblog

 超党派の議員でつくる「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長=島村宜伸・元農相)のメンバー67人が18日(07年10月)、靖国神社を参拝したと「読売」インターネット記事に出ている。。

 <同神社の秋季例大祭に合わせた恒例行事で、自民党の尾辻参院議員会長ら同党議員を中心に、民主党、無所属議員の計67人(衆院49人、参院18人)が参加した。西川京子厚生労働副大臣、加藤勝信、戸井田徹両内閣府政務官、秋元司防衛政務官、山谷えり子首相補佐官も参拝した。
島村氏は参拝後の記者会見で、福田首相が近隣諸国との関係を重視して靖国神社に参拝しない意向を示していることについて「自分たちの意思で参拝することに何ら臆するものはない。残念だ」と述べた。>(07.10.18/11:2『読売』≪超党派の国会議員67人、秋例大祭で靖国神社を参拝≫)

「自分たちの意思で参拝することに何ら臆するものはない」

 大いに結構、毛だらけ、ネコ灰だらけ。だが、わざわざそう宣言しなければならないところに、参拝に意識的にならざるを得ないところがあるのだろう。

 多分、「あなた方は誉れある大日本帝国軍隊兵士として天皇陛下のために自存自衛の戦争を戦い、お国のために戦って、尊い命を落とされた。ここに万感の思いを込めてご冥福をお祈りし、尊崇の念を表します」とでも言って手を合わせたのだろう。

 「今の日本はあなたがたが全身全霊で示されたのと同じように自分の命に代えてまで国を守ろうとする気概を持った若者がいなくなった。いや、尊い命を捧げたあなた方を顕彰することさえ忘れたしまって人間がいる」と付け加えたかもしれない。「嘆かわしいことだ。こんなことでは美しい日本は滅びる」と。全体的な人間の営みに関して言うなら、元々美しい日本など存在したことはないのに。

 「国家の人間でありながら、中国・韓国に臆して参拝しない人間は福田だ」とさらに付け加え、内心罵った国会議員もいたかもしれない。「臆」したと言うことなら、戦前型国家主義者であることを裏切って直接の参拝を控えた前首相の安倍晋三だって同じであろう。

 まあ、侵略戦争ではなく、自存自衛の戦争としておこう。しかし自存自衛の戦争とはならなかった。植民地解放・大東亜共栄と言いながら、アジアの多くの人間を犠牲にし、国のためを優先して自軍の兵士の多くを犬死の生贄とした。

 会社を救うための借金だと言っても、会社を救うことにならなければ、借金は無意味化する。会社が倒産し、借金が残ったなら、その責任は問われなければならない。

 このことは「政治は結果がすべて」だと多くの政治家が言っていることからも証明できる。戦争も政治、あるいは外交の一つの手段である。当然戦争も「結果がすべて」でなければならない。結果に対して責任を負うと言うことである。

 自存自衛の戦争が結果として自存自衛にならなければ、そのような戦争を計画し、遂行した者の責任は免れることはできない。戦争の結果に対して責任を取ろうとする姿があったなら、なぜ無謀な戦争を仕掛けることになったかを徹底的に検証することによって責任を開始させなければならない。

 検証の当然の結果として、あの戦争は国民が「尊い命を捧げされられた」戦争でもあり、戦争の名のもとに国家が国民の「尊い生命を犠牲にした」戦争でもあったことが判明して、「尊い生命を捧げた」の検証のみでは国家の責任を無罪放免とするだけの一方通行で終わる。

いや、それだけではない。あの戦争で命を落とした日本の兵士や国民は自存自衛の戦争にはならなかった日本の無謀で愚かな戦争の被害者でもあると同時にアジアの国々に対する加害者でもあったのだから、「天皇陛下のために、お国のために尊い命を捧げた」と顕彰するのみでは、国家の責任を無罪放免とするだけでなく合理性を欠いた一国主義的倒錯行為と化す。

 このことは例えA級戦犯を分祀したとしても変わらない。10月07日(07年)の「asahi.com」が<日本遺族会会長である自民党の古賀誠選対委員長は6日、津市で講演し、「靖国神社が戦没者追悼の唯一の施設ということを基本に、国民すべてが、天皇陛下を含み、英霊の御霊(みたま)にお参りできる施設として残すべきだ」と述べ、改めて「A級戦犯分祀(ぶんし)論」を唱えた。古賀氏は「A級戦犯だけに責任があるとは決して言わないが、多くの戦没者の遺族を出してしまった。時の指導者の中で責任を取ってもらうのは一つの考え方だ」と強調した。
この問題をめぐり、日本遺族会は古賀氏の提案を受け、今年5月から合祀(ごうし)の経緯を検証する勉強会を開いている。>(≪靖国神社分祀、改めて主張 古賀遺族会会長≫)と伝えているが、結果に対する責任を含めた戦争を検証する責任を果たさないどのような「追悼」も、また追悼の対象者が誰であれ、戦前の日本国家の責任(自存自衛の戦争とならなかったばかりか侵略戦争とさせた責任)を除去する(=無罪放免とする)もので、戦死者を「天皇のため・お国のために戦った」と献身行為、あるいは奉仕行為と位置づけることができるのも、国家の責任の除去を隠された条件としているからに他ならない。

 そのような国家責任除去の構図が戦死者から犠牲者及び加害者の要素を隠蔽するウソを生じさせることとなっている。

 アジアの国民に対しては加害者でもあった位置づけを欠くからこそ、「英霊」なる顕彰が可能となる。

 島村宜伸以下の67人の日本の国会議員が「天皇陛下のために戦い、お国のために戦って、尊い命を犠牲にした。ご冥福をお祈りし、尊崇の念を表します」とのみ顕彰できるのは戦争及び国家の責任を検証しない姿勢でいられる無責任のゆえからに他ならない。

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