長井カメラマンの死を意味ある死とするために

2007-10-05 04:14:49 | Weblog

 死せるカメラマン、日本政府を動かすか

 07年9月27日反政府デモを取材中のフリーカメラマン長井健司氏(50)がミャンマー市民の反政府デモ取材中、ミャンマー当局のデモ治安部隊員に明らかに背後の至近距離から銃撃を受けたらしい非業の死を遂げた。

 殺害当初は<デモを取材中に流れ弾に当たったとの未確認情報もあり、地元警察は死亡した状況などを詳しく調べている。>(07.9.28『朝日』朝刊≪日本人記者が死亡 ミャンマー デモ取材中?≫)と疑われる直接の死亡原因は27日の時点では不明の状態であった。

 10月1日の時点でも町村官房長官は「皮膚にやけどや火薬の粒子はなく、至近距離から撃たれたか否かは不明だ。遺体が日本に戻ってきたら、日本側が検視しなければならない」>((07.10.1/2:35/『読売』≪長井さんの遺体、「日本側が検視」町村長官が方針))と記者会見で述べているように、その死がどれ程に不合理な死であるか、卑劣な手段で生命をもぎ取られた結果の死であるか把握できないでいた。

 だから当然と言えば当然なのだが、銃撃死前日の9月26日の時点では町村官房長官は政府を代弁して、「いたずらに欧米の国と一緒になってたたきまわるのがいい外交なのか、という感じが前からしていた」(9月27日朝日新聞朝刊≪ミャンマーデモ 軍政包囲網じわり≫)とか、「今後議論するテーマだが、結果としてミャンマーが中国にだけ傾斜していく姿がいいのかも考えなければならない」(9月27日の朝日新聞夕刊≪対ミャンマー 安保理議長が「懸念」≫)と、日本の対ミャンマー援助、その他の対応が軍政を利するのみで民主化に何ら役に立っていなかった現実が示す事実への反省なしに経済制裁を手段としたミャンマーの民主化の促進に否定的な態度を示して、日本政府の対ミャンマー政策の現状維持を表明している。勿論、そのような現状維持はミャンマーの人権状況の現状維持、つまり軍事独裁の現状維持へとつながっていく。中国やインド、ロシアと一緒になって、日本はミャンマーの軍政を裏から支えてきたのであり、今後とも裏から支えていくことを確認したということである。町村以下の日本政府の人間がそこまで考えてあれこれ言っているのかどうかは不明ではある。

 ところが9月28日の時点になって<長井さんへの銃撃をめぐっては、在ミャンマー日本大使館の医務官が「流れ弾というより、近い距離から撃たれた傷跡に見える」と言及し>、<政府内では「故意に銃撃したとも伝えられており、大変憤激を覚える」(高村外相)との声が上がっており、外務省幹部は28日、銃撃が故意とわかれば、「国際法上はミャンマー政府に責任者の処罰や謝罪、補償を求めることも考えられる」> (asahi.com/07.9.29/01:09≪政府、処罰要求を検討 武力弾圧は3日連続に 邦人銃撃))と、背後の至近距離からの銃撃の高い可能性に言及し始めた。

 但し<一方、制裁の可能性について、町村官房長官は28日午後の記者会見で、「国連安保理の議論もこれからで、国連人権理事会の対応もある。そうした動きを見ながら我が国として独自に検討していく必要がある」>(同上記事)と述べたことからも分かるように、故意の銃撃の場合は責任者に限った<処罰や謝罪、補償>請求という強い態度で臨むが、ミャンマー政府そのものに対する経済制裁やその他の制裁とは一線を画している。やはり現状維持ということなのだろう 

 こういった現状維持政策から10月3日の時点になってミャンマー政府そのものへの経済制裁へと日本は態度変更を示すに至っている。<高村正彦外相は3日、ミャンマーでの日本人映像ジャーナリスト射殺事件を受け、同国への経済協力に関連して「今までも人道案件に絞っているが、さらに絞り込むような形を考えていきたい」と語った。追加的な経済制裁を実施する考えを示したもので、外相が同日、記者団に明らかにした。
 同日ミャンマーから帰国した藪中三十二外務審議官の現地情勢に関する報告を受けて判断したもので、検討対象としては「ポリオ対策のように民衆が直接利益を受けるものはやめられない。例えば人材開発センターなど(への支援)を当面止めることができないか検討したい」と表明した。>(07.10.3/14:02日本経済新聞≪高村外相、ミャンマー支援の縮小検討・邦人射殺で≫という。

「人道案件に絞っている」の具体的な内容は同じ記事が<日本政府は1988年以降、ミャンマーへの円借款を停止している。2005年度の政府開発援助(ODA)援助実績は約33億円で、ワクチン供与や麻薬撲滅対策などの人道支援目的にとどめている。>と伝えている。

 「人道案件に絞っている」と言うと聞こえはいいが、<ワクチン供与や麻薬撲滅対策>が北朝鮮へのコメ支援と同じく、全額目的どおりに振り分けられているかどうかは疑わしい。「人材開発センター」にしても、果して人道に属する事業となっているのだろうか。一見人道的な事案に見えても、実際には人道に反する内容を備える場合もある。独裁者キム・ジョンイルの北朝鮮同様に軍人優先国家である。ミャンマー軍事政権の「ミャンマー民主化案」は<96年までの会議で>既に次のように決めている。

(1)国家運営での軍の主導的役割を保証する
 (2)上下院の議席の25%を軍が任命する
 (3)正副大統領3人のうち少なくとも1人は軍から出す
 (06.10.28『毎日』インターネット記事≪ロードマップ(ミャンマー民主化案)≫)

 「軍の主導的役割を保証する」軍人優先国家を意図している以上、(3)の「正副大統領3人のうち少なくとも1人は軍から出す」は、大統領には現役軍人か軍の実力者であった元軍人を配するということだろう。そして民主化を装うために副大統領にイエスマンの民間人を形式的に配する。

 あるいは逆にイエスマンの民間人を傀儡大統領に据えて、軍関係の副大統領が実験を握る偽装民主主義体制を取る可能性もある。

 「人材開発センター」にしても軍主導の国家運営のヒナ型を取って軍の意向を受けた運営となるのは間違いなく、軍関係者の家族・親戚か、軍と癒着して上層階級を形成している富裕者の家族・縁者が優先的に処遇されることとなって、ごく一般のミャンマー人が公平な利用を受けることができるかどうかは保証の限りではない。

 力ある者・カネある者が優先的に人材開発教育の機会に恵まれ、高い能力を身につけて社会に出て、元々社会の上層に位置する人間としてその高い能力を発揮する境遇にも恵まれ、既定の事実の如くに確固とした地位を築き、高額の収入を得ていく。

 日本のこれまでの援助が人道と銘打とうと打たないとに関係なくミャンマーの民主化及びミャンマー民衆の生活向上に殆ど役に立っていなかったということは、逆に軍政の維持に側面から支援していたという事実のみが提示可能となり、その構図が「人材開発センター」の利用状況に於いてもそっくり当てはまらないとは限らない。当てはまる可能性の方が高いに違いない。

 現実問題として軍事独裁体制が揺るぎのないものとなっている以上、日本政府が「人道的案件に絞」ろうと絞るまいと、ミャンマー社会の不公平・不公正な仕組みに加担し、ミャンマーの格差社会づくりに貢献していることには変わらないわけである。

 「人材開発センター」建設や関連機材の販売で日本の企業が商機を得ているとしたなら、
日本の援助はミャンマーの民主化には役立たずであっても、軍政維持に貢献しているだけでははなく、日本企業の利益獲得にも貢献していることになる。これまでもそういった関係にあったのではないだろうか。

 先月26日(07年9月)にベトナムで建設中の橋が崩落し、37人が死亡、87人が負傷している。<カントー橋建設は、日本の政府開発援助(ODA)による事業で、日本政府が円借款約240億円を提供。大成建設と鹿島、新日本製鉄が共同企業体を組み、2008年中の完成を目指している。在ホーチミン日本総領事館は「被害者に日本人はいないと聞いている」としている。>(07.9.27/1:5/読売新聞≪ベトナムで橋崩落、37人死亡…日本のODAで建設中≫)

 テレビのワイドショーでこのことを報じていて、実際の工事は現地ベトナムの建設会社が下請けしていたとの説明を受けて、コメンテーターたちは、「ああ、それなら」と納得した顔をみせた。日本の建設技術は高いという先入観のもと、実際に建設に従事していたのがベトナムの会社なら、日本の技術と比較して低いという逆の先入観で、崩落もあり得ると納得したのだろう。オメデタイ連中だ。

 元請会社は大成・鹿島・新日本製鉄と日本建設業界の錚々たる面々である。自分たちが実際の工事を請け負うのではなく、下請に請け負わせるとしたなら、下請の建設技術の程度を見極めて採用する責任を負う。そして実際の建設に並行して工事が設計どおりに行われているか、その忠実な進行と確度を確認する責任を負う。

 もしも実際に工事を行わせて、最初に予想した技術よりも劣る場合は、当たり前の工事でもこれから取り掛かる工事についての注意点を含めた打ち合わせを元請と下請の責任者は日々行い、工事の方法を確認し合うのである、工事の進行に併せて技術教育と確かな工事を行わせるための現場での管理・監督を徹底させる必要人数の監督を配置するのが親会社の務めであろう。

 単に下請会社の技術が劣るから支障が起きたでは親会社の責任は果たせない。日本政府援助の240億円もするおいしい商機としか見ていなかったから、下請の管理・監督にまで目が届かず、崩落が起きたのではないのか。少なくとも下請に対する管理・監督の責任は果たしていなかった。閣僚の政治行動の責任は本人にとどまるものではなく、任命権者たる首相も負う構造と何ら変わらない。

 コメンテーターたる者、全国に情報を撒き散らすのである。そこまで考える頭を持つべきだろう。日本人は優秀であるという意識を根のところで固定観念としているから、物事を全体的に見る目を欠くことになる。すべてに亘って優秀な国民など存在しない。

 今回の僧侶のデモに端を発した反政府デモはガソリンの値上げとそれが波及した諸生活費の高騰が一般市民の生活を直撃したことがキッカケとなっている。日本政府はミャンマー政府に対して民主化を進めなければ、日本は欧米と歩調を合わせて「人道的案件」であろうとなかろうと関係なしに一切の支援を止め、経済援助はおろか、金融制裁、入国禁止等のあらゆる制裁を科すべきではないだろうか。例えそのことが高村外相が言っているように「(援助を)すべて止めてしまえという意見もないわけではないが、ただでさえ民衆が苦しんでいるなか、民衆に直接裨益(ひえき)するようなものまで止めてしまうのは良くないだろう」(asahi.com/07.10.03/13:15≪対ミャンマー援助、一部凍結へ 高村外相が考え示す≫)恐れがあるとしても、それを無視して「今回の反政府デモでも分かるように、このような制裁がミャンマー国民の〝ただでさえ苦しんでいる〟生活に再度深刻な打撃を与えて我慢の限度を超えるに至らしめた場合、生活の確保のために民衆は再び立ち上がり、それは間違いなく今回同様に反政府デモに発展する。再度政府が治安部隊を展開して武力で鎮圧するようなら、度重なる暴挙にそのときこそ国際社会は決して黙っていないに違いない。ミャンマー政府が自ら進んで体制を軍政から民主化に方向転換するか、それとも例え荒療治であっても、ミャンマーの民衆を反政府のデモに立ち上がらせるために国民の生活を追いつめるべく日本が国際社会と共同歩調を取ってすべての支援を止め、中国・インドにも同調するように迫るが、どちらいいか、選択してもらいたい」ぐらいは言うべきではないだろうか。

 長井カメラマンが受けた銃弾は警視庁の司法解剖の結果、左腰背部から肝臓を撃ち抜いて右上腹部に貫通していることが判明したとしている。抵抗しようとした者を正面から撃ったわけではない。背中を向けていた者を銃身を低い位置から上に向けて弾を発射している。ごく至近距離から当たり前の姿勢で撃ち放ったか、離れていたとしたら、誰が撃ったか分からなくするために腹の辺りに銃を構えて低い位置からの銃撃の可能性が高い。

 例えそれが実際は流れ弾であっても、民衆を退却させるために空に向かって威嚇射撃した銃弾が偶然にも命中したというわけではない。テレビで放映していた長井カメラマンが右手にビデオカメラをしっかりと握って路上に倒れている姿を撮った映像は治安部隊が追ってくる反対方向に背中を向けて逃げ惑う民衆の姿を映し出している。いわば逃げる相手に向けて追い討ちをかけるような銃撃だった。相手が外国人カメラマンだと分かっていなくても、「こいつら、政府に向かってデモを仕掛けやがって」といった具合に民衆に向けて懲罰的な殺意を込めて撃ち放った銃弾だろう。政府が倒れて逆に懲罰を受けるのは軍政によって利益を受けている治安部隊も例外ではないだろう。

 いずれにしても軍政下で不公平を強いられ、それに抗議すべく立ち上がった民衆のデモを政府に対する敵対行為と看做して治安部隊が撃ち放った銃弾なのは間違いなく、その銃弾で長井カメラマンは斃れたのである。流れ弾であろうとなかろうと、そのことに変わりはない。これを以って理不尽な死ではないと誰が言えようか。

 <警視庁は、日本人が海外で重大犯罪に遭った場合を想定した刑法の「国外犯規定」を適用し、殺人容疑で捜査に乗り出すことを決めた。>(07.10.3/10:32『読売』≪長井さん射殺事件、警視庁は「国外犯」適用捜査≫)ということだが、それだけで終わらせたなら、長井カメラマンの死は死の事実を確認するのみで生きてこない。

 その死を生かすも生かさないも警視庁の捜査を越えて日本政府の今後の対応にかかっている。生かすとは、ミャンマーに民主化への真正な第一歩を踏み出させることなのは言うまでもない。

ミャンマーの民主化がその死をキッカケとしたなら、理不尽な死は理不尽な死のままで終わらずに意味ある死へと向かう。

 もしも日本政府が自らを世界の大国に位置づけていることに反して、今後の対応が従来どおりにミャンマー民主化に無力であったなら、カメラマンの死を意味のないものに終わらせ、冒涜することになる。

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