郵政民営化が「JP日本郵政グループ」として昨日07年10月1日にスタートした。霞ヶ関のJP本社で行われた発足式で来賓として招かれた小泉元首相が「私が民営化を提唱したときは、すべての政党が反対と言った。実現は国民の支持があったからこそ、ここまできた。国民から信頼される立派な会社になってほしい」と述べている。
桝添要一が自著『永田町VS.霞ヶ関』の第2章「小泉改革――霞ヶ関の衝撃」の「役人の無駄遣いの財布を取り上げた改革」の中で郵政民営化について次のように述べている。
「小泉改革が目指したのは、無駄遣いの体質の改革だ。予算カットの前に、先ず公務員の無駄遣いにメスを入れた。官僚がなぜ、無駄遣いできるか。彼らが勝手に使える財源があるからだ。
その最大のものは、第二の予算と言われる財政投融資(財投)だ。財投は税金や国債の他に国がその信用で集めたカネで、政府が運用していいことになっており、五年に満たない投融資は国会の議決を経る必要がない。
そして、主な資金源となっているのは厚生年金、国民年金、郵便貯金、簡易保険、公的年金積立金などで、大蔵省(現財務省)の資金運用部が勝手に運用していた。こうした公的資金を使って、都市環境や生活環境の整備などという名目で役所がやっていたのは、公社公団などの特殊法人づくりだ。不必要な特殊法人を次々とつくって、自分たちの天下り先をひろげていた。中でも財投の最大の資金源は、350兆円という巨額の貯金残高を持つ郵便貯金(郵貯)。この役人の無駄遣いを取り上げたのが小泉総理の郵政民営化だった。」
桝添が言っていることを表面的に受け止めると、小泉郵政民営化はいいこと尽くめの改革に思えてくるが、ここには大きなウソがある。
最初に桝添は「小泉改革が目指したのは、無駄遣いの体質の改革だ」と言っている。しかし小泉郵政民営化は「不必要な特殊法人を次々とつくって、自分たちの天下り先をひろげ」るといった役人たちの無駄遣いをする仕組みを、その元手の一つとなっていた組織である郵政省の民営化によって取り上げて、「無駄遣い」ができなくしただけのことで、桝添が見出しで指摘している「役人の無駄遣いの財布を取り上げた改革」に過ぎず、役人共のそもそもの「無駄遣いの体質」そのものを〝改革〟したわけではない。
そもそもからして「役人の無駄遣いの財布を取り上げた改革」との位置づけと「無駄遣いの体質の改革」だとする位置づけを同列に置くこと自体に矛盾がある。桝添はその矛盾にすら気づいていない。クレジットカードを使って無規律に衝動買いする人間からクレジットカードを「取り上げ」てクレジットカードでの買い物をできなくしたことを以って、その人間の「無駄遣いの体質」を改めることができたとは言えないのと同じである。
小泉純一郎が郵政民営化で役人たちの「無駄遣いの体質」そのものを〝改革〟したなら、公務員制度改革で天下りを規制する項目を設ける必要は生じない。大体が「不必要な特殊法人次々とつくって、自分たちの天下り先をひろげていた」のは何も「大蔵省(現財務省)の資金運用部」に限ったことではなく、かつての郵政省にしても、さらに厚労省や社会保険庁、建設省(現国土交通省)、財務省、その他の諸々の官庁が専売特許としている生業(なりわい)であって、そういった天下り先の確保だけではなく、カネばかりかけた豪勢な赤字福祉施設づくりや談合、高値随意契約等でキックバックを受けたり接待を受けたりにもムダ遣いは発揮されているのである。
勿論民営化された各会社が競争に曝され無駄遣いする機会を失うことになるだろうが、別に「無駄遣いの体質」が改まったわけではなく、ムダ遣いができる環境を失ったに過ぎない。民営化によって順調に利益を上げて経営安定化の軌道に乗り、その安心感から民営化当初の緊張感を失った場合、経営安定による利益の保証がムダ遣いのできる環境へと早変りして、できる範囲でムダ遣いに勤しむといったことが起こらないとも限らない。
経営者が会社の金で先物投機で損害を蒙り、その穴を埋めるべくさらに投機に走ってにっちもさっちもいかなくなったり、愛人が経営する会社に資金をつぎ込んで回収不能になり、会社に大損を与えたりといった背任相当のムダ遣いは民間会社でもよくあることである。民間会社=ムダ遣いなしと考えるのは単細胞に過ぎるだろう。
改めて言うが、小泉は郵政民営化によって役人や官公庁の「無駄遣いの体質の改革」を行ったのではなく、財投の「最大の資金源」となっている「350兆円という巨額の貯金残高を持つ郵便貯金(郵貯)」を元手として役人たちがムダ遣いできる環境を取り上げたに過ぎない。
社会保険庁の保険料の着服や社会保険関係の杜撰な記録管理に象徴的に現れている日本の役所の怠惰で非効率的・非生産的な勤務態度の横行・蔓延は偏に管理・監督の立場にいながらそれを許している組織の長の経営能力の問題であり、そのような無能な長をその地位に据える無能な人事を行い、無能な経営を放置してよしとしてきた各官庁を管理・監督する立場にある所管大臣の経営能力及び人事管理能力の問題であり、それぞれの所管大臣の人事を司り、その職務に最終的に責任を持つ歴代内閣総理大臣の人事管理能力を含めた政治経営能力の問題であろう。
桝添の言葉を借りて説明するなら、財源を「勝手に使える」ようにしてきた制度、「五年に満たない投融資は国会の議決を経る必要がない」としていた制度、「主な資金源となっている」「厚生年金、国民年金、郵便貯金、簡易保険、公的年金積立金など」を「大蔵省(現財務省)の資金運用部が勝手に運用」できる制度、「不必要な特殊法人を次々とつくって、自分たちの天下り先をひろげ」ることができる制度それぞれを改めることもせずに野放しに放置してきた政治の無能力・無責任を最終的には問題にしなければならないにも関わらず、それを問題とせずに、単に「350兆円という巨額の」「郵便貯金(郵貯)」を「第二の予算と言われる財政投融資(財投)」の資金源として使える環境に限って郵政民営化なる方法で取り上げたに過ぎない。桝添が言うように「無駄遣いの体質」そのものの「改革」では決してなく、桝添はウソをついているというわけである。
最終的には政治の側の無能な経営能力・無能な人事管理能力が誘因となって、カネの扱いに好き勝手を許してきた。あるいは政治家の側も自らの利益にすべく、官僚側と癒着して共同で好き勝手にムダ遣いしてきた部分もあるだろう。それで「郵便貯金(郵貯)」に限って好き勝手できない環境とすべく組織を民営化した。いわば政治の無能な経営能力・無能な人事管理能力を棚上げした郵政民営化ということで、それ以上を出ていない。
いわば「無駄遣いの体質の改革」にまではとてもとても届いていない。
尤も民営化による経営自体の結果がよければ、役人共の「ムダ遣いの体質」とは無関係に民営化そのものに関しては結果オーライとなるが、それでもすべてよしと言うことはない。必ずプラスマイナスが生じる。国鉄民営化にしても地方の、特に過疎地の赤字経営を原因とした路線廃止、それに代わるバス運行への変更、それも赤字で廃止といった事例が多く発生し、そういったことも都市と地方の格差をつくり出している情景の一つとなっている。どこに行くにも交通の便がよく、その恩恵を受けて移動に不便を感じない都市住民と、車の運転ができないために病院に行くにも一日がかりとなる地方の老人、住民といった同じく日本国籍でありながら格差を受けている図である。
小泉構造改革が改革の一方で各種格差をつくり出した。小泉純一郎はそのことに対して「格差はどの時代にもどの社会にも存在する」と強弁して、自らがつくり出した格差を問題視しない態度に終始した。そして現在、各種格差は日本の社会を蝕む病魔にまで進行している。
また役人たちの「無駄遣いの体質」は中央の政治家や中央の役人にとどまらず、地方の政治家・役人も専売特許としている「体質」でもあり、政務調査費の私的流用、視察と称した観光旅行、あるいは東京都知事石原慎太郎がしたように出張を豪華旅行に変えたり、公費を使って楽しい思い・おいしい思いをする、その卑しさは日本全国とどまるところを知らない。
桝添が言うように「小泉改革が目指したのは、無駄遣いの体質の改革」で、「この役人の無駄遣いを取り上げたのが小泉総理の郵政民営化だった」といった具合の、郵政民営化という単一の薬ですべての病気(=すべてのムダ遣い)を治療するような万能な「改革」であったわけでは決してない。そのことは現実が証明している。調子のいいことを言うのは桝添要一の専売特許ではあるが。桝添要一は先ず自らのそれを「改革」すべきであろう。