柳沢厚労相発言/何を以て前例とすべきか
31日((07年1月)の『朝日』朝刊に「女性は子供を産む機械」発言した柳沢厚労相に対する民主党以下の野党の辞任要求に対しとて、「安倍首相は30日夜、首相官邸で記者団に『柳沢大臣も反省している。その上に立って職責を果たしていくことによって国民の皆様の信頼をまた得るべく努力してもらいたい』と述べ、改めて辞任を求める考えを否定した」(『野党3党 厚労相の辞任を要求 「補正予算案審議拒否も」』)と出ていた。
政治家が社会的立場上備えていなければならない良識を裏切って愚かしい発言を繰返す。あるいは社会的立場上備えていなければならない自らに課せられたルール(=規範)を裏切って犯罪にも等しい、ときには犯罪そのものとなる反社会的行為を繰返し犯す。
こういったことがとどまるところを知らずに連続して発生する。いつになったら止むのか。このことは問題を起こした政治家が閣僚であれば、任命責任者たる首相自身の人事管理の問題でもあろう。
政治家たちのこういった情けない恥ずべき醜態を見納めとする第一条件は誰であれ、二度と繰返させない状況をつくり出す他に方法はないはずである。安倍首相が言っているような「職責を果たしていく」ことで責任の肩代わりとするといった不始末・不心得、あるいは無責任の従来的な抹消方法を主たる前例としていたのでは、これまでも見てきたように原因療法とならず、その場凌ぎの単なる対症療法で終わって再び繰返される失望を政治家に見ることとなっている。いわば「職責を果たしていく」方法は確実に跡を断つことの有効な方法とはなっていない。にも関わらず、「職責を果たしていく」で幕を降ろそうとするのは美しくない国の美しくない首相のやるゴマカシではないか。
政治家たるもの国民に対して大きな社会的責任を負っているである。その責任にふさわしい態度を示すべきを国民の信頼・期待を裏切る振舞いを犯して示し得なかった場合は、負っている責任の重大さを自覚させるためにも、その重大さに比例した直接的で断固とした厳しい懲戒で臨むことを主たる前例とし、そのような前例によって跡を断つ方法とすべきではないだろうか。
「職責を果たしていく」責任の取り方が政治家の不始末・醜態の跡を断つ有効な方法となり得ないのは、不始末・醜態そのこと自体に関しては責任回避できる、罰則とは言えない、無罪放免ともなる代用処置ともなっているからだろう。
言ってみれば、「職責を果たしていく」は厳しい罰則を免れる役目を否応もなしに果たしてもいて、そのことは同時に任命者の責任を免れさせることにもなり、そのような回避プロセスが「職責を果たしていく」ことの前例となっていて、いつまでも自己の社会的責任に対する厳しい自覚を直接的に持てず、同じ繰返しが起こる理由となっているのではないだろうか。
とすると、既に指摘したように同じことの繰返しを断つには「職責を果たしていく」無罪放免ともなる代用処置ではなく、無罪放免とはならない不始末・醜態そものもに直接与える罰則で臨む責任方法を以て前例とすべきだろう。