教育再生/「社会総かかりで子どもの教育にあたる」

2007-01-21 07:22:44 | Weblog

 「地域リーダーの(教育コーディネーター)の育成

 朝日新聞(07.1.18.夕刊)の「再生会議第1次最終案(要旨)」の【7】は、
 「社会総がかりで子どもの教育に当たる。
 地域リーダー(地域コーディネーター)の育成」と美しいばかりの理想を掲げている。

 何日前だったか、テレビの夕方の地方ニュースで次のようなシーンに出くわした。10人近くの幼稚園児が、どんな活動をしているか視聴者に示すためにヤラセたのだろう、場面手前にそれだけ差し出してあるマイクに向かって、お互いの顔を引っ付けるように突き出し一斉に「お酒を飲んで運転しないでね」と元気のよい大きな声を出した。

 酒を飲んで運転ばかりしている父親に子どもが心から心配して「お酒を飲んで運転しないでね」と訴えるといった声の調子は全然なく、機械的で一本調子な発声となっていたのはその通りに言うことだけを目的とし、そのことだけに意識を集中していたからだろう。

 アナウンサーの解説によると、幼稚園児が10人ぐらいずつのグループとなって3組か4組かに分かれて、先生共々だろう、交通警察官に連れられて銀行や郵便局を訪れ、「お酒を飲んで運転しないでね」と交通安全を訴え、青色と黄色と赤色の三色の餅を手渡して歩いているのだそうだ。

 テレビに映し出されたグループは中年男性の制服警察官と若い女性の同じ制服警察官が連れ立っていた。女児の幼稚園児が確か街の郵便局の前だったと思うが、中年男性の通行人に「お酒を飲んで運転しないでね」と元気はよいが一本調子なだけの声で言い、続けて同じ声の調子で「信号機のお餅です」と餅を手渡していた。

 上記シーンと次のシーンを見ただけで、まったく同じ言葉を同じ調子で言ってまわり、餅を手渡す同じ繰返しを終了の合図が出されるまで続けたのだろう。内部のコンピューターに入力された限られた言葉を人間らしい抑揚もなく機械の命ずるままに繰返すロボットさながらの子どもたちだった。

 「信号機のお餅」をアナウンサーは手作りだと言っていたが、自分たちが発想して自分たちだけでつくった「手作り」ではなく、警察からの指示があったか、幼稚園の先生の指示があったか、どちらであっても上からの指示で手伝ってもらいながら、その指示に従って作ったごく限定的な「手作り」なのは「お酒を飲んで運転しないでね。信号機のお餅です」だけの機会的な繰返しそのこと自体が証明している。

 いわば自分から発した言葉ではなく、指示を受け、その指示に従って指示通りに発している言葉に対応した上からの指示を受けた「手作り」の形式を取っているに過ぎないだろう。当然、呼びかけの言葉も餅の手渡しも指示通りに手順を踏んだ儀式と化す。そして儀式をそつなくこなした園児が指示通りにできたと褒められる。「よくできたわね」と。

 この上と下の関係を具体的に述べるとすると、上は下を上の指示通りに如何に従属させるか、下は上の指示に指示通りに如何に従属するかが人間関係に於ける最大の価値観となっていることを示している。この構図は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性そのものと対応した価値観なのは言うまでもない。

 保育・幼稚園の年齢になって初めてこのような権威主義的価値観を身につけるわけではない。一定の年齢に達してから突然変異的に現れるわけではないからだ。生まれたときから血として受け継ぎ、複数の様々な人間関係の場面を経て、徐々に補強されていく。

 だが、4歳頃からの保育・幼稚園の年齢で、ロボットさながらに教えられた一字一句に違わずに従属し、違わずに行動する様子は権威主義の血の受け継ぎの根強さを証明して余りある。そしてその根強さは当然上の年齢へと向かってしっかりと根を張っていく。

 「地域リーダーの(教育コーディネーター)の育成」とは言うものの、既にボランティアで子どもたちに野球やサッカーを教える人間が「地域のリーダー」として存在し、活躍している。その裾野が広がって、少年サッカーリーグとか少年野球リーグなどもできている。それをさらに他の分野にも広げて、改正教育基本法が言うところの、「第十三条・学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」――「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」を完成させようとしているのだろう。

 しかし家庭に始まって保育・幼稚園時代から親や保母といった上の指示で動くことに飼い慣らされてきているのである。さらに「地域リーダーの(教育コーディネーター)」なる上の人間をつくって、その指示で動く人間、指示に従属する人間へと飼い慣らす場を用意したなら、現在以上に自分の判断で行動する人間をなおのこと間引きしていくことにならないだろうか。

 「地域リーダーの(教育コーディネーター)の育成」と言っても、地域リーダー(教育コーディネーター)養成者が文科省や教育委員会の養成マニュアル(=指示)を受けて、その指示に従属した教育を地域リーダー(教育コーディネーター)を目指している者に教育し、その教育を受けて地域リーダー(教育コーディネーター)となった者が、自分の受けた育成教育をそのまま受け継ぐ形で地域の子どもたちに伝えていくとしたら、教師が教科書というマニュアルをなぞって教え、生徒がそれをさらになぞって暗記していく、考え・判断させるプロセス・機会を省いた学校教育と同じ手順を踏むだけのことになるだろうからである。

 少年野球や少年サーッカーの選手たちは地域のボランティアの指導の下、教えに単に従属するだけでなく、自分たちで考えたプレーをのびのびとしていると言うだろうが、ではなぜ18歳以上から30歳、35歳までいる人間相手のプロ野球で〝考える野球〟といったテーマ・課題が取り上げられることになるだろうか。考えるという思考作用を特定して要求するのは考えてプレーするのとは逆の、指示を受けて、その指示に従属した(=指示を指示通りになぞった)プレー状況にあるからだろう。

 少年サーカーに於いても、同じことが言える。06年6月26日に当ブログ『ニッポン情報解読』に載せた「教育論からの日本サッカー強化の処方箋」の記事から抜粋・引用して、再度説明してみる。

 ――(06年6月)「23日夜のNHKテレビでは、98年の日本チーム監督の岡田武史氏がアナウンサーに日本サッカーの今後の課題は何かを問われて、『コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ』と言っていた。」

 この言葉はまさしく日本代表チームがコーチの指示を受けて、その指示に従属するだけの(=指示を指示通りになぞっただけの)、自分自身の判断で動くのではないプレーをしていることの何よりの証明となる警告であろう。「何をするか分からない」は、選手個人の瞬間的な判断から生まれるプレーであって、それがないことの要求なのは断るまでもない。

 このように独自の判断がない、コーチの指示を再現するだけの従属性は日本チームに入ってから発揮する特性ではなく、少年サッカー時代から、あるいは中学や高校のサーカー時代からの特性であって、プロになってからも受け継いでいる指示と従属の関係性ということだろう。

 同じブログ記事に06年6月24日の『朝日』新聞からの引用として、中小路徹氏なる人物の次のような言葉を載せている。「戦術の大枠だけを示し、あとは選手個人に自分の能力を最大限に引き出すことを求めたジーコ監督」は「指示されるのではなく選手自らが状況判断を下す自主性を求めた」。

 これも「選手自らが状況判断を下す自主性」を持たず、「指示される」ままに動く従属性(指示のなぞり)をプレーの基本としているからこそ、逆の状況への要求として出たことであろう。

 次のように私は解説している。
 ――「何度でも言うことだが、暗記教育にしてもその一つ現れに過ぎない、上からの指示に従い、それをなぞる方法で自分の行動・思考を決定していく習性(権威主義)を日本人は一般性としている。判断・自主性に関して言うとするなら、如何に従い、如何になぞるかに関する判断と、判断に応じてその方向に向けた自主性は、その限りに於いては勿論十分に発揮し得る。指示に従って、指示されたとおりになぞっていく上での発展はあるが、指示にない自分の判断がないから、それが必要となる相手がある場合は相手の動きを追いかけるのが精一杯の、なぞることに関する自主性は何ら役に立たないといった事態に陥る。その忠告として、岡田武史氏は『コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ』と選手個人個人が自らの判断を持ち、それに従った自己独自の動きを求めたということだろう」

 5歳や6歳の頃からボランティアの指導者が地域地域でサッカーを教えている。あるいは野球を教えている。自分では指導者の指示に単に従属するだけの選手を育てていると露ほどにも思わないだろうが、指導者にしても上が下を従わせ、下が上に従う権威主義的日本人性を血としているのである。幼稚園の先生や交通警察官が幼稚園児に「お酒を飲んで運転しないでね」と言わせ、「信号機のお餅です」と手渡させる、それを受けて幼稚園児が彼らの指示通りになぞり、「お酒を飲んで運転しないでね」と言い、「信号機のお餅です」と手渡す指示と従属の関係を同じようにサッカー少年や野球少年にも実際は植え付けているのである。ああしろ、こうしろと指示し、指示と同じようにプレーする従属を求めているのである。

 だからこそ、説明がくどくなるが、岡田武史氏の「コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ」の要求が生じるのであり、中小路徹氏の言うように、ジーコ監督は「指示されるのではなく選手自らが状況判断を下す自主性を求めた」という課題提示が必要となったのである。

 「地域リーダーの(教育コーディネーター)の育成」が指示と従属の関係をつくり出す同じ運命を辿る可能性が非常に大きいということなら、そういったことはせず、子どもたちが上からのどのような指示の関与も受けない、安全パトロール以外の大人入場禁止の子どもたちだけで自由に遊んだり、プレーできるグランドや体育館だけを造ることが求められているのではないだろうか。サッカーで言えば、グラウンドや体育館にブラジルのストリートサッカーを実現させるのである。

 このような取り組みが自分で判断する自主性と主体性を子どもたちに育む最良の道になることは間違いない。

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