安倍首相が言うが如く「基本法とは別問題」ではない

2006-11-12 07:52:45 | Weblog

 タウンミーティングでの「やらせ質問」問題で、安倍首相は「教育基本法の問題と、このタウンミーティングの問題は別の問題だ。教育改革を進めていく上においても、速やかにこの教育基本法の成立を図りたいと思う」(06.11.11「朝日」朝刊『首相「教育基本法とは別問題」』)と述べたという。
 
 同じ記事で二階俊博国会対策委員長が「教育基本法を60年ぶりに改正しようとしている。(それに比べ)タウンミーティングでやらせがあったなんて、やる方もやる方だが、誠につまらん」と言及、「いつまでも慎重審議に引きずられていては政治の生産性が上がらない」(同記事)と国会審議と「やらせ」とはやはり別問題だと主張したという。

 そもそもタウンミーティングは「『積極的な国民との対話を通じて新しい社会、新しい未来を創造していく』(小泉首相の所信表明演説)」(06.11.10「朝日」朝刊『時時刻刻 「やらせ」ウラに文科省』)という美しい理念・目標を掲げて開始されたのだという。

 理念・目標を具体的に目に見える形で示すべく、「小泉内閣の閣僚と国民の直接対話」と「あなたの意見が日本の未来を創ります」とのスローガンを「演壇の両脇のスクリーンに映し出し」(同記事)て、その趣旨の会場であることを知らしめていたというから、国民意見との「直接対話」とそれを反映させた「未来創造」への確立を目指すという民主主義の発展・成熟をも意図していたのだろう。

 ところが、広く国民に向けて宣言していいたことと実際に行っていたことが180度違っていた。それも民主主義に反する手を使った180度の違いである。民主主義の発展・成熟の方向へではなく、退行、あるいは現状維持を成果としたに過ぎなかった。

 いわば掲げた理念を実現させるだけの力・能力がなかったから、インチキを行って見せかけの「直接対話」とそのような見せかけからは到底到達不可能な「未来創造」なる成熟した民主主義を演出したということだろう。「朝日」の記事はタウンミーティングの「過去はヤジで荒れたり、だれも手を挙げず、見かねた国会議員が発言したりする」例があったと書いているが、と言うことは民主主義を行う力・能力の欠如は国民の側の問題となる。但し、国会審議での議員同士のヤジの横行を考えると、単に同じことをしていることになり、国民は国会議員と同じ穴のムジに位置しているだけのことで、国民の側にのみ責任を負わせることはできない、政治家、国民とも同罪となる。

 権威主義を行動様式としてきて、上(=国)からの指示・命令で下(=国民)を動かしてきた、あるいは下(=国民)が上(=国)からの指示・命令に従う意思伝達の構造が国民の議論能力の成熟を阻み、怒鳴りあったりヤジったりのシーンを生み出している。

 例えそうであっても、タウンミーティングで国民の意見を聞いて、その意見が法案に反映されるという事例が頻繁に示されるようであったなら、事情は違ってくるに違いない。先ず最初に首相の政策があって、それに従って関係する閣僚と政権党、さらに所管の官僚、あるいは諮問委員会の民間議員が案を出し合って細かい部分を決定していくプロセスを踏む法案作成となっていて、最初から違う意見の入り込む余地はない構造となっているから、ヤジや誰も手を挙げないという事態が生じるのではないだろうか。

 沖縄の基地問題でも、地元の政策が国の政策と異なっていても、地元が満足のいく形で国の政策に入り込む余地を見つけ出せないでいる。国の政策とは異なる地元の意見や国民の意見を取り入れていく、そこまでいかなくても、双方の意見に折り合いをつけて妥協点を見い出していく政策決定の構造になっていたら、国民の側も意を強くして活発に意見を述べるようになるだろう。いわば下(=国民)が上(=国)からの指示・命令に従う意思伝達の行動様式からの脱却である。しかし、現実はそうはなっていない。殆どの場合、先に国の決定がありきであって、国民が従わらされる関係にある。

 官僚側は正常な状態で議論を活性化させるために質問者と質問内容を予め指定したと言っているが、そのことが民主主義を裏切り、国民を騙す〝言論操作〟に当たると気づかない幼稚な民主主義意識しかなかった。時間をかけて国民の民主主義意識を育て、真正な形でスローガン通りの「直接対話」と「未来創造」の確立を図るだけの根気強い意志を示すことができなかった。

 このようにタウンミーティングの〝ヤラセ質問〟は民主主義に関わる様々な問題を含んでいる。それを安倍首相も二階国会対策委員長もたいした問題でないように受け止めている。ヤラセをヤラセとしか表面的に把握できない単純解釈からきているのだろう。
 
 政治の質の問題、民主主義の質の問題であって、〝質〟が問われている。教育基本法改正案の文言がいくら美しく、また教育を通して〝美しい国〟を目指す理念をどのくらい盛り込んでいようと、タウンミーティングで掲げ、目標とした「積極的な国民との対話を通じて新しい社会、新しい未来を創造していく」、あるいは「閣僚と国民の直接対話」、「あなたの意見が日本の未来を創ります」といったスローガンと会場での実際の姿とのかけ離れた民主主義の実態とのお粗末な落差・懸隔が教育基本法改正案に盛り込んだ理念と教育現場で展開される教育の実態にそっくりのそまま移し変えられて、両者の間にどうしようもない落差・懸隔をつくり出さない保証はない。

 その厳然たる証拠が現行基本法の理念とそれが些かも生かされていない現在の日本の荒廃した、あるいは学歴獲得や就職いった実利だけを目的とした偏った教育の姿との落差・懸隔であろう。

 だからこそ、改正するのだと言うだろうが、教育基本法改正に関わる国民の意見を問うタウンミーティングでの程度の低い愚かしいばかりの誤魔化しの民主主義を教育行政を預かる張本人たる文科省と政策の中心を担う内閣府が行ったのである。同じことの繰返しに終わる可能性も否定できないわけである。安倍首相が言うように決して「基本法とは別問題」ではない。

 日本の政治の質が低劣で、民主主義が発展途上であったなら、教育憲法とも言われている教育基本法だからと美しい理念を盛り込もうといくら気張ったとしても、内容空疎を内に隠した単なるもっともらしげな美しい言葉の羅列を正体とするだけであろう。現行教育基本法の理念が現実の教育に生かすことができず、単なる言葉の羅列に終わっている現実は日本の政治の質の低さがかつての文部省、あるいは現在の文科省の教育行政にも反映した状況としてあるものであろう。他に説明のつく原因があるのだろうか。

 政治の質の問題ではない、日本の教育の矛盾点は教員の質の問題だと言う意見があるが、では官僚・役人の類の質の低さ、好き勝手な振舞いはどう説明がつくのだろうか。質の悪さ・低さは教員だけの問題ではない。管理監督すべき立場にある政治家・国会議員の不行き届き、管理能力の問題でもあろう。ということは教員も官僚・役人の類も、政治家も質の悪さ・低さの点で同等の関係にあり、結果として日本の政治の質の問題となっていく。

 二階俊博なる自民党議員は国会対策委員長だか何だか知らないが、「教育基本法を60年ぶりに改正しようとしている」などと「60年ぶり」がさもたいしたことのように言っているが、「60年ぶり」だろうが、100年ぶりだろうが、法律はいくらでも制定できるが、その実効性は改正年数が決定要件ではないぐらい理解する頭を持っていないのだろうか。

 このような政治家の程度の低さも日本の政治の質の低さの反映として現れている政治家像なのだろう。テレビ局がお笑い芸人を使ってやるのではない、民主主義の質が問われる「ヤラセ」は決して「つまらん」問題ではない。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする