教育基本法案参議院特別委質疑
公明党・松あきら女史「人間は5、6歳頃までに全人格が決定する」
昨日(06.11.22)教育基本法参議院特別委質疑で、質問に立った公明党の松あきら女史が心理学者だか精神科医だかの話として、「人間は5,6歳頃までに全人格が決定する。性質は親から受け継ぎ、性格は後からつくられる。だから、子のしつけに対する親の責任が如何に重大か」といったことを論じていた。
言っていることは、親から受け継いだ「性質」を土台として、親のしつけがその後の「性格」を決定し、両者が相合わさって5、6歳頃までに「全人格」としての体裁が整うということだろう。いわば子供の人格形成のすべての決定権を親が握っていると言うことができる。
この論理が正しいとしても、このことを根拠として衆院を通過させ参議院に回した自民党の教育基本法を「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって――」云々の「第10条」に絶対的価値を付与し、参院での賛成多数通過にも正当性を担わせようとする意図も発言にはあったはずでる。
だが、この手の賛成姿勢は厳密に言うと政府主催のタウンミーティングで青森の弘前等でやらせた賛成をお膳立てするためのサクラ質問と似ていないこともない。かなり近親性のある質問風景と言えるのではないだろうか。
「人間は5、6歳頃までに全人格が決定する」――
それ以降の親以外の他者との関係は一切子供の人格形成に影響しない。5、6歳以降にどのような環境に育とうとも、環境の影響を受けず、どのような状況に立たされようとも、状況に左右されることはなく、決定している「人格」に従って行動は現れる。いわば人間の行動要因は「人格」であって、状況・環境は決定要因から排除される。
とすると、自らの人格を裏切るという事態は一切生じないとしなければならない。どのような犯罪を犯したとしても、それは「5、6歳頃までに」親にしつけられた「人格」に従った行動である。また、5、6歳以降に何らかの宗教的知識・感情に触れる機会があったとしても、それが親が持っていなかった種類の宗教性を備えたものなら、例え創価学会の教えであっても、性質・性格・全人格が決定しているために誰もが受け付けることは不可能となる。すべては親次第なのだから。親が創価学会嫌いなら、子も創価学会嫌いになる。
また、「人間は5、6歳頃までに全人格が決定する」とするなら、学校教育が家庭教育を引き継いで重要な目標の一つとする〝人格形成〟、あるいは〝人間形成〟といった徳育教育は意味をなさなくなり、必要なくなる。人間のすべての行為は「親から受け継いだ性質」を基礎に「性格」が親によって形作られ、「5、6歳頃までに」決定する「全人格」の指示を受けてそれが善の行為であっても悪の行為であっても決定していくからだ。
このことは学校教師にとって大いなる朗報だろう。元々機能していない生徒に対する人格形成教育、人間形成教育に時間をまったく割かなくてもいいことになり、従来以上に安心して点数教育に専念できるからだ。
予期しない望まぬ多額の借金を抱えてしまい、何日までに返さないと身の破滅だという状況に立たされたとき、つい他人のカネに手をつけてしまう。あるいは会社のカネを誤魔化す。女を騙して、返すつもりもなく借金する、あるいはカネを貢がせる。最悪、金融強盗を決行する。そういったマイナス行為に走る要因にしても、既に5、6歳の頃までに決まっていた。借金を抱えて返させない状況に陥ったなら、必ずマイナス行為に走るDNAを親から「5、6歳頃までに」植えつけられていたとしなければ、説明がつかなくなる。
談合事件で逮捕された東大出身、もと参議院議員の前福島県知事・佐藤栄佐久にしても、子供・少年の頃は成績優秀で真面目も真面目であったとしても、その犯罪は「5、6歳の頃までに」決定していた「全人格」の関与内事項であって、本人の意志では避けられない出来事だったのだろう。
「性格」なる語を有斐閣発行の『社会心理学 小事典』で見てみた。「性格」の項目はなく、「パーソナリティ」で出ている。
【パーソナリティ】「人間行動に見られる多様な個人差や個性を記述し説明するための概念。人格、または性格と訳されるが、人格というときは「行動の内的規定要因として、個人に一貫した力動的なまとまりと独自性(独自の適応と生き方をつくり出す)」をさすが、性格というときは「個人の情意面の特徴の個人差」(気質や特性など)を示す。
パーソナリティは、遺伝的資質、生物身体的要因と、生育環境、学習経験などの社会的文化的要因との相互作用を通じて形成されるが、その条件次第では、様々な人格障害や異常人格が発症することがある。(中略)近来、W・ミシェルらによって、人間行動を状況・環境条件によってのみ説明する考え方が台頭している」
松あきら女史とは違う説明がなされている。「遺伝的資質、生物身体的要因」といった先天性のみによって決定するのではなく、「生育環境、学習経験などの社会的文化的要因」といった「5、6歳」以降も含めた後天的要因との「相互作用」で決定すると言っている。
『社会心理学 小事典』には「性質」の項目はないから、『大辞林』(三省堂)で見てみると、【性質】「その人に生まれつき備わっている気質。人となり。天性」と先天的決定事項であると説明されている。この点に関しては松あきら女史の「性質は親から受け継」ぐと言っていることは間違っていないと言える。
だが、人間はありとあらゆる性質・性格を持って生まれる。状況・環境に関係なく、一つの性質が常に強く現れるということもあるが、自分が置かれた状況・環境に応じて強く現れたり、弱く現れたりするのが一般的であろう。
例えば常日頃温和な人間が、珍しく怒りに駆られて行動するといったことは多くの人間に見られる光景であるし、常日頃から気性の変化が激しく、その行動に予測がつかないといった人間もいて、常に一つの性質(あるいは性格)に支配されているわけではないし、正確に一つの人格にのみ従って行動するわけではない。どうしようもなく二重人格的なところ、三重人格的な傾向を併せ持つのが人間である。
私自身は「近来、W・ミシェルらによって、人間行動を状況・環境条件によってのみ説明する考え方が台頭している」と『社会心理学 小事典』が言っているように、人間は状況・環境の生きものだと思っている。人間は利害の生きものであるという言い方をするが、利害は状況・環境を受けて決定する関数関係にあるから、〝利害の生きもの〟と〝状況・環境の生きもの〟は等式関係とすることができる。人間は損得で動き、その損得は自身の置かれた状況・環境に応じるとも言い換えることができる。
金銭的・経済的、あるいは保身上、地位上、その他の状況・環境を受けた損得の観点から行動を決定していく。と言うことは、状況・環境次第ではその影響の方が強くて、普段の人格が役に立たないケースもあるということだろう。
安倍晋三は首相職に就かなければ、自らの歴史認識・国家主義に従って行動する自らの人格を守れただろうに、首相になったばかりに自らの人格を裏切って歴史認識・国家主義をアイマイとする行動を取らざるを得なくしている。これは安倍晋三の行動決定要因が人格ではなく、状況・環境となっていることの証明であり、人格をあっさりと投げ捨てて状況・環境に簡単に変身仮面ライダーを演じるカメレオン、もしくは風見鶏を第二の姿としていることの証明でもあろう。
松あきら女史だけだろうか。「人間は5、6歳頃までに全人格が決定する。性質は親から受け継ぎ、性格は後からつくられる」からと、親の子供に対するしつけをすべてだと考えているのは。それとも創価学会員が一般的に共々持っている考え方・思想なのだろうか。
一般的に持っていなくても、国会という公の席で口にし、それがテレビ放送を通じて全国に流される。天下の国会議員が言うことである、ああ、そんなものかと考えもなく信じ込んだ人間もいるだろう。これはタウンミーティングのやらせが自分に都合がいいように捏造した意見を他人に語らせえる情報操作であり、それが意図的であったのに対して、意図的ではなく、本人は気づいていないものの、悪質な情報操作という点では同じ線上に把えなければならない行為ではないだろうか。
考え方の違いに入る、それで済ますことのできる認識の問題ではなく、人間の事実に関係してくる事柄である。