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えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

背中を押されたような気がして・・・

2014-04-02 | 日記
 先日、「ブログを読ませていただきました」と、ある方から言われた。

私の頭の中は、

えっ~!!

しばらくUPしてないのが脳裏に浮かんだ。

それって、やっぱり「はずかしい」・・・。

FBを始めてから、どうも長文が億劫になってしまっていたのだ。

実は、前にも友人から言われていて、期待に応えられていないなぁ、と気になっていたのだ。
だから、また、少し心を入れ替えて書こうと思う。

新年度も始まったことだから

今日から4月

2014-04-01 | 日記
 今日は4月1日だ・・・
そうか、新採用職員のスタートの日だ。

 ふっとそのことに気付いた時、3年前まで勤務していた自分の姿がよみがえってきた。

   遠くなってしまったなぁ・・・。
   

 今はすっかり違う世界で生きている自分。
結構忙しく、出歩いてばかり。
夜更かし(夜の方が頭が冴えて来るのだから、どうしようもない)に慣れ、
朝の起床が遅くなった。
 でも、夫と一緒に過ごす時間が増え、会話も増えた。
今は、互いに「えん罪のない社会を目指す」という同じ目的を持って行動する生活だ。
それぞれの立場でやらなければならない使命感が私たちを支えてくれている。

 3年前・・・
あの東日本大震災のあった3月末日、混乱の最中を私は仕事を辞めた。
前年の12月に申し出ていたとはいえ、そのことは、今でも心苦しいものが私の中にある。

 でも、夫の裁判の最後の判決が迫っていた。
(実際には3月に決まっていた判決日が、地震災害のために5月に延期になった)
その判決日をどう迎えるか、判決の後の日々をどう過ごすかは私にとってとても大切なことだった。

 父もがん末期にあって、残された時間が見え始めていた。
そして、信じられなかったのは、5月に入ってすぐ母の腎臓がんの宣告を受けたことだった。(さらに、術前検査で大腸がんとすい臓がんまで言われたのだった)

 ・・・・・

 いろんなことがあった3年間だった。
夫は悲願「再審無罪」を勝ち取り、背負わされてきた「強盗殺人罪・無期懲役囚」という重荷から43年ぶりに解放されて、「ふつーの人」になり、誰にも「拘束」を受けない人生を歩き出した。
夫は、
「裁判は、必ず勝つから、もう仕事を辞めてもいい。心配かけ続けてきた両親のためにこれからの時間を使っていいよ」と言ってくれたのだった。
父を看取り、母の病院通い、手術、奇跡的な回復も経験し、今は母と過ごす時間も得ることができている。

 人生の節々を思わずにはいられない・・・。
新しい季節がめぐって来て、私も夫もまだまだ新しい出会いを得てこれから進んで行くのだろう。
少しでも、目指す道が近づいてきてくれることを信じて。

何だか、年度の初めに振り返ってしまったなぁ・・・


 


どうして走れるの!?

2014-03-29 | 日記
 昨日の朝、車の始動時に「ぴー」っと鳴った。?っと思ったけど、何時ものように走り出した。
仕事が済んで帰ろうと車の始動スイッチを入れたらまた、「ぴー」っと鳴った。?、?、?でも、また普通に走り出した。
夜、電車で東京から帰ってくる夫を駅まで迎えに出るときも「ぴー」

???走りながら計器を見た!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
ガソリンのマークが点滅している!!

 慌てて残量チェック。残りでどれだけ走れるかを見たら「0㎞」
ハイ~?(((^^;)!?
で、何で走れるの?この車?っと思いながらも、夫の迎えより「ガス欠によるエンスト」だけは避けたいと直ぐにGSへ。そこまでも走れるかとドキドキしながら…。

・・・で、わかったこと。
私の頭では理解できない「EV」走行と言うものなのではないかと…(*^^*)
夫からは、「どこにいる!!来ないから歩き出した!!」と言われ、
私は車にアタるしかなかったo(`^´*)
「今日は○○の日です」って話せるんだったら「ガソリンが少なくなりました」って教えてくれてもいいでしょ!!
じゃなければ、 赤い警告ランプを表示して!!っと。

 あ~(((^^;) 文明の進歩についていくのはツカレル…。

笑いながら夫いわく、「バカだね~♪大丈夫、一度失敗すれば普通の人間はその失敗が生きて、次に同じ失敗はしないから」と(*´ω`*)


 だって…。
音はおとなしい音で一回だけだし、ガソリンスタンドのマークだって小さくて黒い表示なんだもの…。

アメリカ式?

2014-03-10 | 日記
 娘の結婚相手のご両親と会い、顔合わせ。
場所の設定は、若い二人が準備してくれ、水戸に住む私と先方の静岡の中間点ということで、東京駅近くのホテルのレストランに予約されていた。

 席に着く前に、娘に「どんなふうに櫻井さんのこと話してあるの?」ときいた。
「普通に。そしたら、別に問題ないって言ってくれた」の返事。

 入籍はすでに済んでいて、親同士の顔合わせが後になっているそれ自体に、これでいいのかなと私は気になっていた。だから、「はじめまして」の後に、先方から話の切り出しがあるのかと待ったが、なかなかそんな風にならず、結局私から話し始めることに・・・。
お二人とも、何故かとても緊張されていた。
後から、先に私が話し始めたことで、「助かりました」と言われたが、そこまで緊張させた理由はどこにあったのか・・・。
やっぱり、夫のことが関係していたのかな?
私っていう人物を、普通の人には思えなかったのかな・・・。
でも、お二人は見るからに誠実さが表れていらっしゃり、海外生活が長かったことで、ダンディなお父さん、エレガントなお母さんだ。正直私たちとは違う世界で生きてこられた方、という印象が強かった。

 会話が進んでいく中で、幼い息子さん3人を連れてハワイに行ったこと。
子どもさんたちには、現地の小、中、高とアメリカの教育を受けさせ、それから家族の事情で帰国されたたこと。
お二人は、観光に訪れるお客様のツアーコンダクターのお仕事?をされ、日本に戻られてからもその仕事を継続されていること。すでに娘の相手は、15歳でその資格を取っており、友人は日本よりハワイの方が多く、そのハワイ現地のお仕事を、その息子さんと私の娘にいずれ引き継いでいく予定であることを話してくださった。

 実は、入籍を先行したのは、ビザ申請は許可が下りるまで時間がかかるからとの理由だったが、ご両親からその話を聞いて、「そんな大役、うちの娘でいいんですか?」と大きな声で問い直したい気持ちになってしまった。
もちろん認めていただいた上での入籍なので、いまさら聞くことでもないと、私の頭の中はぐるぐる訳も分からず自問自答・・・。

 考えてみたら、彼を初めて家に連れて来た時は、彼の印象の良さだけで
「よかった、よかった」の思いになってしまっていたのだ。
具体的に、向こうに行ってどんな仕事をするのかはビザがおりてからの話だと、早合点していたのだ。
母親として、そんな大事なことも確認しないまま、いったいこの数カ月私は何をやってきたのか、と思う。

 結局は当人たちも、ご両親も「アメリカ方式」なのだ、と思う。
親同士が会う前に入籍を済ませたり、ビザが下りるまでは別居婚だとか、娘の方が上という年齢差を気にしたり、
お式も向こうへ行ってから挙げたいとか私の頭がついていけないのは、日本の古いしきたり(解ってもいないけれど)に縛られているからなのだと思う。

二人の生活が落ち着くまでには、まだまだ時間がかかりそう・・・。

 それにしても、若い二人が将来に向かって歩き出した姿は本当に微笑ましく見える。
良かった、と素直にそう思う。
先方のご両親の考え方にも共鳴でき、刺激も受けた。
夫も含め、私たちの新しい人間関係が生まれたのだ・・・。


 

母としての思い

2013-12-20 | 日記
 先日、全く結婚する気配を見せていなかった娘から、
「お母さんに挨拶したいって言うんで、今度一緒に行くね」と電話があった。

 そして、その日を迎えるまで、割と冷静に、
「そうだよね。そんな日がやっと来たんだなァ」と思っていた。
当然ながら、「どんな人かな?」と思いながら・・・。

 その日、娘の車の助手席から現れた男性は、爽やかな印象の素敵な男性だった。
何だか娘にはもったいないような・・・。
でも、とってもお似合いの二人に見えた。

 家に入ってもらい、お互いに自己紹介。
夫は、娘の実の父親ではないという立場で少し戸惑っているし、私は母親としてちゃんとしなけりゃとかなりの緊張!!
ひととおりの質問もさせてもらい、親としての思いを伝えさせていただいた。

 彼の誠実な人柄、二人の間での話もだいぶ進んでいることもうかがえた。
娘の生育環境、私と夫のことなど先方のご両親の理解をいただけるか不安はあるが、基本的には私たちとしては「二人で決めたことは応援します。娘をよろしくお願いします」と答えた。

 夫は気を利かせて、私たち3人で食事をするよう予定を早めて出かけてくれた。
レストランでは、緊張している彼と私の間に立って娘が仕切ってくれ、何とか会話もできた。
そして、海外生活が長かったという彼の細かい心配りも感じたそんなひとときとなった。

「また今度ゆっくり来ます」という二人を見送りながら、何だかほっとした気分になった。
いずれ海外に行く(予定)という二人に、寂しいという感情より「いい人と巡り合えてよかったな」という思いの方がずっとずっと多く私の中に残った。

 夫からメールが入った。
「いい感じの人でよかったね」と。

若い二人と夫と私と、いい関係が築けたらいいな・・・。


 今回のことは、薄れつつあった「母親」としての感情を新鮮な形でよみがえらせてくれる、そんな一日となった。




夫の思いに応えて・・・

2013-11-19 | 日記
 夫のところにはいろんな方から手紙が届く。
獄中からも届く。
昨日はW刑務所に服役中だという女性の方(30代)からのものを夫から読むように渡された。(ふだんは、ほとんど夫が自分で判断し、自分で返事を書いているのだが)
 
夫は、その手紙と一緒に「えん罪ファイル」NO.20の掲載記事を見せてくれた。そこには、

 やはり「虚構の事件」だったのか?
「人工呼吸器外し患者殺害」事件で
 注目の新鑑定!

と、大きな見出しが書かれていた。

 そして、小見出しには、
「人工呼吸器外し患者殺害」事件で、注目の新展開があった。その第2次再審請求審で、この事件はそもそも「事件」ですらなかったことを示す新証拠が弁護団より提出されたのだ。」

とあり、患者Aさんの「死因」は、「人工呼吸器のチューブを外したことによる急性の心停止」では説明のつかない所見があったことが、新たな鑑定であきらかになったとあった。

事件の概要は以下のように書かれてある。

「2003年5月に入院患者の男性Aさん(72歳)が亡くなった一件をめぐり、看護助手の〇〇〇〇さん(逮捕当時24)が翌04年7月、「看護助手の待遇への不満」からAさんの人工呼吸器のチューブを外し、殺害したことを「自白」して殺人の容疑で逮捕、起訴された。〇〇さんは裁判では自白を撤回、無実を訴えて最高裁まで争ったが、07年5月に上告棄却され、懲役12年の判決が確定。有罪証拠は事実上、〇〇さんの捜査段階の自白だけである上、その自白は変遷が激しく、荒唐無稽な供述や客観的事実と矛盾する供述が散見されたにも関わらず、裁判官たちが〇〇さんを有罪と決めつけた事件である。」


 私は、「看護助手」という職種と
「待遇に不満」などの理由で患者さんを殺害などするか?と思った。
私も病棟経験はないが看護助手だった。たくさんの仲間も知っている。「待遇への不満」はあったとしても、患者さんを殺害するなんて決してない。
まして20代の〇〇さんだ。おそらく、看護師への希望を持って、「好き」で選んだ道ではなかったのか?

 夫はさっそく返事を書いた。そして、
「獄中詩集(〇〇さんの希望)と『ショージとタカオ』を一緒に送ってあげて。手紙もそこに入れて」と言った。

「この本読んだら、私のことにも関心持ってくれるかもしれないね。中に、私が看護助手だったこと書いてあるからね」と私。
「そのことは手紙に書いたよ。」と夫。
続けて
「それに『北陵』(クリニック筋弛緩剤えん罪事件)とも共通するものがあるかもしれないからね」とも。

 夫が、手紙を読ませてくれた理由を知った思いだった。

東京に向かう夫を赤塚駅に送り、その足で赤塚郵便局に行った。
そして、〇〇さんの封筒に書かれてあったW刑務所のあて先と〇〇さんの名前を、意識して書いた・・・。


 まだ〇〇さんのこと、事件のこと、ほんの入口しか知らない私に現段階では何も言えないが、もっとこの事件のことを知りたいと強く思った。
何故なら、患者さんの亡くなるのは、病院では通常ありえること。
それを、死因を徹底して究明することなく、安易に「殺人」と断定して捜査が進んでしまっていることは絶対許されないことと思うからだ。

 守大助さんの動機も、「病院に不満があったから」と裁判で認定されたのだ。
全く同じ理由だ・・・。


 

千葉刑務所へ2

2013-11-06 | 日記
 千葉刑務所は夫が17年半いたところです。
夫もえん罪被害者だったのです。
拘置所にいた期間も含めると逮捕から29年間という、とてつもなく長い期間でした。
二十歳で逮捕された夫は、仮釈放で出てきた時は、49歳になっていました。

 そして、裁判のやり直しが認められ、無罪確定するまでさらに15年を要し、人生の大方を国家による過ちのため、自由を奪われたままだったのです。

 その夫の服役していた千葉刑務所へ、夫とともに訪れたのです。
でも、再審無罪になるというのはこういうことなのか・・・と思いました。
夫が、知っている(服役中世話?になった)刑務官何人かの方に挨拶したら、皆さんが気軽に応じてくださり、
「テレビで見てたよ」という方も・・・。
和やかに談笑する夫たちを見て不思議な気持ちになりました。

 でも、それは、夫が理不尽な拘束を受けながらも、「真実を貫いた生き方」を通してきた証のように思えたのです。

守大助さんも、まじめで誠実さが表れていました。
一日も早く、千葉刑務所から救い出さなければなりません。

千葉刑務所へ1

2013-11-06 | 日記
 初めて仙台北陵クリニック筋弛緩罪冤罪事件被害者の守大助さんに面会して来ました。
夫と守大助さんを支援する会のOさんと一緒です。
大助さんは、現在千葉刑務所に服役しています。

 今となっては、信じられないような真実が明らかになっています。
当時、あれほど大々的にマスコミが報道した「筋弛緩罪殺人事件」はまぼろしだったのです。

 急変した患者さんの原因が判らなかった。

 それは、当時、病名そのものが医師の間でも認知、浸透してなかったことが原因で、今なら、明解に説明がつくもの。
その一人の患者さんの急変がなぜ「殺人事件」として捜査されることになったのか?
筋弛緩罪による薬効とは矛盾する患者さんの状態が克明に記録されていたというのに。
その前後で急変した患者さんみんなが「筋弛緩罪」によるものだと、何を根拠にそう捜査が進んで行ったのか?
主治医の診断、看護記録には何一つ不自然さはなかったというのに・・・。
守大助さんが犯人にされたのはなぜか?
そもそも動機のない殺人事件なんてありえないはずだった。
患者さんの血液や尿から筋弛緩剤が検出されたという大阪科捜研の鑑定書も、あまりに不自然なもの。
その不自然さを裁判官は見落とした。

大助さんは、裁判で無実を訴えた。
でも、裁判官は大助さんに「無期懲役」を言い渡した。

 全く事件性の無かったところで、「殺人事件」の犯人とされてしまい、裁判官にもその真実を見抜く力がなかった。
大助さんは29歳だった・・・。
そして、現在42歳。

こんな恐ろしいことがあっていいはずがない。

でも、これが現実。
千葉刑務所の面会室で、確かに大助さんは私たちの目の前、アクリル板の向こうにいたのです。
どんなことがあっても大助さんは無罪となって釈放されなければなりません。
そして、「国」は大助さんに謝罪しなければなりません。


・・・・・
刑務所では、

 重苦しい面会となってしまうのかと心配でしたが、何度か手紙を出していて、大助さんからも返事をいただいていたせいか、初めてという感じはなく、あっという間に20分という時間が過ぎてしまいました。
 大助さんは、とても元気でした。
夫が「中」のことを知っている人間ということ、また、二回目の面会ということもあり、夫と率直な思いをぶつけ合う姿が印象的でした。
「30代は無駄になってしまいました」「無駄じゃなかったと思える日が必ず来るから、一日々々を精いっぱい生きてみろ」
「僕なりに考えてやっています。だけど、ボクはやってないんですよ」
「焦るな」「両親が元気なうちに帰りたいんです」など、など。

 雰囲気的には明るい会話でしたが、言葉の一つ一つが「当事者の苦しみ」そのものでした。
そして、私たち支援者からの情報をとても心待ちにしている様子をうかがい、もっと密に正確な情報を届けることが大助さんを励ます力になることを知りました。
 

 想像ではなく、生きた人間「守大助さん」に会い、20分間の限られた時間を共有し、別れ際には「またね」「元気でね」と言ってアクリル板を挟んで大助さんの掌にハイタッチ。
表現しようのない感情のまま、面会室を後にしましたが、支援の迅速化、拡大の必要性を一層強く感じながら帰途につきました。

・・・・・・・

名張毒ぶどう酒事件最高裁再審認めず

2013-10-18 | 日記
 またも、一度開いた再審の扉が閉じられてしまった。
再審制度の中で、開始決定が出た後、検察の「控訴」が認められているのがおかしい!
これでは、再審制度は無きに等しい。検察は、再審裁判の中で主張をすべきで、いたずらにメンツを守るだけの抵抗を許さない制度に改正すべきだと思う。

 無実の者が有罪判決を受ける、このことがそもそもあってはならないことなのだが、「人が裁く」ことに絶対はないことを前提に設けられた再審制度なら、もっともっと再審請求人の人権が優先され、守られるべきだと思うのだ。
先ずは再審開始決定が出た時点で、再審請求人は、仮釈放が認められるべきだと考える。
奥西さんは、「無罪判決」も「再審開始決定」も受けている人です。それなのに、拘置所の独居房で死刑執行におびえながら41年。現在87歳。体調思わしくなく、医療刑務所で『再審開始決定』だけを願って命の火を灯し続けているというのに・・・。

 冤罪の責任を、国家(最高裁)がとらないで誰がとると言うのか?
最高裁は名古屋高裁に差し戻さず自ら科学的鑑定を行い、独自の判断をすべきだった。前回も、今回も最高裁裁判官が守ろうとしているのは何だったのか?!と思う。

記憶 ふたたび

2013-10-18 | 日記

<記憶・・・>

2013-07-06 | 日記


< ゆうちょの暗証番号が分からなくなり、普段使うことのないカードだからと放っておいたのだが、最近になって使用頻度が増え、いよいよ暗証番号の照会手続きをすることになった。

 そして届いた私の暗証番号・・・。
全く記憶にない番号だった。
どうしてこんな番号が並んでいるのか、自分ではまったく思い当たらないのだ。
これでは、自分が何度も何度も「これかな?」「ちがう?なら、これ?」とやり直してもヒットするはずはなかった。

あらためて数字を眺めてみる・・・。
自分で決めたはず、と言われても、いまだに手続きをしたその時の情景は思い出せるが、やっぱり、この番号にした理由が分からない。
本当に、この番号、私のものなのかなァ・・・。

記憶って、本当に曖昧なものですね。
でも、私がおかしいのかな・・・。>



 上の日記はまぎれもなく、私が3か月前に書いた日記だ。
それなのに、このことを全く記憶していなくて、今日、郵便局で
「照会後、通知を受け取った記憶が全く思いだせないんです・・・」と、口にしていた・・・。


夜になって、このブログに残していることに気付いた!
そしたら、ちゃんと書いてあったじゃないの?
照会後、通知を受け取っていたんだ・・・。

< 本当に、この番号、私のものなのかなァ・・・>というくらいだから、覚えようともしてなかったのだろう。

夫にふだんから、
「あんたの頭、壊れているわ」と何度か言われているこの頃なのだが、本当に壊れちゃったのかな・・・。
でも、ブログに日記を残しておいてよかった!

これで、思いだせたから・・・。