空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

寅さんの愛

2020-05-13 14:21:51 | 寅さんの愛

白い翼 ナターシャ・グジー /  White Wings by Nataliya Gudziy

 

寅さんの映画を見て、ふとドストエフスキーの作品と星の王子様とドンキホーテを思い出す。これはおそらく、私の心の癖なのだろうと思っていた。
内容的にはまるで違うのだから。それでも、何故か、四つに共通点のようなものがあるような感じがふとすることがある。そういう感じになることはかなり以前からあったのだが、深く考えたことは全くなかった。ブログを書くということで、少し考えてみたいと思った。その共通点から何か見えてくるものがあるかもしれないと思ったからだ。

ドストエフスキーのムイシュキン公爵と寅さんはまるで違う。当たり前である。それに、ドストエフスキーの作品はみな深刻な人生の問題を扱っている。ムイシュキン公爵のセリフ「人は何故このように傷つけあうのだろう」という嘆きの言葉に象徴される。
そこへ行くと、寅さんはそんな深刻な話があるようでも、たいてい寅さんの人格で笑いを誘う。時には観客は大笑いとなる。まるで、落語を聞いている時のように、そういう場面は沢山ある。例えば、「口笛を吹く寅次郎」

妹の旦那の父の墓のある岡山の町で、お墓参りをして帰ろうとすると、坊さんが下の階段から上ってくる。マドンナ役の竹下景子が父の坊さんに「だから、お酒飲みすぎるからよ」と言う。
その時の会話の風景。
お坊さんが風呂敷を落とす。それを拾う寅さん。
あ、どうも とマドンナ
「え わたくし 持ちます」と寅さんは言うのも親切のようで、そのあとの遠慮ぶりと合わないのが何か滑稽で寅さんらしい。
「それじゃ、遠方から」
「はい 東京から」
「あら」
「そりゃ 又 遠くから  ちょっと寄っていきなさい」と坊さんが言う。
「でも、急ぎますから」
「でも、お茶の一杯ぐらい」とマドンナ。
「ご迷惑ですから」
「お茶の一杯くらい」
「そうですか。それじゃ本当に一杯だけいただいて、すぐ失礼しますから」
この間の寅さんの微妙な表情の変化が観客の好意ある微笑を誘う。

法事があったが、坊さんは二日酔いで行けない状態。たまたま一晩泊まったあと、出かけようとして玄関でマドンナと話している寅さん。法事の出迎えの車がそこへ来る。そこで、寅さんが臨時の応援ということで、坊さんの代わりに行く。
九十二才て亡くなった人の法事を無事にこなした寅さんの評判はよく、結局、お寺の手伝いをするようになる。そこへ柴又にいる筈の寅さんの妹さくらの旦那とその家族がやはり、法事でその岡山の寺にやって来る。寅さんが坊さんの真似事をしているのでびっくりする。
葬式仏教と悪口を言われるようになってから、久しい。寅さんが坊さんの真似事をして、本物よりも評判が良いとは。だが、ここではそんなに深刻に考える必要もない。ただ、笑えば良い。そういう風にこの場面はつくられている映画なのだと思う。さくらと旦那の博の驚き、それを見ているたけで楽しい。
その内に、ある日、風呂に坊さんが入っていて、マドンナが風呂のかまどに、たきぎを加え、父親の坊さんが風呂の中から娘に話しかけている。そこに寅さんがふとやってくる。
「そろそろ、嫁に行ったらどうだ。お前、この間、言っていたじゃないか。もうインテリはこりごり。今度、結婚するなら、寅さんみたいな人がいいって」
これをマドンナの横にいた寅さんも聞いてしまう。
さあ、このマドンナの謎の言葉をどう受け取ったら良いのか。寅さんは置き手紙を書いて、坊さんになれるかどうか相談に葛飾柴又の「とらや」に帰っていく。そこで、おいちゃん、おばちゃんそれにタコ社長、さくらと博さん達に、坊さんになるにはどうしたら良いかと話をする。
皆、坊さんになるには大変な修業がいるとかなんとか、寅さんにはとても無理と言う。

これは私の独り言になるかもしれないが、寅さんなら、立派な坊さんになれると思う。
ここで、マドンナと一緒になって、多くの人の悩み事を聞く寅さん夫婦。そうすると映画の続きがなくなる。それに、寅さんのような人は坊さんになれないと言う「とらや」の皆さんはいい人達だけれど、やはり世間のつまらない約束事にしばられている。

仏教の神髄は知識ではない。寅さんは仏教の神髄を身体で表現しているように思われる。だから、坊さんになれる。知識など、時間をかけて勉強すればなんとかなるものだ。
ところが世間は駄目だと言う。それが世間というものだろう。
寅さんはいつもそうした世間とは違う道を歩いている。それが魅力なのだろう。江戸時代の良寛のようなものだ。良寛は寺は持っていないが、本物の坊さんで、抜群の才能と仏教の神髄を把握して、なおかつその知識も当時一流であった。しかし、外見的には寺を持たない乞食坊主と見られることもあった。日本にはこうした偉人がいるから、寅さんのような人が受け入れられのかもしれない。現代は、金銭至上主義の世界になったと嘆く多くの人がいる一方で、このことは日本には別の価値観が出てくる潜在能力があることをうかがわせて、頼もしい。
そこへ行くと、ムイシュキン公爵は「落ちぶれたりとは言えども、公爵」と親戚の御婆ちゃんに言われるように「公爵」である。貧相な恰好をして、スイスからモスクワに帰り、親戚の将軍の家を訪ねたが、その純粋な性格とこの「公爵」というブランドがセットになって、周囲の金銭をめぐって起きるグロテスクな世間に大きな波紋を広げていく。
星の王子様は美しい童話で、世界中の人から愛される作品であるし、ドストエフスキーのような難しく複雑な人生模様は勿論、ない。
だけれど、その「精神の純粋性」と「王子様」のセットという所は不思議にムイシュキン公爵と一致する。
ドンキホーテはどうであろう。彼は騎士道物語を読み過ぎて、少し頭がおかしくなって、正義のため、悪をこらしめるために、遍歴の旅に出て、色々な事件を引き起こし、多くの人の爆笑を誘う。ハイネというドイツの大詩人はドンキホーテを読んで、涙を流したという。
見方によっては、世間のグロテスクに立ち向かう騎士道の高貴な精神になるためには、狂気にならないと突き進むことはできないとも取れる。
さて、ここで四つの物語に共通に出てくる世間というのは夏目漱石も草枕に言っている。
「とかくに人の世は住みにくい」

仏教的に言えば、この世界は娑婆世界である。この娑婆世界には色んな約束ごとがある。
約束ごとには大切なものとそうでないものがある。例えば人のものを盗んではいけないというのは昔からあった大事な約束ごとで、今では刑法の条文に書いてある。
しかし、ムイシュキン公爵の時代のロシアでは、政略結婚や金銭がらみの結婚みたいなものが貴族や金持ちの世界では常識だった。ムイシュキンはそれに反発する。日本の江戸時代には身分制度というものがあった。そういうのはくだらない約束ごとと今では思われている。寅さんの時代、つまり現代には、そうしたものはないのか。いつの時代でも、何かしら人をしばるものは沢山ある。その点、寅さんはそこから自由である。そこに寅さんの魅力があるのかもしれない。観客の多くは世間にしばられている。寅さんを見ることにより、その自由な純粋性に思わず笑う。ここで笑う所に、日本の文化の伝統の深さを感じる。
ここに日本人の精神の深さを感じる。今の日本は、確かに価値観の中に金銭至上主義が大きな幅をきかせている。しかし、底に流れている美しい流れが日本にはある。それが寅さんの精神ではないか。又、又、禅から見た人間観になってしまったか。
人間無一物。そこにこそ、仏性というダイヤモンドがひそんでいる。新しい価値観がこの伝統の中から、つくられるべきであると思うがいかがであろう。

四つの物語の主人公に共通するかと思われる「純粋性」の日本の伝統的な偉人 良寛の漢詩と和歌を調べ、寅さんに符号する作品を探してみた。中々難しい。
一つ、ご披露しよう。これがぴったりとは思わないが、たまたま見つかった純粋性の白眉。
 ひさかたののどけき空に酔ひ伏せば
    夢も妙(たえ)なり花の木の下

良寛の次のような漢詩も思い出す。

生涯 身を立つるにものうく
とうとう天真に任す
のう中三升の米
炉辺一束の薪
誰か問はん迷う悟の跡
何ぞ知らん名利の塵
夜雨草庵の裏
双脚等閑に伸ばす 【Soukyaku Toukan Ni Nobasu 】

【生計をたて、官に生きるのが下手で、のほほんのほほんと、木地のままでいる。托鉢袋には、三升の米があり、炉のそばに、薪が一たばある。迷いとか悟りとか、他人のあしあとを気にせず、浮世の名利など、何の関係もない。草屋根をうつ、夜半の雨音をきいていると、二本の脚が思わず前にのびている。   】(柳田聖山訳 )

良寛と言えば禅である。彼は悟りの境地に達して、和歌や漢詩を書いていたのだが、それを理解した人は当時の江戸時代には、ごくわずかだったようだ。
さて、禅では、究極の悟りは心身脱落であるが、結局、自我が抜け落ち、宇宙と一体になる。