空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

日はまた昇る

2021-03-25 15:32:53 | 日はまた昇る


第一次世界大戦。パリの近くの西部戦線で、二百万の若者がたった四年間に死んだ。凄まじい、愚かな戦争。これによって、ヨーロッパのそれまでの輝かしい価値観が総崩れした。そして、総崩れは戦後長く続き、新しい価値観が模索されている。この価値観の総崩れによって生きる世代をロスト・ジェネレーションと呼ぶならば、欧米から入ってきた価値観が支配的になっている今の日本にもあるような気がするのは思い過ごしだろうか。
大地震のように揺さぶられている、かってあった輝かしい価値観とは、ヨーロッパでは、キリスト教と科学。日本では仏教。
そうした価値観が総崩れして、新しい価値観が模索されている。

「日はまた昇る」というヘミングウェイの小説は 大戦直後のパリが主要な舞台。そのせいか、価値観は総崩れした直後のせいで、模索すら行われていないように思われる。総崩れして、享楽的なその日ぐらし、人生の意味すら分からなくなってしまっている世代。
アメリカの新聞記者ジェイクは戦争のために、性的不能になりながらも、パリで、仕事を続けている。久しぶりに、ある夜、ブレッド・アシュレー夫人に出会った。
この女の人はこの物語で、ひときわ異彩を放っている。読者によって、良く評価する人と悪く評価する人に分かれるのではないかという強烈な個性である。
最初の夫のイギリス人は戦死し、二度目の夫は貴族だが、離婚訴訟中とか。戦争中に看護婦として働いていた時に出会った負傷兵のジェイクを愛するが、ジェイクは戦争で性的に不能になっていた。それで彼女は金持ちのマイクと婚約。こういう男性遍歴のためか、かなりのアルコール好き。
男がいつも周囲にいる感じで、ジェイクの親友、ユダヤ人のロバート・コーンなんか、彼女に一目ぼれ。それから、彼女を追い回す。
ジェイクは何を求めているのか。ブレッドを愛していても、それが実を結ばないことに苦々しい苦しみを味わっているが、いつもブレッドの保護者になっている。
ロバート・コーンはプリンストン大学を出たユダヤ人で、ボクシングでフェザー級のチャンピオンになったこともあるが、作家志望である。
二人の最初のあたりの会話に耳を傾けてみよう。




「よお、ロバート」ぼく【主人公のジェイク】は言った。「おれを激励しにきてくれたんだな?」
“Hello,Robert,” I said. “ Did you come in to cheer me up? “
「なあ、南米にいきたくないかい、ジェイク?」
“Would you like to go to South America, Jake? “ he asked.
「ごめんだね」
“No”.
「どうして」
“Why not? “
「どうしてつて。あそこはいきたいなんて、一度も思ったことはないからさ。第一、旅費が高すぎる。それに南米の連中なら、このパリでいくらでも会えるじゃないか」
“I don’t know. I never wanted to go. Too expensive. You can see all the South Americans you want in Paris anyway.”
「あの連中は本物じゃないんだ」
They’re not the real South Americans.”
「おれには生粋の本物に見えるぜ」
They look awfully real to me.”
【略】
「ねえ、ジェイクきみの費用までぼくが持つと言ったら、一緒に南米にいってくれるかい」
“ Listen, Jake. If I handled both our expenses, would you go to South America with me? “
「どうして俺が」
“Why me? “
「きみはスペイン語が話せるじゃないか。それに二人で行ったほうがずっと楽しいと思うんだ」
“ You can talk Spanish . And it would be more fun with two of us. “
「断わる」ぼくは言った。「おれはこの街が気に入っているし、夏になったら、スペインに出かけるんだ」
“ No,” I said, “ I like this town and I go to Spain in the summertime. “
「ぼくはずっと前からああいう旅がしたかったんだよ」コーンは言って腰を下ろした。
“ All my life I’ve wanted to go on a trip like that, “ Cohn said . He sat down.
「このままじゃ、何もしないうちに歳をとってしまう」
“ I”ll be too old before I can ever do it. “
【略】
「ぼくは堪えられないんだよ、人生が飛ぶように過ぎていくのに、こっちはただ流されてるだけだと思うと」
“ I can’t stand it to think my life is going so fast and I ‘m not really living it. “




「会話の散文詩」という気がする場面だ。
読み終えた時、うまいワインを飲んだ時のような、ほのぼのとした情景が浮かんできて、ある種の人生に対する感慨が湧いてくるといいのですが。

こんな会話なら、何も第一次大戦のあとのパリの新聞社の一室での親友同志の会話でなくても、現代二十一世紀の日本の街角で聞こえてくるような会話という気がするのですが、いかがでしょう。
私も南米ではないが、以前にメキシコに行ったことがあり、アメリカやヨーロッパとは違った異質の文化の美しさに満ちていて、大変面白い上に気候がよく、タクシーで緑の丘陵がえんえんと続く雄大な大地を数十キロ飛ばしたことがある。親日的でとても良い印象を受けた。それから、アルゼンチンのヴェノスアイレスや気候が良く日本の二倍近い広さのパンパ草原に憧れたこともありましたし、若い時は【若い時】が長く続く錯覚に陥るもののようですが、昔から、「少年老い易く」という漢詩にあるように、ロバート・コーンはこの会話で感受性の強い人なんだと思うと、この会話での彼の気持ちは分かるような気がするのです。

まして、第一次大戦の西部戦線で、二百万の若者がたった四年で死に、そのすぐそばのパリで青春を過ごしている三十才前後の連中がキリスト教の価値観が崩れ、生きている意味が分からなくなり、「空しい」という気持ちになって嘆く、その気持ちも察せられます。

小説「日はまた昇る」の前につけられた旧約聖書の「伝道の書」を読んでいくと、「全てが空しい」という言葉が繰り返されていますが、この言葉の裏には「激しい恋慕の情」が隠されているのだと思います。
仏教ではこれを「仏への恋慕の情」といい、人にそういう感情を引き起こすために、仏は見かけ上亡くなられ、姿を隠したと仏典では教えています。しかし、仏は今も目の前に生きているのだそうです。人は恋慕の情がないと、仏を発見できないということでしょう。
この小説に登場する若者は「空しさ」の中で、「恋慕の情」に気がつかないで、ただ享楽的に日々をくらそうとする。「伝道の書」はユダヤ教とキリスト教の聖典ですから、「仏」という言葉は使われていません。「神」【God】です。
一般的には、この「神」【God】は天地創造の神で、仏教で言う「仏」と区別されますが、人間が魂で感じる聖なるものという視点から見るならば、それほどの違いがあるとは思えません。
【現代では、宗教の神や仏の違いを見つけるよりは共通なものを見ていくことの方が世界の人の対話という面で重要かと思います。宗教戦争ほど、愚かなものはないと思うからです】
これに気がついた時に、仏教の言う「菩提心」の心が誕生したということになるのでしょう。

ロバート・コーンがジェイクに「南米に行きたい」「このまま年をとりたくない」「人生の意味が分からない」と叫んだのはこの物語のテーマの中心を表現しているような気がします。



ブレッドは夫を戦争でなくし、それからは男を求めて、その日ぐらしの生活。ブレッドはジェイクを愛している。しかし、ジェイクの胸の中に飛び込むことができない。
実際、親しい伯爵から「何であなた方は結婚なさらない」と言われている。
しかし、それは肉体の上では困難とみたのだろうか、ブレッドもペニスを銃弾で傷つけられたジェイクも【精神的に不能なのではなく、ヘミングウェイの意見では銃弾による傷であると  】。  だから、ブレッドはマイクを次の結婚相手と決めたのでしょう。
そうした所に「空しさ」と「恋慕」の両極端を見出すのは無理なことだろうか。
ロバート・コーンはブレッドに一目ぼれ、そして、スペインの闘牛見物までくっついていき、婚約者のマイクから侮蔑的な言葉を浴びせられる。

「仏への恋慕の情」とは「真理への恋慕の情」と言い換えても良い。
ヨーロッパでは、キリスト教だけではない。科学的な真理への欲求というものが、理性への信頼、科学への信頼、そうしたこととして膨れ上がってきて、輝かしい欧米の文化が確立した直後の一つの事件が戦争のきっかけとなった。最初、直ぐに収まる紛争のように思えたのだが。
ずるずる、戦争は長引き、パリのすぐそばの塹壕で、両軍はにらみ合い、第一次大戦となった。
多くの恐ろしい科学技術によってつくられた兵器、機関銃、大砲、戦車、そうしたものによって、多くの人命が失われたことにより、この前途洋々たる科学の未来への信頼も崩れていき、ニーチェの予言したニヒリズムの価値観が恐ろしい菌のようにまきちらされていく。その果ての享楽的な生活。しかし、それは空しい。
「伝道の書」には、「そこでわたしは歓楽をたたえる」「それは日の下では、人にとって、食い、飲み、楽しむより良いことはないからである。これこそは日の下で、神が賜った命の日の間、その勤労によって、その身に伴うものである」
伝道の書はなぜ、短編小説のような韻文の中で、何故あれほど、「人の世」はいかほど、繁栄しても「空しい」を繰り返すのか。
そして、物語の登場人物は よく食い、よく飲み、闘牛を楽しむというわけである。しかし、それもいかにも空しい。
      

闘牛と祭りはこの物語で長い描写になっている。小説では、ヘミングウェイの文章の正確な描写力に感心し、映画では、闘牛の迫力と祭りの熱気が伝わってきて楽しめる。
闘牛は華やかさと興奮と繁栄というような退屈の反対を味わせる。しかし、終われば、全ては過ぎ去ったということで空しいのだ。
この中で、四人の男と女ブレット達の空しい心理劇がえんえんと続く。
おそらく、それも「空しい」のだろう。この「空しさ」とセットになった「真に求めているもの」に気がつかないかぎりは。

闘牛とはスペインの国技である。それとお祭りが一緒になって、一週間も続くというわけだ。日本の国技は相撲で、闘牛と比べると、実にジェントルマンで宗教的なものがある。なにしろ、相撲道で、道がついているのだから。
それに比べ、闘牛は闘牛士が剣で牛を刺し殺してしまうのだから、どうも殺伐としている。
騎士道精神というような美もあり、観衆の興奮を誘うが、これが好きかどうかは登場人物の会話の中でも微妙な視点となっている。




【日はまた昇るの原文 ――高見 浩氏の訳より、一部省略しながら引用】 
ロメロ【闘牛士】が最初の牛を殺してみせた後、モントーヤ【ホテルのオーナー】は ぼく(ジェイク)の目をとらえてうなづいた。
これは本物だと言っているのだ。
ずいぶん長いあいだ これぞ本物と言える闘牛士にはお目にかかっていなかった。残る二人のマタドールのうちの一人はまあまあ もう一人は合格点というところだった。といっても、ロメロとは比べものにはならなかつた。【略】
闘牛のあいだ何度か ぼくは双眼鏡でマイクとブレッドとコーンのほうを見てみた。
三人とも楽しんでいるようだつた。ブレッドも不快感を覚えている様子はない。
三人とも席の前のコンクリートの手すりにもたれかかっていた。
「ちょっと双眼鏡を貸してくれ」ビルが言う
「コーンは退屈している様子かい」
「ふん、あのユダ公め」
闘牛が終わって外に出ると、群衆に巻き込まれて身動きできなかった。人込みを突っ切ることもままならず、氷河のようにのったりと流れる人波に身を任せて町の中心部にもどるしかなかった。闘牛の後で必ず味わうあの複雑な思いと、見事な闘牛を見た後にきまって湧く高揚感に、ぼくらは包まれていた。フィエスタはつづいていた。
太鼓の音が鳴り響き、管楽器の音が甲高く宙を裂き、至るところで人の流れが踊り手たちの群にせきとめられていた。
【略】

「ほら、お上品な連中が帰ってきたぞ」
三人(ブレッドとコーンとマイク)が道路を横切ってきた。
「よお、みんな」
「また会えたわね」とブレッド「まあ、あたしたちの席もとっておいてくれたの なんて気がきくのかしら」
「それにしても」マイクが言った。「あのロメロなんとかってやつは、なかなかの名手じゃないか。ちがうかい」
「そうね。男っぷりのいいこと」ブレッドが言った。「あの緑色のタイツの色っぽいことといったら」
「ブレッドの目はあのタイツに釘づけだったもんな」
「ねえ、あしたはあなたの双眼鏡貸してもらうわよ」
【略】
「気分は悪くならなかったかい」
「ええ、まったく」
「ロバート・コーンは気分が悪くなったんだぜ。」マイクが口をはさんだ。「あんたはからっきし意気地がなかったよな、ロバート」
「最初の馬がやられたときは たしかにまいったね」 コーンが言った。
「でも、退屈はしなかったんだな」ビルが訊く。
コーンは笑い声をあげた。
「そう。退屈はしなかったよ。あの発言のことは勘弁してくれないかな」  】



ゲームということでは、ブレッドと男四人の確執も闘牛に似ている。誰が、ブレッドのハートを射止めるか。ロバート・コーンは自分がブレッドを愛していて、彼女を追いかけまわすが、ブレッドが愛しているのは性的に不能なジェイクなのだ。ブレッドは自分を苦しめて楽しんでいる(受難という意味がこめられているのではないか)ロバートが嫌いという言葉をジェイクにもらしている。ロバートはブレッドにかなり紳士的に振舞っているのだから、ユダヤ人に対する偏見がまじっているのか難しい所。マイクは祭りのせいもあるのか、酔っ払ってロバートに粗暴な会話を吹っかけている。

そして、ついに、ブレッドは闘牛士ロメロと駆け落ちする。

第一次大戦の西部戦線で、二百万人の若者が死ぬという恐ろしいことが起きたのだ。人間は利口だなんていうのは嘘だった。仏教でいう無明【真理に暗いために愚か】の方が本当だったということだ。それまでのヨーロッパの繁栄、永井荷風のフランス物語に見られるような桃源郷としてのヨーロッパ、最高の文化を持つヨーロッパの価値観は総崩れした。この時点で、ニーチェの予言はあたった。人も沢山、死んだけれど、神さまも殺してしまったのだ。ロストジェネレーションって、そういうことだったのだと思います。
伝統あるキリスト教の価値観を捨ててしまった。総崩れしてしまった。つまり、人生の意味が分からなくなってきたというわけです。カミュのような「人生に意味があるかどうか」などという哲学エッセーが生まれてくるわけです。サルトルの実存主義だって、そうだと思います。


アメリカが何で金融工学なんか生み出したのか分かったような気がします。ニヒリズムに行きついたその果ての金銭至上主義、享楽的な経済学なのでは。

日はまた昇る
この空しさを埋めるものは「本当の真理」しかない。ニーチェが否定した西欧の真理を超えた「本当の真理」である。
東洋流に言えば、「仏への目覚め」て゛しかない。ニーチェが否定した西欧哲学を超えたものが、そこにはある。
「仏への目覚め」というのは「真の不生不滅の生命」に目覚めることだと思います。
           【久里山不識】




「空しさ」と「神」(「仏」)はセットになっている。
【伝道の書】
伝道者は言う
空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は
その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。
しかし、地は永遠に変わらない。
日はいで、日は没し、
その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る
川はみな、 海に流れ入る
しかし海は満ちることがない
川はその出てきた所にまた帰って行く


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