◎リベルタ橋(鉄道橋)
トンマーゾ・メドゥーナの設計で、1841年から45年にかけて建設された。開通は1846年1月。この橋の建設はヴェネツィアに大きな変化をもたらした。表玄関の主役交代だ。船が交易の中心だった時代は、あくまでも表玄関はサンマルコ小広場だった。アドリア海に向けて開かれた港は、常に1000年のヴェネツィア繁栄の歴史を背負い続けてきた。しかし、鉄道の開通によってヴェネツィアを訪れる人の大半が鉄道駅に降り立つようになってゆく。海とではなく、陸地と向き合わざるを得なくなる時代の到来となったわけだ。
あの名作映画「旅情」(1955年)でキャサリン・ヘップバーンがヴェネツィアに入ってくるのもやはり鉄道だった。私も電車で橋を渡ってのヴェネツィア入りと、空港から船でサンマルコ広場に入るルート、空港からバスでローマ広場に行って、ヴァポレットで中心部へ、という3つのルートを試してみたが、やはりサンマルコ広場へ直接船で入るのが、最も気持ちを高ぶらせるルートだった。
島の輪郭が見え、次第にドゥカーレ宮殿と鐘楼のある広場が大きく広がっていく様を体験するのは、まさに王道のルートだ。
しかし、鉄道橋を渡ってくるのも悪くはない。橋を通過する10分ほどの時間が、陸地と別れてさあ別世界へ飛び込もうという心の備えをする、ほどよい準備時間を提供してくれるからだ。
◎高潮時の仮橋
例年秋から翌春にかけて、サンマルコ広場や海に面した場所に渡される臨時の橋だ。アクア・アルタと呼ばれる高潮対策で、特に最近は高潮の頻度が増加してきている。
アクア・アルタは南からの強風「シロッコ」が新月か満月の時期に吹き付けると、満潮を1~2mにも盛り上げる。これによって低地の部分に海水が押し寄せて水浸しになってしまう現象だ。
対岸のマルゲーラ地区など工業地帯での地下水使用による地盤沈下などは対策が講じられたが、世界的な温暖化も一因とされる。
数年前に訪れた時は大規模なアクア・アルタに遭遇し、サンマルコ広場全体が全面海と化した。
時計塔前もすっかり水に覆われて、その姿が水面にくっきりと浮かび上がっていた。
◎おっぱい橋(テッテ橋)
サンポーロ地区、ドゥエトッリ運河に架かるごく普通の橋だ。しかし名前は見かけと違って非常に刺激的。なぜそのような名前が付いたのだろうか。
16世紀のヴェネツィアでは男性の同性愛が流行っていた。このままでは子供の数がどんどん減って、やがては国が衰えてしまうと危惧した政府が、娼婦たちにその豊満な胸を紳士諸君に見せつければ、男たちは女性の元に戻っていくだろうと、おっぱいを出して男性を挑発することを奨励したという。
そうした娼婦たちの宿がこの橋のたもとにあったため、こうした名前が付けられた。
橋を渡った正面の建物の壁に「ポンテ・デッレ・テッテ」と書かれているので、ようやく見つけることが出来た。ちなみに「テッテ」がイタリア語で「おっぱい」。
16世紀初頭のヴェネツィアの人口は11万5千人。この中に1万1千人もの娼婦がいたという。中には高い教養を備えた高級娼婦「コルティジャーナ」もいた。
ここに行った日の朝、友人のニコラに場所を調べてもらった。帰ったらニコラが尋ねてきた。「どうだい、橋は見つかったかい?」「ああ、どうにかね」「それで、おっぱいはあったかい?」「残念ながら・・・」。
◎グリエの橋
鉄道駅からリアルト方面に向かって歩いてゆくと、この橋に差し掛かる。グリエとは、先端がとがった角柱のこと。下三分の一は普通の柱のような立方体なのだが、上三分の二は角錐で、上に行くほど細くなって行き、てっぺんには丸い球と槍のようなとんがりがついている。橋の両端に2本ずつ。何のために付いているのかは不明だが、小型オベリスクのようで目立つ。
特徴的なのは、橋げたの両側に飾られた仮面。獅子もおり、不気味に笑う仮面と交互に取り付けられている。
駅に近いだけに、汗を流しながら大きな荷物を引き上げる人、乳母車を押す若い母親、買い物袋をぶら下げて友人と世間話に興じるマンマ立ち、足早に通り過ぎる紳士と、様々な人生模様がこの橋周辺で毎日展開される。
◎トレアルキ橋
グリエの橋から運河を遡って行くと、3段の半円で構成された橋が見える。「トレアルキ」とは3つのアーチという意味なので、まさにその形を名前にしたものだ。
ここにも橋げたにいろいろな表情の仮面(?)が飾られており、重要な橋だったことがうかがわれる。
◎ゲットー橋
ユダヤ人の居住地域であるゲットーへは3つの入り口があるが、そのうちの1つオルメミーニ通りから入るには、このヴェネツィアでは珍しい鉄製の橋を渡ることになる。
この地区にはシナゴーグもあり、ブロンズ製のホロコースト慰霊碑も建っている。また、限定された土地のため、ここだけは高い建物が見られる。