新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

上野歴史散歩⑤ 天海僧正は上野に「東の京都」を造り上げた。

2022-08-30 | 上野歴史散歩

 天海僧正毛髪塔というものがある。僧正の毛髪を収めたことに由来するもので、細長い棒のようななものがニョキッと立っている。

 ここになぜお坊さんの塔が建っているのか、それは上野の山の歴史と大きなかかわりを持っているためだ。天海僧正の話をしなければ、上野のストーリーは始まらないのだ。

 天海僧正は比叡山延暦寺出身、天台宗の僧侶。徳川家康に召し抱えられ、三代将軍家光の代まで徳川家に仕えた。

 その中で1625年、二代将軍秀忠から上野の地を与えられ寺院を建てることになって、彼は壮大な計画を構想した。

 「この上野の地を“東の京都”に造り替えよう!」

                                 北斎作「東叡山中堂之図」           

 まず新たな寺の名前を「東叡山寛永寺」とする。この根底には「比叡山延暦寺」がある。西の比叡山に匹敵する寺院を東の都に造るということで東叡山とし、延暦寺が「延暦」という年号の年に造られたのにならって、寛永2年に完成したこの寺を、年号をとって寛永寺と命名した。

 次に、小規模ながら「東の琵琶湖」を整備する。不忍池だ。ここに、琵琶湖に浮かぶ竹生島を想定して弁天島を置く。

 建物は、あの京都の清水寺に対比させて清水観音堂を建設、加えて東の大仏も建立した。これは京都方広寺にあった大仏(今は失われている)に対比させたものだ。

 景観にも配慮した。吉野山の桜を取り寄せて植樹し、上野を桜の名所とし、不忍池のハスも天海の発案だった。また、今の黒田記念館の通りには紅葉を植えて紅葉の道も造った。

                                    広重作「上野東叡山全図」  

 こうして天海は上野の山全体の「京都化」を実現し、最後は三代家光に重用されて寛永寺を徳川家の菩提寺とすることに成功した。

 幕末の上野戦争によって、多くの建物、施設が失われてしまったが、現在噴水のある広場にあった根本中堂を始めとして寛永寺の敷地は上野公園とその周辺を含めて現在の上野公園の約二倍にも及ぶわが国随一の大寺院を形成した最大の功労者だった。

 ところで、天海僧正はお坊さん。坊主頭のはずなのに記念塔がどうして毛髪塔なの?---という疑問の回答は、知らない。

 

 

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上野歴史散歩④ 上野戦争による彰義隊の敗北によって、上野から徳川幕府の記憶が次々と消されていった

2022-08-26 | 上野歴史散歩

 西郷隆盛像の後方に、彰義隊の墓がある。上野の山は1868年の官軍と幕府軍とによる上野戦争の戦場となった場所だ。それまではこの一帯が寛永寺の広大な敷地となっていたが、その多くが戦火によって焼け落ちてしまった。

 もともと彰義隊は15代将軍徳川慶喜の警護や江戸の治安維持を図るための組織だったが、慶喜が大政奉還を行って水戸に引きこもった後も、彰義隊は江戸に残って新政府軍と敵対していた。

このため、大村益次郎率いる政府軍は1868年7月4日朝、上野に籠った彰義隊への攻撃を開始、新兵器のアームストロング砲を打ち込んで、勝負は同日夕には決着した。

 戦死した彰義隊266人の戦死体は長い間遺棄されていた。1874年になってようやく遺体が荼毘に付され、この墓所が設置された。今はのどかな公園になっている上野の地も、明治初期は全く想像も出来ない惨状が残されていたということだ。建立された墓石には「戦死者の墓」とだけしか記されていない。

 墓の門や浄財箱には「義」の文字だけが記されている。言うまでもなく彰義隊の「義」だ。

 識者によると、明治維新によって東京は大きく変貌したが、その原点は上野戦争で彰義隊が敗北するところから始まったともいわれる。

 徳川幕府の発足とともに設立され、二百数十年にわたる繁栄と権力の象徴でもあった寛永寺の所在地である上野は、徳川幕府・江戸の栄光を背負ってきた場所でもあった。

 そこでの彰義隊敗北と寛永寺の消滅によって、新政府は上野という場所から「徳川」の記憶を徹底的に消していく。

 内国勧業博覧会の開催、博物館、美術館。大学などを次々に建設していった。

 徳川の後ろ盾によってあれほどの繁栄を誇った寛永寺の大伽藍は、こうして次々と消滅し、人々の記憶から忘れられていく。 そんな大転換の歴史が、このそっけないほどの彰義隊墓所の背景に潜んでいる。

 西郷さんの像の前には立ち止まって眺める人たちの姿はよくあるが、彰義隊の墓所に足を止める人は、何度付近を通っても全く見なかった。

 

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上野歴史散歩③ 完成した西郷像を見て糸子夫人はつぶやいた「うちの人はこげん人じゃなか」

2022-08-23 | 上野歴史散歩

 西郷隆盛は、幕末に江戸城の無血開城を実現、明治維新へと導いた立役者だ。その西郷さんの像が上野公園に建てられたのは1898年だった。製作者は高村光雲。「智恵子抄」で有名な詩人の高村光太郎の父だ。

 その姿はなぜか筒袖、わらじ履きという庶民的な姿だ。維新の立役者がどうして?

 彼は明治政府のスタート後、西南戦争を起こして新政府に反旗を翻した人間でもあった。従って当初想定された軍服姿だと政府からクレームが入ることも考えられたことから、こんな軽装に変更されたという。ただ、それがかえって庶民には歓迎され、あのいかつい顔なのに親しみを感じる像として、人気となった。

 その像は、故郷鹿児島の色彩が色濃く見える。左腰をよく見ると、ウサギ狩りの罠を身につけている。彼がよく行った趣味の1つだった。

 そして脇に従うのはウサギ狩りで同行する薩州産の猟犬。西郷さんがいつも連れていた犬の名前は「ツン」といったという。

 出来上がった西郷像の除幕式には夫人の糸子さんも出席して行われた。その際、像の顔を見た夫人は「あら、うちの人はこげん人じゃなかったこて」とつぶやいたと伝わっている。

 西郷さんは写真嫌いで、死後の像制作の際は、実弟の従道氏の写真などを参考にしたという。

ただ、彫刻家荻原守衛は「大西郷の風采を最もよく表現している」と称賛した。

 また、像の左手後方に、西郷自身の筆による「敬天愛人」の文字のある碑が建っている。「天を敬い、人を愛する」は、西郷さんの座右の銘だった。

 

 昨日夏の高校野球甲子園大会で、仙台育英高校が東北の高校として初めての優勝を成し遂げました。104回目にして初めて優勝旗が関東と東北の境目にある「白河の関」を越えます。

 私も東北出身ですし、育英高が初めて決勝に進んだ1989年の大会時には、甲子園で取材デスクを務めたこともあって、球児たちに心からの祝福を送るとともに、故郷の友人たちと一緒に万歳を叫びたい気持ちで一杯です。

 

 

 

 

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上野歴史散歩② 上野公園に入る。かつての黒門は今、モダンな滝に変身していた。

2022-08-20 | 上野歴史散歩

上野公園へは京成上野駅側から入ろう。

 京成上野駅出口横に鳥の像を伴った碑が立っているのを見つけた。よく見るとこれは「川柳発祥の地」という記念碑だった

 

 

 川柳は17音で表現する句の一種。1765年に「誹風柳多留」という川柳の雑誌が、この付近にあった「柳多留」の版元から発刊され、その後全国に広まったのだという。

 像の金色の鳥は何だろうと思ったら、そばに添えてあった句で判明した。

   「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」

 この句は「柳多留」の編者呉陵軒可有の作だという。

 階段を上って公園内に入るとすぐ、太田蜀山人(南畝)の狂歌が刻まれた碑を見つけた。狂歌は31文字の作品で、和歌から派生したもの。

 碑の一首は「一めんの 花は基盤の上野山 黒門前に かかるしら雲」

 上野の山は江戸時代から桜の名所だったことがうかがわれる。碑は年月が経って字が読みにくくなっているが、蜀山人に直筆をここに刻み込んだものという。

ここで、「黒門って何?」と疑問がわいた。調べてみると江戸期は上野の山のほぼ全体が寛永寺という寺の敷地だった。その入口に建てられた黒い門のこと。上野戦争によって一部破壊されてしまった。

 しばらくはここに残されていたが、今は別の場所に移転している。

 その黒門の記録を残そうと、近年造られたのが、この滝。

 夕方になると、色付きの照明が投射される。

 ちょっと異色の空間に変身する。

 正面の大階段はなかなかの貫禄。幅も高さも十分な風格さえ感じる。この石段付近は江戸時代崖のようになっていて、袴の後ろ姿に似ているとして「袴腰」と呼ばれていた。

 階段横にあるのは、昔街灯が灯されていた柱。なぜかこれだけが残されている。

 階段を上り切ったところで、西郷さんの姿が見えてくる。

 

 

 

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上野歴史散歩① 北の若者たちの期待と不安。そんな心情あふれる上野駅から連載スタート。

2022-08-16 | 上野歴史散歩

 昭和生まれ、東北出身の人間にとって、東京とは「上野から始まる大都会」というのが第一印象だった。

 なぜなら、初めて上京した時も、東京に住み始めた時も、いずれも夜行列車に乗って到着した東京の駅は上野駅だった。

 眠い目をこすりながら列車を降り、駅構内の売店でサンドイッチとジュースを買って上野公園に入り、西郷像の下でベンチに腰掛けて朝食を食べた時の、期待と不安の入り混じった心を今でも思い出すことが出来る。

 そんな個人的な思い出も含めて「上野公園を歩く」というこのシリーズは、まず上野駅からスタートすることにした。

 上野駅は日本初の私鉄・日本鉄道(現JR)が開業した1883年に、仮駅舎としてスタートした。路線は上野=熊谷間。現在の駅舎は関東大震災で焼失したのち1932年に二代目として完成したもの。

 ホームに到着後、改札口に向かう前に15番線ホームの外れに向かう。ここに1つの歌碑が置かれている。

 縦に書かれた文字

ふるさとの 訛なつかし

 停車場の 人ごみの中に

そを 聴きにゆく

 そう、石川啄木の「一握の砂」に掲載されている詩。1985年3月、東北新幹線の上野駅乗り入れを記念して建立されたものだ。

 啄木は岩手県出身。1908年に上京し、1912年に26歳で病死するまでの青春時代4年間を東京で過ごした。そのころの、故郷への思慕を含んだ一首。東北出身の人なら誰しも共感を覚える言葉だ。

 その歌碑からホームを歩いて、待ち合わせの目印として利用される「翼の像」を見ながら改札口を出る。広小路口から外に出ると、郷愁を呼ぶもう1つの歌碑が建っている。

 「ああ上野駅」は前の東京五輪のあった1964年に、青森出身の歌手井沢八郎が歌ってヒットした。この歌は集団就職によって上京した若者たちの心情が素直に描写されている。

 当時東北は、高度成長を始めた都会の人材供給の場でもあった。

 横断歩道を渡って向かい側の上野駅前通りにも、啄木の歌碑があった。この碑の文字は、啄木と同じ岩手出身の言語学者金田一春彦によるものだ。

 このように、上野駅周辺にはまだ、東北とのつながりを示すものがしっかりと残されている。

 

 

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