新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

隅田川⑩ 万年橋ーーー北斎の富士、広重の亀、芭蕉の庵、藤沢周平の橋物語

2018-01-30 | 東京探訪・隅田川の橋

 万年橋は、支流の小名木川が隅田川に注ぎ込む河口に架けられている。緑色の鉄骨製、短い橋だが歴史的意味も含めて存在感は格別だ。

 小名木川は、江戸に拠点を置いた徳川家康が江戸城建設に先立って真っ先に掘割を実施したところだ。行徳の塩を始めとして各地からの物資を江戸城下に輸送するための大動脈としての役割を担っていた。

 
 交通の要所だっただけに江戸っ子たちの知名度も高く、また、江戸期の万年橋は見事な太鼓橋で、その橋から名峰富士が眺められた。

 そんな風景を葛飾北斎は見事に描き切っている(「深川万年橋下」)。北斎はあえて富士山を強調せず、橋の芸術的なアーチを中央に据え、その下にさりげなく富士を配するという風景の妙を、洒脱に描いている。


 また、歌川広重は「名所江戸百景」の「深川万年橋」で、亀のぶら下がった絵を描いた。「亀は万年、鶴は千年」ということわざをもじった、しゃれっ気満点の絵だ。
 
 この橋を舞台とした藤沢周平の小説を読んだことがあった。「橋ものがたり」の中に収められた「約束」。
 幼馴染の幸助とお蝶。幸助は浅草に修行に出て、二人は離れ離れに。その時二人は「五年後に万年橋のたもとで会おう」と約束していた。
 しかしその間、お蝶は貧しさゆえに酌婦となり、客に体を売ってしまう。また幸助も別の女性に心ひかれた。


 五年後、「幸助は橋の欄干にほおずえをついて、川の水を眺めていた。水は絶え間なく音を立て、光を弾いている。日が沈むとあたりは一度とっぷりと闇に包まれたが、まもなく気味が悪いほど赤く大きな月が空に上っ
た」

 お互い五年前の純粋で一途な心と体ではなくなってしまった。
 堂々と胸を張って愛を叫ぶほどの勇気はない。

 だが、心の奥にちらちらと燃える炎のくすぶりを、ずっと感じ続けている。
 
 そんな二人の切ない思いが、暮れて行く川面の風景と共に、切々と描き出されていた。


 この付近は隅田川沿いに広い遊歩道が上流の新大橋まで続いている。その道に松尾芭蕉がこの地に住んでいた当時に創った句の碑が立てられている。

 名月や 池を巡りて 夜もすがら

 花の雲 鐘は上野か 浅草か

 川端を歩いていると、ちょうど絶妙のタイミングでどこからか寺の鐘の音が聞こえてきた。


 芭蕉は今の三重県伊賀市出身。1657年に江戸に出て、1682年八百屋お七火事と呼ばれる大火で最初の家を失った後、新たに庵を建ててこの地に移り住んだ。

 万年橋のすぐ近くに芭蕉稲荷という神社がある。1917年、この地から芭蕉遺愛の石のカエルが出土したため
「古池や かわず飛び込む 水の音」の句ゆかりの地として、東京都はここを」芭蕉翁古池の跡」に指定した。

 そこから土手を上がったところが、芭蕉展望庭園になっている。

 入口には北斎の浮世絵「深川万年橋下」が、何本にも分かれた柵に描かれており

 その奥に芭蕉像が鎮座している。

 ちょうど夕日が沈む直前だったので、夕べの光が芭蕉を黒く浮かび上がらせた。その横顔は、移り行く隅田川の暮色をじっと見つめているかのようだった。


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隅田川⑨ 清州橋。昼から夜へ・・・国重要文化財の幻想的な変化を楽しむ。「スカイツリー浮世絵」説も

2018-01-27 | 東京探訪・隅田川の橋

 隅田川大橋の上流は清州橋。

 優雅な橋桁のアーチを持つ吊り橋だ。現在の橋は1928年に完成した。

 男性的な永代橋とは対照的な女性らしい柔らかさを備えており、ここも永代橋、勝鬨橋と並んで国の重要文化財に指定されている。

 ドイツ・ライン川に架かるケルンの吊り橋がモデルになっており、「ケルンの眺め」の標識も作られていた。

 2015年にケルンに行ったときに撮影したケルン大聖堂近くの橋を見直してみたが、どうもこれではなさそうだ。
 そこで、改めて調べてみると、手本とした橋はヒンデンブルグ橋。第二次世界大戦で破壊され、今は全く別のタイプの橋に架け替えられて入りという。


 清州橋東詰を少し南下すると、読売ビル玄関の前に平賀源内の碑が建っている。1776年長崎から持参したエレキテルの実験を、ここで行ったとされてる。


 橋に戻ると、夕日が橋桁に差し込み、橋の上にストライプを描いていた。

 そんな夕陽は吊り橋の高い部分から差し込み、光と影の強烈なコントラストを演出する。

 川面が暗くなり、橋全体が影になった一瞬、橋は透き通ったブルーに変身した。ほんの数十秒間の幻のようなメタモルフォーセスだった。


 さらに黄昏が進むと、点で結ばれた照明が点灯し、

 スカイツリーを背景に、女王のような優美な姿に移行していった。

 ところで、「東京スカイツリーが江戸時代の浮世絵に描かれていた」として話題になったことがある。

 その絵が歌川国芳の「東都三つ股の図」。
 確かに左後方にスカイツリーのような塔が建っている。調べてみると、この絵が描かれた場所は、タイトルにある「三つ股」。これは日本橋中洲を指し、今の清州橋西詰あたりになる。

 とすると右側にある大きな橋は永代橋であることが解っている。永代橋は下流にあるので、この絵は中洲から北ではなく南方向に向いて描いたことになる。

 従ってこの塔はスカイツリーとは反対方向。当時の井戸掘り用に造られた櫓だった
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隅田川⑧ 江戸の街が再現された深川江戸資料館、豊海橋、隅田川大橋

2018-01-25 | 東京探訪・隅田川の橋

 北上して清澄庭園付近まで来ると、深川江戸資料館がある。江戸時代の深川の街並みをそっくり再現した館で、すっぽりと江戸にタイムスリップできる。

 館内2階に上がると、下町の屋根が見える。よく見るとネコが1匹。

 夕暮れの長屋の通り。情緒豊か。

 隅田川の川べりに立っているよう。

 この家では、当時の八百屋の店先が再現されている。並ぶ大根やニンジンはどれも本物。野菜は季節によって変えられるという。

 船宿「升田屋」。こうした宿が当時の川端にはたくさん並んでいた。

 横丁の通り。この辺りから今にも鬼平が出てきそう。

 船宿前のたたずまい。ここから猪牙船に乗って吉原などに繰り出す客も多かった。

 庶民の一般的な住まい。とても質素だ。家具などもそっくり復元されていた。

 とても情緒たっぷりの資料館だった。


 さて、隅田川べりに戻った。永代橋の西詰、日本橋川が隅田川に流れ込む河口に架かるのが豊海橋だ。初代の橋は1698年完成で、乙女橋又は女橋と呼ばれたこともあるとか。

 真っ白で瀟洒な橋は永代橋からも良く目につく。永代橋との調和も考えて、はしごを横にしたような形が採用されたという。

 この橋からの景観について永井荷風は「豊海橋鉄骨の間より斜めに永代橋と佐賀町辺の灯火を見渡す景色。今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも雅趣あり」(断腸亭日乗)と書いている。


 本流に戻ろう。永代橋の1つ上流には隅田川大橋がある。

 上に首都高速9号線が走る二階建ての桁橋になっている。


 永代橋から眺めていると、ちょうど遊覧船が大橋に向けて遡って行くのが見えた。その向こうには東京スカイツリーが、はっきりと捉えられる。


 橋周辺だけを歩いていると気が付かないが、隅田川大橋のすぐ西側は水天宮。そこから人形町、日本橋など、地下鉄を使えばすぐに東京都心に入ってしまう。


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隅田川⑦ 永代橋から門前仲町へ。富岡八幡宮の豪快な水掛け祭

2018-01-21 | 東京探訪・隅田川の橋

 永代橋を渡ったついでに、少し足を延ばしてみよう。

 そのまま東に進めば、左手に富岡八幡宮に到着する。
 
 ここは昨年暮れ、宮司を弟が刺殺するという事件が起きて注目された神社だ。だが、本来は徳川家の厚い保護を受けた由緒ある神社で、「深川の八幡様」として庶民にも親しまれてきた。創建は1627年。

 正面入り口に武士の立ち姿がある。日本地図を作り上げた伊能忠敬像。伊能はこの近くに住み、測量調査のために旅立つときは必ずここに参拝してから出かけたという。

 社の右奥に進むと横綱力士碑。

 1684年に幕府から勧進相撲の興行が許可され、約150年間この地で相撲が行われていた。本場所が両国の回向院に移ったのは1833年のことだ。そんなゆかりから横綱大関力士碑が建てられている。


 富岡八幡宮の例大祭は神輿に盛大に水を掛ける「水掛祭」としても知られる江戸三大祭りの一つだ。昨年は3年に1度の本祭りだったので、出かけてみた。

 水は消防団のホースで大量に掛けられる。

 従って、担ぎ手も見事にびしょぬれだ。

 天候もまずまずで、通りは人で埋まった。

 神輿は担ぎ手によって左右にも揺られ、豪快に傾いたりもする。

 その彼らの「支える手」も力強い。

 何か所かでは、トラックの荷台に乗った若衆からバケツでの水かけも。

 とにかく見ているだけでも興奮する祭りだった。

 八幡宮のすぐ隣にあるのが深川不動堂。

 そこから北上して行くと清澄庭園近くの道路沿いに滝沢馬琴誕生の地という碑を発見した。

 彼の代表作南総里見八犬伝の本を積み上げた形の碑で、とてもユニーク。

 永代通りを東に進むと、ほどなく左手に木場公園が見えてくる。木場は江戸時代から木材の集散地だった場所。その貯木場を整備して、現在は大きな公園になっている。

 その中央を流れる仙台掘川に木場公園大橋が架かっている。全長250m、主塔の高さ60mというダイナミックな橋で、その間からきれいに東京スカイツリーが眺められる。

 仙台掘川は江戸時代に開掘された運河で、北岸にあった仙台藩の蔵屋敷にコメなどの特産物を運び入れた交通路だった。

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隅田川⑥ 永代橋 我が国最悪の橋崩壊という歴史的な惨劇

2018-01-18 | 東京探訪・隅田川の橋

 永代橋は1698年、五代将軍徳川綱吉の50歳の誕生日を記念して、隅田川に4番目に架けられた橋だ。アーチ式の美しい形をしている。

 正面から見ると、鋼製の頑丈な構造。重厚で巨大な怪物が襲いかかってくるかのような威圧感がある。

 アーチの幅は1.5mもある。
 アーチを支える横に張られた鋼の層も力感たっぷり。


 そんな橋なのだが、実は悲しい過去が刻まれている。1807年に起きた「わが国最大の橋梁崩落事故」だ。

 (歌川広重 「永代橋深川新地」)

 この年は、10数年ぶりで深川富岡八幡宮の大祭が復活することになっていた。しかし、8月15日の祭りの予定が、悪天候続きで順延。

 「いい加減誰もが待ちくたびれた18日夕刻、やっと明日の好天を約束する茜雲が、西空を彩っていた」(杉本苑子「風ぐるま」)

 ただ、この橋は完成からすでに109年もの歳月が過ぎていた。その間応急の補修は何度かされたものの、本格的な改修はなされず、「犬一匹通っても危険」とさえ言われるような状況だった。

 町役人たちもこぞって架け替えの嘆願書を幕府に提出したものの、幕府は「危険な橋は取り払って渡し船にすべし」との返事だった。

 さて当日、祭礼の行列の時間が近づき、町民たちが橋を渡り八幡宮に向い始めた時、一橋家の姫君一行が祭り見物のため川を通り過ぎようとしていた。
 「一橋家の方々の上を町民が土足で歩くのはいかがなものか」ということで、急遽、船の一行が通り過ぎるまで橋は通行止めとなった。
 その間、次々と押し寄せる群衆で、橋の入口はあふれるほどになっていた。

 ようやく御一行様の船が通り過ぎた。 さあ 八幡宮へ!


 (歌川広重 「永代橋全図」)

 一斉に人々が橋に殺到した。 
 そして、老朽化していた橋桁が、ひとたまりもなく崩壊していった。

「恐ろしい音響が起こった。地響き、ぐ風、うねり、人間の胸郭を押し上げる絶鳴・・・」

「橋杭の根元は泥深い。後からあとから落下してくる人体に、先に落ちた者は押しつぶされ、泥に埋まって窒息死したし、かろうじて泳ぎ出した者も八方から絡みつかれ、動きが取れなくなって共倒れに沈んだ」(風くるま)


 死者、不明者合計800人以上、前代未聞の大惨事が起きてしまった。以後現在に至るまで、橋梁事故としてはわが国最大の惨事として記録されている。

 「永代と 掛けたる橋は落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼」

    太田蜀山人の詠んだ歌が 残されている。 



 この大量の死者を慰霊する供養塔は、深川の海福寺に造られた。だが、1910年に寺が目黒に移転したことから、供養塔も一緒に目黒に移されている。

 詳しい説明板もあった。

 そして碑の裏側には死者の名前がぎっしりと刻まれていた。


 今の橋は関東大震災(1923年)の3年後、1926年に完成したもの。大震災後の復興事業のシンボルとして、清州橋とともに国の重要文化財に指定されている。

 永代橋から下流を望むと、右に中央大橋、

 左に隅田川から枝分かれした側に相生橋が見渡せる。

 もう一度永代橋の夕景を目に焼き付けてから上流に進もう。






 
 
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