新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

「私を身代わりに」と、アウシュビッツで命を落とした神父の足跡が長崎に・聖コルベ記念室…長崎紀行⑤

2016-10-29 | 長崎紀行

 大浦天主堂の裏手に祈念坂と呼ばれる坂道がある。

 坂を歩くと、天主堂の塔越しに長崎の港が垣間見える。

 坂上には南山手レストハウスがあり、休憩したりガイドブックを開いたりできるスペースがあった。

 その後ハウス前の小さな広場から港と反対側の街を眺めた。斜面を埋め尽くすように住宅が建ち並ぶ光景は壮観だ。

 一方で港側は、胸がスッとする晴れやかな風景。

 祈念坂を降りる。細く静かな道だ。

 切支丹に関する小説の構想を胸に長崎を訪れた遠藤周作は、この道をこよなく愛したという。
 その思索の道を経て「沈黙」や「女の一生」2部作などが誕生した。

 私が訪れた時は、絵画愛好のグループがこの坂でスケッチ会を開いていた。

 曲がりくねった道なりに下ってゆくと「祈りの三角ゾーン」と呼ばれる角地に出会った。

 左手に大浦諏訪神社の鳥居、右手に妙行寺の山門、その中間に大浦教会の鐘楼が見える。3つの異なった信仰の社が1点で見える〝奇跡”の地点だ。

 さらに下って土産物店の並ぶ大浦天主堂前のにぎやかな通りに出た。

 ここには、国宝となって多くの観光客も出入りする大浦天主堂に替わって通常のミサを行う場所として、大浦教会が出来ている。ここも落ち着いた雰囲気の内部だった。

 そんな一角に聖コルベ記念室がある。


 コルベ神父は1930年に来日。長崎で布教活動に従事した。その際、故郷ポーランドで刊行していた「聖母の騎士」日本語版冊子を定期的に発行し続けた。

 その拠点となった洋館は焼失してしまったが、焼け残った赤レンガの暖炉を軸として記念室が保存されている。

 当時は軍国主義が台頭し戦争に向かう時代。特高から目をつけられるなど苦難の時を過ごした。


 1936年、ポーランドに帰国したが、ナチスによって捕えられアウシュビッツ強制収容所に。ここでは脱走者が出る度に無関係な囚人10人が殺されるという見せしめが行われていた。

 ある時無差別に選ばれた10人のうちの1人が、「私には家族も子供もいるのに・・・」と嘆くと、コルベ神父は「私を身代わりに」と申し出、進んで「餓死独房」に送られ、命を落とした。

 彼は長崎での布教の際も常に次のような言葉を語っていた。

 「人 その友のために死す それより大いなる愛はなし」

 そのコルベ神父が「聖母の騎士」を記載、発行していたのが、この場所だった。そして、今でも「聖母の騎士」は発行が続けられている。

 30数年前、取材旅行で訪れた遠藤周作が、暖炉だけが残された跡地を見て、修道士に保存を訴えた。

 「天主堂にはたくさんの修学旅行の学生が来ます。100人中98人は無関心かもしれないが、1人か2人はコルベ神父の話に感動を覚えるかもしれない。何とか保存を」。

 今は土産物店の一角がコルベ記念室となり、見学が可能となった。

 コルベ神父のエピソードは、遠藤周作著の「女の一生 サチ子の場合」に生かされている。
 
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世界を揺るがせた「信徒発見」の現場・大浦天主堂・・・長崎紀行④

2016-10-25 | 長崎紀行

 長い階段の上に尖塔がそびえる。大浦天主堂は、まもなく江戸時代が終わりを告げようとする1864年に、フランス人神父フューレ、プチジャンの2人によって創建された。
 当初の目的は、日本を訪れ、滞在し始めた外国人のための教会だった。なぜなら、当時我が国内では依然として禁教令が解かれておらず、日本人の信徒はいないことになっていたから。

 建設場所は、フューレ神父は日本初の大量殉教者が十字架にかけられた西坂を望んだが、そこは外国人居留地外であるということで許可されなかった。ただ、この教会の正面は西坂に向かって建てられている。

 1865年2月、ようやく天主堂の献堂式が行われた。
 それから約1か月半、世界を揺るがす‟事件”が起きた。

 建設を指導したプチジャン神父らは、この教会建設を機に秘かに潜伏キリシタン発見という目的も捨てていなかった。1614年の禁教令以来何人もの宣教師が潜入し、地下活動を行っては見つかって殉教するという悲劇が繰り返された。 
 もう、絶えてしまったかに見える信仰の流れだが、「もしや」との思いも彼らの胸に残っていた。

 3月17日午後、堂内で祈るプチジャン神父の耳元でささやく声があった。

 「私の胸、あなたの胸と同じ」。

 教会を訪れた15人の男女のうちの1人の女性だった。私は神父と同じ信仰の心を持っているという意味だ。
 その女性、イサベリナ杉本ゆりは続けた。

 「サンタマリアの御像はどこ?」

 神父に導かれて、祭壇に飾られた聖母子像に歩み寄った彼女らは、深く祈りをささげたという。

 この「信徒発見」のニュースは即座に神父からバチカンに伝えられた。神父の手紙にはローマ字で

「santa maria gozo wa doko?」と、

 ゆりの言葉そのままに書かれている。
そんな知らせにローマ教皇ピオ9世は「東洋の奇跡」と驚愕した。

 だが、先に述べたように、日本はまだ禁教令の最中。幕府は隠れキリシタンの弾圧を強行、またしても数百人もの信徒が島流しになるなどの迫害が繰り返された。

 この事件は「浦上四番崩れ」と呼ばれている。大規模な弾圧がここまで4回行われたことを示す表現だ。その禁教令が廃止されたのは、1873年。明治になって5年も過ぎてからのことだった。

 大浦天主堂の正式名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」我が国最古の洋風建築教会として国宝に指定されている。

 階段を上って途中左手の小広場には、信徒発見の模様をレリーフにした記念碑が立っている。和服姿の男女がひざまずいて「サンタマリア」の像に祈りをささげ、脇にプチジャン神父が立っている。

 そのプチジャン神父単独の像もあった。

 正面入口には「日本之聖母像」。フランスから取り寄せたマリア像だ。信徒発見の翌年、浦上の貧しい信者たちが長年コツコツと貯めてきた金銭を集めてプチジャン神父に託した。
 「これは、あなた方に捧げるのではなく、天主様とマリア様に捧げるのです」。

 神父は早速これを元手に聖母像を発注、1867年に天主堂正面に設置された。

 わずかに体をひねって手を合わせ、目をつぶって祈る純白の姿は、以来信者たちの心のよりどころになってきた。

 中はリヴボルト天井の美しい造形。尖塔式アーチの窓が並び、ステンドグラスからの光が優しく堂内を照らしている。
 右奥の礼拝堂に、信徒発見の劇的なドラマを実現したサンタマリア像。
 プチジャン神父の墓も教会内に置かれている。

 夜、もう1度天主堂の前に来た。真っ暗い空をバックに建物が白く浮かび上がる。

 まるで幻想を見ているような、静けさの中での風景だった。

 (天主堂内部の撮影は禁止されているため、内部の写真はパンフレットなどから引用しています。他の場所でも禁止区域では同様の対応をしています)
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ガウディを連想させる塔、コルビジェを思い起こさせる窓=聖フィリッポ教会・・・長崎紀行③

2016-10-22 | 長崎紀行

 二十六聖人記念館の右後方に、何やら不思議な塔が二本、ニョキッと立っている。聖フィリッポ教会だ。1962年に記念館と同時に造られた。

 最初に気付いたのは、長崎駅近くのホテルにチェックインした時だった。8階の部屋から外を見ると、あの2本の塔が見えた。尋ねると教会だという。それで、ぜひ寄ってみたいと思っていた。

 中に入ると、優しいご婦人が丁寧に説明してくれた。聖フィリッポという名前は、二十六聖人の一人、フィリッポ・ヘススの名前がとられたもの。彼はフィリピンで司祭の修行を終え、故国に帰る途中日本沖で遭難し、また日本滞在中に逮捕され殉教した二十四歳の若者。

 その彼の像が、祭壇に向かって右側に立っている。

 建物の設計は、スペインのサグラダファミリア教会などで知られるアント二・ガウディ研究者、今井兼次。それだけに双塔はいかにもガウディをほうふつとさせる陶片をちりばめたデザインだ。

 一方、内部は天井に木を使い、白壁で囲まれた空間に小さめのステンドグラスから漏れる光が差し込む。

 建築家ル・コルビジェの代表作「ロンシャンの教会」を思わせる柔らかな明るさに包まれていた。

 そのステンドグラスは平和の象徴であるハトをデザイン化した形。大きなステンドグラスも優しい。

 ハトの光が、色を映して降り立ったように床を染めていた。

 右側の壁面に聖遺骨が飾られていた。

 これも二十六聖人のうちの3人のもの。写真で見ると、右から5番目のディエゴ喜斎、6番目のパウロ三木、8番目のヨハネ五島の3人の遺骨だ。
 これらの遺骨は、死後迫害から逃れるためフィリピンに送って保管されていた。この教会設立にあたって里帰りを果たしたのだという。

 そんな、いろいろの話を聞かせてくれたご婦人の祖先も、長崎県外海地方の出身だったが、迫害に遭って五島に逃れ、潜伏キリシタンとして過ごしたのだと、話してくれた。

 また、教会の窓から外を見ると、巨大な観音像が見えた。福済寺の長崎観音、高さは18mもあるという。原爆の犠牲者を弔うため、1979年に建立されたもの。カトリック教会の中から観音様を望むのも不思議な気分だ。

 日没後、もう1度西坂の坂を上った。闇の中で双塔がライトアップされてにょっきりとそびえていた。
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天正遣欧少年使節4人がたどった波乱の人生・二十六聖人記念館・・・長崎紀行②

2016-10-18 | 長崎紀行

 二十六聖人記念館は、記念碑のすぐ後方に建っている。館西側の壁には陶片による壁画が施されている。これは、京都で逮捕された26人が殉教の地長崎までたどった道中にある幾つもの窯元に呼び掛けて、提出してもらった陶片で作成されたものだ。

 十字架など、意匠を凝らしたモチーフがちりばめられている。

 館内には貴重な資料が多数陳列されている。これはフランシスコ・ザビエルの手紙。我が国に最初にキリスト教をもたらしたザビエルが、ポルトガル・ヨハネ3世に宛てた手紙だ。国内に残る唯一のザビエル直筆。

 実に慈悲深い表情をしたマリア像があった。「雪のサンタマリア」。外海町の潜伏キリシタンの家に伝えられたもの。用紙は和紙を使っており,岩絵の具で彩色されている。長崎の南蛮絵師による17世紀の作品だ。

 また、舟越保武作の高山右近像もあった。代表的なキリシタン大名であり、戦国武将として信長や秀吉に仕えた。 禁教令が出ても信仰を捨てずに国外追放となり、マニラで病死した。

 今年1月、バチカンは彼を「聖人」に次ぐ「福者」に認定した。ちょうど長崎を巡っている中でふと手にしたパンフレットに、2017年2月に大阪城ホールで高山右近の列福式が行われるとのニュースが掲載されていた。

 小さな銅版画も。聖母子を描いた繊細なタッチの絵で、日本人によって造られたとみられる。タイトルは「セビリアの聖母」。天正遣欧少年使節一行が持ち帰った印刷機で刷られたもののようだ。

 その少年使節の1人、中浦ジュリアンを描いた絵と、彼が1621年9月にローマのイエズス会に送った手紙も保管されていた。
 彼ら天正遣欧少年使節に触れるならば、彼らが辿った波乱の生涯をたどる必要があるだろう。

 少年使節とは、伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノ、千々石ミゲルの4人。いずれも13~14歳の少年が、長崎の港から欧州に向けて出港したのは、1582年2月20日のことだった。
 イエズス会東インドの責任者アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が、当時の天下人織田信長の信任を得て少年たちをローマに派遣した。キリスト教の日本布教への経済的精神的援助を依頼しようとの趣旨だった。
 マンショは大友宗麟、ミゲルは大村純忠の親戚で、キリシタン大名の名代としての意味も兼ねていた。一行は2年半後にポルトガルに到着、1年半をかけてスペイン、イタリアを巡回しフェリペ2世やグレゴリウス・ローマ法王と謁見するなど歓待を受けた。ローマではイエズス会の総本山ジェズ教会にも滞在した。この際、狩野永徳の描いた安土城屏風を法王に献上している。

 そして、1590年7月21日、さっそうと長崎に帰ってきた。
 しかし、その8年間にキリスト教に関わる国内情勢は大きな変化を見せていた。まず、布教に理解を示していた信長は、彼らが出発したその年6月に、本能寺の変で死去。豊臣秀吉はキリスト教への警戒心を募らせて、1587年には伴天連追放令を出していた。

 まだ、この段階では日本人信徒への弾圧までには至らなかったが、1597年宣教師ら26人の磔刑という事件が発生した。次に江戸幕府を樹立した徳川家康は1614年、全国に禁教令を出して全面的な締め付けが始まった。

 こうした中で、4人はどうしたのか。
 ミゲルを除く3人は1601年からマカオに行き、司祭になるための修行を積んで見事司祭に昇格した。
 しかし、マンショは1612年に病に倒れて死亡。マルチノは1614年に迫害を逃れてマカオに行き、帰国できないままに客死した。
 
 ジュリアンは禁教令後も日本に留まり、潜伏しながらも布教や信者たちの指導に努めていた。記念館に残る手紙はそうした当時のものだ。
 「私は最も厳しい迫害、すなわち宣教師を日本から追放し、すべてのキリシタンたちに背教させようとした年から、潜伏しております」との書き出しで始まり、「ちょうど今、新たに迫害を始めるという知らせがありました。神様が私たちに忍耐と勇気をお与えになるよう祈っています」とポルトガル語で記されている。

 ジュリアンの潜伏生活は実に18年にも及んだ。が、1632年に逮捕され、1年間の拷問の末1633年10月、長崎で穴吊りになって殉死。悲劇の最期を遂げた。そのとき彼は「私はローマに赴いた中浦ジュリアンである」と言い残したという。彼は2007年、福者と認定された。4人のうち福者になったのはジュリアンただ1人だけだった。

 残るミゲルは、帰国後ラテン語などの勉学に努めていたが、キリスト教を棄教、大村家の家臣となった。だが、ジュリアンの死を聞いて後、衰弱死したとも伝えられる。

 記念館の裏口の扉には大きな手のひら。

 その前には二十六聖人の一人トマス小崎の小さな像が飾られていた。

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二十六聖人記念碑ー少年たちの死と共にキリシタン迫害は始まった・・・長崎紀行①

2016-10-14 | 長崎紀行

 9月末、長崎を旅した。
短い日程の中であらゆる交通機関を駆使して歩き回った。以下、その長崎紀行のあらましを紹介しよう。

 行きの飛行機で、雲の間から一瞬だけ富士山を見ることが出来た。

 長崎駅向かい、NHK放送局横の坂道を上ると、西坂の開けた広場に着く。そこが二十六聖人記念碑のある広場だ。
 約400年前、まだ豊臣秀吉が天下統一の途上にある1597年、この地は凄惨な悲劇の舞台となった。

 「スペインは宣教師を派遣することで信者を増やし、その地の占領を図っている」との噂に危機感を覚えた秀吉は、フランシスコ会宣教師を中心としたキリシタン26人を逮捕、京都から長崎まで引き回したうえ、処刑を実行した。


 その処刑者26人が高さ5.6m、幅17mの幅広いブロンズ板にずらりと並んでいる。遠目には人物がただ一列に勢ぞろいしている青黒い石板としか見えない。だが、碑に近づくにつれ、26人の一人一人が様々な表情、姿勢をしていることに気付き始める。

 最初に目が留まったのは、小さな体の少年2人。

 右から9番目のルドビコ茨木、12歳。最年少の殉教者だ。今まさに昇って行くであろう天を見上げ、一心にその瞬間を見つめている。
 修道院で働いており、神父が逮捕されると、自らも進んで逮捕を願い出たという。なので、道中の途中で役人が「信仰を捨てれば逃がしてやる」と話すと、「つかの間の命と永遠の命とを換えることはできない」と断った少年だ。

 十字架に縛られた時、「パライソ(天国)、イエス、マリア」と、祈るようにつぶやいた。

 隣はアントオニオ、13歳。長崎生まれの中国人と日本人のハーフ。京都でキリスト教の教理を学んでいた。西坂の丘で泣きながら出迎えた両親に対して「泣かないで。私は天国に行くのだから」と、逆に両親を慰めた。

 2人の横で両手を広げ、あたかも悟りの中にいるような神父は、ペドロ・バウチスタ神父。フィリピン総督の使節として来日し、京都、大阪に修道院と病院を開いて日本布教の中心的役割を果たしていた。キリストと同様に針で十字架に打ち付けて欲しいと願い出たが、日本にはそんな習慣はないと却下された。

 もう一人少年がいた。右から20番目のトマス小崎、14歳。同じく逮捕された父ミゲル小崎と共に、大阪で病人救済のために働いていた。
 父の懐には、トマス小崎が母に宛てた手紙が残されていた。「私のこと、父のこと、ご心配下さいませんように。パライソでお会いしましょう」。

 また、ペドロ・バウチスタ神父と同様に全員の中で2人だけ、両手を広げているのが、パウロ三木。槍で突き刺されて殉職したその日も、十字架上で「太閤様始め処刑に関わったすべての人を許します。切に願うのは、彼とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」と、人生最後の説教をしたという。

 今はビルなどで見晴らしは効かなくなっているが、400年前の西坂は広々と広がる長崎の港が一望できた。26人ははるかに広がる海を臨みながら、前後左右から槍で胸を突かれて命を絶った。

 26人のうち外国人の神父、修道士は計6人、あとの20人は日本人の信徒だった。秀吉はこの10年前、1587年に伴天連追放令を出して外国人宣教師追放を掲げていたが、具体的、大規模な行動に出たのはこれが初めてだった。
 この後家康の時代になると1614年に禁教令を出して本格的に日本人のキリスト教信仰をも禁止し、以降250年以上の、キリスト教にとっての暗黒時代が続くことになった。


 彼ら26人の殉教は、ヨーロッパでも広く紹介され、1862年に26人全員がローマ教皇によって聖人の列に加えられた。

 二十六聖人碑を制作したのは、現代日本彫刻界の第一人者、舟越保武。列聖から百周年にあたる1962年に記念碑を完成させた。
 外国人、農民、少年など様々な人たちの姿、表情などを細かく分析して像を仕上げていった。

 例えば、バウチスタ神父を下から見上げると、彼と目が合う。後世の人びとに対しても優しく道を説く姿勢を取り続ける形だ。

 また、全員が裸足で、地に足がつかずにぶら下がった格好。これこそ磔刑の姿だ。ただ、実際は全員土まみれの貧しい身なりでの磔刑だったが、舟越は彼らに盛装を施した姿で表現した。

 舟越は2002年に亡くなったが、その命日は2月5日。405年前26聖人が殉教した日もまさに2月5日だった。

 像の下には「人もし我に従わんと欲せば、己を捨て十字架を取りて我に従うべし」とマルコ伝8章の言葉が記されている。

 また、碑の裏側には、京都から長崎まで彼らが歩いたルートが示されていた。

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