新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

エドゥアール・マネとその時代を歩く⑩ いくつもの謎をはらんだ傑作「フォリー・ベルジェール劇場のバー」、そして遺作の静物画

2017-03-28 | マネと印象派


 病いの中でようやく1882年に完成した「フォリー・ベルジェール劇場のバー」は、実に不思議な絵だ。

 まず、シュゾンの背後にある大鏡に映し出された風景。シュゾンは真っすぐ正面を向いているが、彼女の後姿は向かって右後方に斜めに映っている。全く異なった角度に後姿があるのだ。しかも、彼女と何やら対話している紳士は、鏡だけにしか存在していない。

 反対側を見てみよう。観客たちが鏡に映し出されているが、その上方、白い足が2本!これは何だ。空中ブランコの女性の足に見える。
 だが、本来主役であるはずのこのブランコには、誰も注目していないのだ。

 右下には、鮮やかなオレンジが輝き、ピンクのバラが華やかさを放っている。静物画への卓越した実力をも感じさせるものだ。

 なのに、そんな静物の輝きと対照的な給仕娘シュゾン。皿洗いで赤くなった手をテーブルに突いたシュゾンの、人生に疲れたかのようなうつろな表情は、花と果物が鮮やかなだけに一層、孤独感を際立たせている。

 左下には酒類が並ぶ。いずれも当時飲まれていた実在のビールや酒。ただ、よく見ると、左端のビールのラベルには「mane」のサインが書かれている。
 こんなしゃれっ気もまたマネの持ち味だ。

 それぞれの情景がそれぞれの沈黙の中で時間を止めている。部分部分の現実が集合して完成した絵画、それが一瞬の沈黙を伴って永遠性を帯びてくる。そんな思いに駆られてしまう絵が、この作品だ。

 「芸術とは欺くことである。絵画には、これとはっきり言うことの出来ない謎がなくてはならない」(ドガ)。

 この作品は翌年のサロンに出品され、絶賛を博した。そしてこの作品がマネの最後のサロン出品作となってしまった。

 もう1作、最晩年の静物画を見てみよう。

 「ガラス花瓶の中のカーネーションとクレマチス」。

 実質的に遺作となったこの作品だが、カーネーションのピンク、クレマチスの紫、いずれもが瑞々しく、とても重い病を抱えた人の作とは思えない明るく生き生きとした作品だ。

 評論家ジャック・エミール・ブランシュはこの絵について「彼のパレットから生まれた花は、しおれることがない」と、絶賛している。

 マネは晩年までほとんど花は描かなかった。それが、この時期になって描いた背景には、短い生命を運命づけられ、まもなく枯れて行く花の行く末と、もう幾ばくも無いと自覚した自らの命とを重ね合わせていたのかも知れない。
 
 マネはパリの中心地サンジェルマン・デプレに生まれ、パリに育ち、パリを揺るがす‟事件”を絵画史上に残し、やはりパリの街で天に召された。
 

 近代都市へと華麗に変貌を遂げた19世紀のパリと共に生きた51年の人生だった。

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エドゥアール・マネとその時代を歩く⑨ 傑作の舞台となった「フォリー・ベルジェール劇場」に行ってみた

2017-03-25 | マネと印象派

 モンマルトルのクリシー広場からサンクトペテルブルク通りを南下して行くと、すぐ左手39番地にマネ最後の家がある。1878年にここに越してきて、5年後の1883年に51歳で亡くなるまで過ごした場所だ。

 
 1881年、この家で、マネは生涯最後の大作に取り掛かっていた。すでに彼はその前年頃から健康状態が悪化していた。医師からは田舎での休養を勧められ、一時パリから離れたヴェルサイユで療養するほどだったが、彼の絵への情熱は少しも衰えていなかった。



 新作のテーマは、当時パリで最も人気のあったカフェコンセール「フォリー・ベルジェール」を舞台とした、華やかなパリの夜のひと時を切り取ること。
 カフェコンセールとは、飲み物とともにオペレッタなどの出し物を提供する流行の社交場だ。


 そのフォリー・ベルジェール劇場が今もあると聞いて、出かけてみた。地下鉄ノートルダム・ド・ロレット駅から東方向に約300mも歩くと、朝日を浴びて輝く建物がすぐに見つかった。

 正面の白い壁面中央に、金の浮き彫りがなされている。よく見ると、女性がダイナミックなゼスチャーで踊っている。いかにも華やかな装飾だ。

 両サイドにも金のレリーフ。3つの仮面があしらわれている。

 この日はちょうど休演日らしく中には入れなかったが、元気だったマネもこの場所に足しげく通ったのかと思うと、あの髭のおじさんが劇場内のバーでカクテルでも飲んでいる様子が、おぼろげに脳裏に浮かんでくる思いだった。

 連夜歓楽の饗宴を繰り広げる夜の社交場。ロートレックやドガは主役にスポットライトを浴びる演じ手を選んだが、マネは違った。

 絵の中心に立つのは、バーカウンターの給仕娘。彼女は実際に店で働いていたシュゾンという女性だ。

 ただ、マネには店に出向いて制作するだけの活力は残っていなかった。そこで、友人たちが行ったのは、急遽マネのアトリエにバーカウンターを設置し、シュゾンを連れてくること。
 
 再現された‟劇場空間”で、マネは残された情熱を振り絞って大作にのめり込んでいった。

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エドゥアール・マネとその時代を歩く⑧ 第一回印象派展はオペラ座のすぐ近くで開かれた。そしてマネの茶目っ気

2017-03-21 | マネと印象派

 マネが口火を切ったアンシャンレジームへの反逆は、次第に新たな方向へと模索をし始める。
 保守的権威の象徴であった「サロン」は、依然として既成美術界への受け入れを一方的価値観で識別していた。これに対抗して始まった展覧会が「印象派展」だった。

 第一回印象派展は、1874年4月15日から1か月間、パリ中心部のキャプシーヌ大通り35番地の会場で開かれた。 そこはマネの友人だった写真家ナダールのアトリエ。それだけに、内部は閉鎖された会場ではなく、自然光が十分に差し込む空間だった。


 出品作は、冒頭に掲げたモネの「印象、日の出」を始めとして、ルノワールの「桟敷席」

 セザンヌの「首吊りの家」

 ベルト・モリゾの「ゆりかご」など30人の画家の165点に上った。

 この展覧会は、賛否両論の大きな反響を呼び起こした。「ぼやけた絵」「壁紙のようだ」などの酷評もあり、そんなふうに否定的に引用されたモネのタイトル「印象」が、展覧会の名称となって行った。

 一方で、権威に囚われない自由さ、新鮮さ、心に訴えかける力などを挙げて賛同する評論家も多かった。

 そうした‟事件”となった印象派展は8回続いたが、実は印象派の先駆けとのいうべきマネは1回も出品しなかった。彼にとっては、保守アカデミズムとの戦いの場は、あくまでもサロンだった。そして、一貫してサロンへの出品を続けていた。



 第一回展の開かれた会場に行ってみた。キャプシーヌ大通りは、東西に延びるイタリア大通りが、オペラ座の前で名称を換えた通りの名前だ。

 ちょうどオペラ座通りと交差しており、まさにパリの中心地点。

 5階建てのビルの一角にあったナダールのアトリエは今はなく、ビル全体がファッションビルのように各種のテナントが入っている。

 その前の広い歩道と車道との間にマロニエの並木が連なり、いかにも芸術の都にふさわしいさわやかな通りとなっている。
 私が訪れたのは4月15日。まさに印象派展開催日のちょうど141年後の同じ日。

 すっきりと晴れた青空の下、春の柔らかな陽光が降り注いでいた。

 マネは、明るく社交的な性格であり、立ち居振る舞いは優雅だった。また、いろいろな方面に関心を持つ、能動的な性格でもあった。
 まず、スペインに興味をひかれたマネは、1865年に実際にスペインを旅してゴヤやベラスケスに触れた。

 初めてサロンに入選した作品が「スペインの歌手」だったのも、そんな関心の表現だった。
 また、ジャポニズムへの興味は「ゾラの肖像」の中に見られる。

 人物の背景には力士絵が描かれている。これは二世歌川国明の「大鳴門灘右衛門」の模写だ。

 ここで、もう1つのマネの性格を現す1点の作品を紹介しよう。

 
 1880年に描かれた「アスパラガス」。絵画収集家のシャルル・エフルッシに「アスパラガスの束」という作品を800フランで売買した。ところが、エフルッシは1000フランを送金してきた。そこでマネは「アスパラガスが1本足りませんでした」とのメモを添えて、この1本だけ描かれたアスパラガスの絵を送ったという。

 何という茶目っ気!!
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エドゥアール・マネとその時代を歩く⑦ 作品の背景には、大きく変革する時代の潮流があった

2017-03-18 | マネと印象派

 「鉄道」の話に戻ろう。ここに描かれているのは若い女性と子供だが、真のテーマは鉄格子越しに見える汽車の煙。汽車は後方のサンラザール駅に出入りしている所だ。

 サンラザール駅は、1837年に開業した、フランス西部のノルマンディ地方への出発駅。1860年代に海水浴ブームが始まり、バカンスを楽しむために新興ブルジョワたちは遊覧列車に乗ってしばしの旅行を楽しんだ。
  有名なモネの「サンラザール駅」も、この時代の作品だ。


 こうした社会背景の中で、重要度を増す列車、駅の存在は、時代に敏感な画家たちの格好のテーマとなった。

 オイローパ通りを歩いてみた。サンラザール駅から出発する列車がすぐ真下に見える。
 サンクトペテルブルク通り、ロンドン通り、マドリッド通りと、ヨーロッパ各地の都市名が付いた3本の道が交差する場所に、ヨーロッパ橋が架かる。1860年代に架けられた高架橋だ。
 産業革命の象徴のような鉄道の上にある堅固な鉄骨の橋を強調したこの風景を描いた絵がある。

 カイユボットの「ヨーロッパ橋」だ。

 電化された現在では経験できないが、橋の完成当時は「鉄道」の絵のように蒸気機関車から吐き出される煙が、この橋中を覆っていたことだろう。

 マネが1872年から78年まで使っていたアトリエは、ヨーロッパ橋の少し北側にあった。

 サンクトペテルブルク通り4番地。「鉄道」を描いたのはこのアトリエだ。

 また、そのアトリエから直角に西に延びるのがベルヌ通り。当時はモニエ通りと呼ばれており、アトリエの窓からちょうど真っすぐにこの通りが眺められる。


 1878年6月30日、万博を記念して祝日となったこの日のパリ・モニエ通りを描いた、マネの作品「旗のあるモニエ通り」。

 まったく同じ日のパリの通りを描いたモネの作品もある。「モントグイユ通り」。風にたなびく無数の国旗、通りを埋める市民たちの歓声が街に響くかのようだ。

 対して、マネの絵はどこか空虚。
 よく見ると絵の左端に松葉杖の男が歩いている。マネが左足を切断したのは、この絵の5年後のこと。悲劇を予感させる何かがあったのだろうか?
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エドゥアール・マネとその時代を歩く⑥ マネの絵画に登場する二人の美女 ムーランとモリゾ

2017-03-14 | マネと印象派
 マネは生涯にわたって様々な女性像を描いたが、中でもしばしば登場した対照的な二人のモデルが、彼の作品に一層の光を与えた。

 一人はヴィクトリーヌ・ムーラン

 職人の家に生まれ、16歳ころからすでにモデルとして生計を立てていた。


 かの有名な「草上の昼食」のモデルが、まさにムーランその人。まだ18歳のころだ。

 続いて発表された衝撃作「オランピア」もまた彼女がモデルだった。


 その後、27~28歳の時にも「鉄道」の中に帽子の女性として登場する。

 自立心に燃えた、強い意志の持ち主だった。

 もう一人はベルト・モリゾ

 ブルジョワ出身のお嬢様であり、自らも画家として芸術の道を歩んだ女性だ。



 最もポピュラーな作品は、1868年、知り合ったばかりのモリゾを中心に据えた「バルコニー」。

 さらに、1872年には「すみれの花をつけたベルト・モリゾ」と、彼女の名前をタイトルに付けた作品を制作、近代肖像画の最高傑作とさえ言われる、鮮やかな女性像を完成させた。

 「横たわるベルト・モリゾの肖像」は、モリゾ自身が「最も自分に似ている」と愛蔵していたもの。
 黒い衣装の中から浮き出る白い顔。そこから放たれる強い瞳の輝きは、見る者に突き抜けるような深い印象を残さずにはおかない。

 ムーランとモリゾ。生まれも育ちも異なる2人だが、マネという時代の先覚者によってあぶり出された19世紀に生きた女性像は、パリやその他の美術館で燦然とその存在感を主張し続けている。
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