新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

東京探訪 「千登勢橋」  過ぎ去った季節への哀切を想う瞬間

2017-05-15 | 東京探訪

 ある時期、北海道出身の倉橋ルイ子という歌手の歌に魅せられたことがあった。

 その中の一曲「幾春別の詩」 

 遅い北海道の春。廃坑となった炭鉱の町に吹きすさぶ風の冷たさと、荒涼とした風景を思わせる旋律と情感。 彼女独得の声質によって増幅され、胸に迫った。

 幾つもの春と別れを告げてきた半生を振り返るとき、戻れない時代への哀切を、その歌に見た。


 そして「千登勢橋」。

 別れの歌。
 池袋という盛り場からほんの少しだけ離れた場所。だが、決して人の温もりがないわけではない。

 橋の下には、高速で行き交う車と

 まだ昭和の香りを含んで走る都電荒川線の電車が行き過ぎる。

 大都会の片隅で育んできた 小さな恋。 でもガラスのように壊れやすい恋。
 それは、ちょっとしたきっかけで破たんしてしまうこともある。

 そんな瞬間に、この橋の上で遭遇してしまう。

 何かのはずみで手から離れたハンカチが ゆっくりと踊りながら 橋げたから落ちて行く

 見つめる女の耳元で、男がつぶやく 「さよなら」
 ハンカチと共に はかなく奈落に落ちて行く女の心


 倉橋ルイ子のふりしぼる歌声も、暮れて行く橋のたもとの雑踏にかき消されて ドラマは終わりを告げる。


 夕闇。 遠くにそびえるビル。動かない橋。

 この歌を繰り返し聞いたのは、もう何十年前だったのか。
 一度千登勢橋の上に立ってみたいと、思い続けて、忘れたころ ここにたどり着いた。


 この日も たくさんの人たちが橋を渡り、また橋に佇んで、
 それぞれの思いを胸に抱えながら、一日の終わりを迎えようとしている。 


 
「千登勢橋」 作詞 門谷 憲二  作曲 西島 三重子

 駅に向かう学生達と
 何度もすれ違いながらあなたと歩いた
 目白の街は 今もあの日のたたずまい
 指をからめ いつもと違う あなたの優しさに気づき
 もうすぐ二人の別れが来ると 胸が震えて悲しかった
 電車と車が 並んで走る それを見おろす 橋の上

 千登勢橋から落とした 白いハンカチが
 ヒラヒラ 風に舞って
 飛んで行ったのはあなたが
 そっと さよならを つぶやいたときでしたね

https://www.bing.com/videos/search?q=%e5%8d%83%e7%99%bb%e5%8b%a2%e6%a9%8b+%e8%a5%bf%e5%b3%b6%e4%b8%89%e9%87%8d%e5%ad%90&view=detail&mid=57A11AF3F896AF5CE77557A11AF3F896AF5CE775&FORM=VIRE

明日からしばらくイタリアに行ってきます。そのため6月上旬までブログはお休みしますが、その後はイタリアの新しい風景、祭り、美術などを紹介したいと思っています。よろしく!
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東京探訪 東京三大たい焼き巡り 人形町、麻布十番、四谷

2017-05-12 | 東京探訪

 ある早春の土曜日、友人と夕食の約束をしていたが、夕方まではたっぷり時間がある。そこで、ふと思いついて「東京三大たい焼き巡り」を実行することにした。

 かねて評判の高い老舗の3つのたい焼き店、人形町の柳屋、麻布十番の浪花屋総本店、四谷のわかばを一日で巡り、味比べをしてみようという、何ともまあミーハーなプランだ。


 
 まず目指すは人形町。自宅からの電車の都合で半蔵門線水天宮駅で降り、街路にある火の見やぐらを模した「人形町からくり櫓」を眺めながら歩く。

 歌舞伎や火消衆をデザインした洒落たやぐらだ。

 甘酒横丁を右に曲がるとすぐに、目的の柳屋が見えてきた。というより、たい焼きを求めて並ぶ行列が見え、それで柳屋とわかった。土曜日の午後、意外に列が短い。有り難い。

 とはいってもたい焼きを焼く職人さんは1人だけ。大きな焼き器で一気に10数枚も焼く形式と違って、鯛の型に1つ1つ小麦粉と餡を詰めて焼き上げる作業なので、なかなか進まない。
 
 長い柄のついた鋳物の先に一匹分のたい焼き型があり、その型に生地を敷き、上に餡を入れてさらにその上から生地をかぶせる。それから焼いてゆく。これを通称「天然もの」と称して、大量生産の焼き器に生地を流し入れて製造する「養殖もの」とは区別されるのだそうだ。
 巡回しようとしている三店はいずれも「天然もの」の店だ。

 それでも待つこと約30分。どうにかゲットすることが出来た。すかざず尻尾からガブり。焼きたてとあって、皮がパリパリとして香ばしい。餡は甘さが抑えられている感じ。店の前で何人もがたい焼きにかぶりつく風景が、横丁の風情に似合っている。

 柳屋から人形町の交差点を渡り、親子丼で名高い「玉ひで」の先に、谷崎潤一郎出生の地がある。そこをちょいとのぞいて、次に麻布十番を目指した。

 また、水天宮の建物を眺めながら地下鉄へ。永田町乗換で麻布十番に到着。人形町がそこはかとなく江戸の香りを残した土地だったのに比べて、こちらはまさに都会の街並み。

 駅から3分も歩けば浪花屋総本店に到着する。この店の創業は1909年と、3店の中でも最も古い。創業者が大阪出身だったので、浪花屋という屋号にしたのだという。

 あれ、行列が出来ていない! 「よかった」と思ったのもつかの間、ここでは「今だと1時間半かかります。よろしければ予約を」と機先を制された。こうして行列で通行人の邪魔をしないように配慮しているらしい。それで、早速予約を完了、待ち時間の間に四谷へ向かうことに。

 四谷へは南北線で4駅先。四谷は学生時代,クラブ活動の合間に友人たちとたい焼きの食べ比べをした懐かしい場所。四谷見附橋を渡って数分歩き、左に曲がれば店が見える。

 ところが、こちらは大行列。写真だとよくわからないが、店の角を曲がった所からさらにずらりと人が並んでいた。
 昔の、行けばすぐに買えたイメージが残っていたのだけれども、もう時代は変わっていることが実感できた。

 ここも一枚一枚手焼きで製造する形。2人の職人さんが働いていたが、列の長さに加えて一人で何十個も大量に購入する人も目立ち、結局ここだけで1時間30分もかかってしまった。

 早速店頭でかぶりつく。餡の厚みがずっしりとしており、塩の隠し味が効いているのか甘味の奥深さが伝わってくる。うまい。学生時代がふんわりと蘇る瞬間を味わった気がした。

 さあ、急いで麻布十番へ。予約した時間はもう過ぎてしまっている。でも、店ではちゃんと対応してくれて、滞りなく3番目のたい焼きをゲットすることが出来た。

 ここは、昔大ヒットした子門真人の「およげたいやきくん」のイメージの源となった店。老舗らしい貫禄十分の店構えだ。

 こちらのたい焼きは他の2店よりわずかに小ぶり。味は、小豆を8時間かけて炊き上げた餡の甘さと皮の張り具合のバランスが、さすがと思わせるものだった。


 店からほんの数十mのところにある広場に、小さな女の子の像があった。この子は野口雨情の詩で有名な「赤い靴」の女の子「きみちゃん」の像だ。

 歌詞では、赤い靴を履いた女の子は海外に行ってしまったことになっているが、実はきみちゃんはアメリカ人宣教師夫妻の養女になったものの、夫妻が帰国する際、結核に侵されていて、長い船旅には耐えられないと、麻布にあった孤児院に引き取られ、そこでわずか9年の生涯を閉じてしまった。そんな縁からこの麻布に像が建てられたという。

 作詞者の野口雨情も・生後わずか7日で長女を亡くした経験があり、そんな思いをきみちゃんに重ねながら詩を作ったのかもしれない。

 「赤い靴 履いてた 女の子 」
 まだ たい焼きの甘味を残した口許できみちゃんの歌を口ずさみながら、友人の待つ店に向かった黄昏だった。









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東京探訪 文京シビックセンターから都心を見下ろす

2017-05-09 | 東京探訪

 樋口一葉、石川啄木と、明治の若き天才たちを追う探索を一応終えて、帰りがけに文京シビックセンターに寄った。
 
 ここは文京区役所であると同時に、高さ105mの展望ラウンジを持ち、都心で360度の展望が出来る公共スペース。早速25階の展望ラウンジに上った。

 まず、目に入ったのはやはり東京スカイツリー。さすがに634mの塔は高い。

 新宿副都心方面には高層ビルがニョキニョキと建っている。

 池袋側も高層ビルが多い。

 少し手前には中央大学ののっぽビルが目の前にあった。

 それに比べてあまり目立たないが、写真中央に濃い茶色の時計塔が見える。あれが東大の安田講堂。

 すぐの眼下にあるのが後楽園遊園地

 小石川後楽園の緑が目に染みる。

 こちらは大手町方面

 展望台の中はこんな風になっている。

 ようやく夕暮れが近づいてきた。さあ、家に帰ろう。


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東京探訪・石川啄木編③ 長男の死、母の死、そして自身の死

2017-05-05 | 東京探訪・石川啄木編

 朝日新聞社での仕事は、二葉亭四迷全集の編集を任されるなど責任ある職務にも就いた。
 そんな中、うれしい出来事もあった。1910年(明治43年)10月4日男児誕生。新聞社入社の恩人である佐藤北江の本名である「真一」の名前を息子につけた。

 ただ、この子は生まれながらにして病弱だった。生後わずか27日目にして急死してしまった。
 「夜遅く 勤め先よりかヘリ来て 今死にしてふ子を抱けるかな」


 実は、処女詩集「一握の砂」は長男誕生と同時に出版が決まっており、出産費用にと作業が進められていたものだった。
 結果的にその収入は、長男の葬儀費用へと変わってしまった。

 「かなしくも 夜明くるまでは残りいぬ 息きれし児の肌のぬくもり」の歌は、「一握の砂」の末尾に収容された。

病魔は、家族全員に襲いかかった。1911年(明治44年)2月啄木は慢性腹腔炎で本郷の帝大病院に入院、妻節子も胸を病んだ。
 そんな中、一家は小石川久堅町の貸家に移ることになった。ただ、ここでの生活もあっけなく終止符を打つことになる。

 翌1912年3月に母が死去。後を追うように4月13日午後9時30分、啄木もわずか26歳にして、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、その生涯を終えた。


 死の当日、啄木の詩歌の熱心な崇拝者であった若山牧水が啄木宅を訪れた。
 だが、啄木はまもなく昏睡状態に陥った。

 「私はふと彼の長女がいないのに気づき、探しに戸外に出た。そして門口で桜の落花を拾って遊んでいた彼女を抱いて引き返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかえて、低いながら声をたてて泣いていた」

 
 啄木の終の棲家となった小石川の家は、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅から徒歩7分、桜で有名な播磨坂の途中にあった。常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷があった場所だ。

 幅広い通りから1本奥に入った所にある高齢者施設の一角に歌碑と顕彰室が建てられている。

 歌碑には啄木の死後発行された「哀しき玩具」の冒頭に収められた2首の歌が、直筆を陶板にして刻まれている。



 「呼吸すれば 胸の中にて鳴る音あり 凩(こがらし)よりもさびしきその音」

 「眼閉づれど 心にうかぶ何もなし さびしくもまた 眼をあけるかな」

 これらは啄木の病死から約2か月前。次第に悪化して行く病状の中で徐々に心も折れそうになる心情をうかがうことが出来る。

 碑に使われた石材は、啄木の故郷姫神山の石を取り寄せて使用したという。

 また、顕彰室には年表、写真パネルなどによって啄木の生涯が開設されている。これらの施設は2015年3月に完成したばかりだ。

 こうした探訪の旅をしている途中で、こんなポスターが鉄道駅構内に貼ってあるのにお目にかかった。肺結核への注意を喚起する内容だが、ここに登場する人たちはいずれも今回の旅に関係する文人ばかり。
 樋口一葉24歳、滝廉太郎23歳、正岡子規34歳、そして石川啄木26歳。

 あまりにも短かった生涯に、改めて息をのんでポスターを見つめた数分間だった。
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東京探訪・石川啄木編② 2度目の転居。朝日新聞社勤務を始める

2017-05-02 | 東京探訪・石川啄木編

蓋平館別荘での生活が始まったが、それもほどなく解消されることになる。詩歌を創作する日々の中で、しばしば雑誌などに掲載されることもあったが、中には全く原稿料が支払われないこともあり、生活の見通しは一向につかなかった。

 そんな中啄木は、朝日新聞編集長佐藤北江が自分と同じ盛岡中学出身ということを知り、全く面識がないにもかかわらず求職の手紙を書く。
 すると、意外にも面会承諾の返事が届いた。そこで啄木は自らの作品が掲載された雑誌などを持参してPR。佐藤も、かつて啄木が自らと同様に地元の新聞社で働いていたことを知って、話が弾んだ。

 数週間後、啄木の許に採用の知らせが届いた。ただ、希望した記者ではなしに「校正係」。それでも金銭的な問題の解決には大きな朗報だった。

 「暗き十か月の後の 今夜のビールはうまかった」。

 これを機に啄木は盛岡に残してきた家族を呼び寄せることを決め、上京後2度目の引っ越しを行う。新しい住まいは本郷弓町2丁目の「喜之床」という理髪店2階だった。

 その場所を訪ねた。現在の春日通りと、一葉探訪の時に歩いた本妙寺坂との交差点付近に、今も理髪店を営む「バーバーアライ」のあるところだ。

 ここの標識によると、「喜之床」は1908年の新築以来関東大震災や東京大空襲にも耐えたが、春日通りの拡張に伴って改築されたという。

 その旧宅は今、犬山市の明治村に移築されている。

 標識には、この地で創作した歌「かにかくに 渋民村は恋しかり おもいでの山 おもいでの川」が載せられていた。

 ここでの啄木は、新聞社に勤めながら創作の日々を送っていた。

 当時の朝日新聞社は銀座6丁目にあった。啄木は電車の回数券を買い、車内ではドイツ語の勉強をしながら通ったという。この時期、朝日新聞社には夏目漱石も在籍していた。

 今は同社は築地に移転したが、跡地横に啄木の記念碑が立っていた。啄木の肖像と共に、勤務時代の社内の模様を描写した歌が刻まれている。

「京橋の 滝山町の新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな」
 新聞社は、朝刊の締め切りが夜になるので、昼よりも夜の方が活気づく。そんな社内の雰囲気を表現した歌だ。

 碑の裏側にキツツキが留まっていた。キツツキとは啄木鳥と書く。

 彼がキツツキをペンネームにした理由は、キツツキがカンカン木をたたく音を社会への警鐘と捉え、自らも社会への警鐘を鳴らす存在でありたいとの気持ちを込めて名付けたのだという。





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